Sorry,this fanfiction was written in Japanese.

第十一章 黄金の結婚指輪

 デミトリは追いつめられていた。
 敵は魔王ベリオール。
 魔界最強の男。
 辺りは濃厚な闇の気配が満ち、デミトリは彼本来の姿でその中を羽ばたいていた。うかつに近づけないので、遠くから隙をみて召還した蝙蝠を放つ。
 だがたいがいは、魔王の魔力の防御壁によって防がれ、その肌に届くものは少ない。
 例え届いたとしても、効いているのだろうか。
 蚊に刺されて貧血になる人間がいないように、彼が攻撃を続けても深刻なダメージは与えられないのではないか、疲れのみえはじめた彼の脳裏をそんな思いがよぎる。
 狼も自分の3倍もの大きさがある動物には挑まないという。
 デミトリとベリオールの体格の差は数十倍はあるだろうか。
 だが、自分は挑んだ。それは無謀な挑戦でしかなかったのか?
 ベリオールは未だ彼の4本の腕のうち、2本を組んだままだった。
 自分を相手にするには、いわば「片腕だけで十分だ」ということか。
 デミトリの口元が歪む。
 自分を空中の蝿でも捕まえようとするかのようにたたき落とそうと伸ばされる魔王の巨大な腕をかいくぐる。
 実際魔王の小山のような巨体を前にしては、彼の姿は人のまわりをひらひら飛ぶ蛾程度にしか見えないだろう。
 魔王の顔辺りを狙って身構えた彼は魔王の手元で何かが光ったのに気がついた。
 あわてて翼をたたみ、数メートル落下した後で、右へと逃げる。
 そのすぐ上の空間をまぶしく輝く光の矢が突き抜けていく。
 スケイルフォトン。
 魔王の必殺技だ。
 魔力の塊を矢の形にして、高速で放つ。
 その威力は絶大で、ジェダやガルナンのような三大貴族の当主でもまともに食らえば、即死するといわれている。
 しかし、その矢自体から感じられる魔力の波動は魔王から放たれている強大な気配に比べて、小さなものだった。
 威嚇射撃か。
 魔王に弄ばれているのを実感する。
 だが、ここまできて負けることはすなわち、死を意味する。
「ファイア!」
 彼はベリオールに向けて蝙蝠を飛ばしたが、その蝙蝠は魔力の矢にあっさりと串刺しにされ、消滅した。
 そして魔王は数十本の矢を次々にデミトリめがけて放った。
 続けざまに多くの矢が放たれたため、そのひとつひとつの威力は小さかったが、到底かわしきれるものではない。
 その内の一つに翼の膜の部分を射抜かれ、デミトリは失速した。墜ちる途中で必死に羽ばたき、地への激突を免れる。
「くっ!」
 ベリオールを見上げた彼の目に眩しい光が満ちた。
 魔力の矢は彼の心臓を貫き、彼は深い闇へと墜ちていった。

 恐怖のあまり目が覚めた、彼の赤い瞳を緑の瞳が覗き込む。
「どうしたの? 随分うなされていたみたいだったけど。」
 心配そうに声をかけてきたのは、彼のこよなく美しい妻だった。
 金糸で刺繍された黒い寝間着を身にまとい、胸元まで銀髪を垂らしている。
「いや、何でもない。」
「そう? それならいいのだけれど。」
 そういって彼の妻は彼を抱き寄せ、その頭を自分のひざにのせて優しく、彼の髪を撫でた。その左手の薬指には彼とお揃いの金の結婚指輪がはめられている。
 その家事というものに縁のない手は、柔らかく滑らかで、彼の心は慰められた。
「何も、恐れることはないのよ。私がついているわ。」
「ありがとう。」
 彼の妻は彼の唇にそっとキスをした。全ての不安をぬぐい去るような口づけ。
「今日のパーティは楽しかったわね、デミトリ。」
「そうだな、モリガン。」
 その言葉に彼は遠い過去を回想した。

 百年前、ガルナンが死んだ頃、モリガンに襲われたデミトリは精神と肉体の極度の衰弱から、しばらく自分の城に引きこもった。淫魔の小娘にしてやられたという事実は、彼の野心を挫くにたる事実だった。だが、彼が城にこもっていた一年の間に魔界の歴史は大きく動いた。
 冥王ジェダが「魔界の扉」を開き、魔王ベリオールに反逆を試みた。ジェダはベリオールをあと一歩の所まで追い詰めたが、結局殺された。
 その夜、デミトリは密かに祝杯をあげた。
 こうして、戦いに背を向けたデミトリはジェダが死んだ後、魔界でベリオールに継ぐ地位を得たのだった。
 そして、ベリオールはジェダとの戦いの傷が元で急死し、後はモリガンが継いだ。
 多くの魔界貴族が好機と見て、反逆を企てたが、戦い好きで優れた戦士である新たな魔王によってすべて潰された。
 あの女とは二度と戦いたくない、それがモリガンと戦って命を残された男達に共通する本音だった。
 デミトリも同じであったので、彼は魔王に挑戦すること無しに、自らの魔界貴族としての地位の安定につとめた。
 そんなある日のこと、楽士のピアノに耳を傾けながら、カミーユの酌でブランデーを楽しんでいた彼に青ざめた顔で、イザベラが告げた。
「デミトリ様、魔王陛下がおいでになられました。」
「……! そんな約束はしていないはずだが。」どうせ気まぐれだろうが、魔王にいきなり来られたのではかなわない。
「はい。どういたしましょう。」
「会うしかあるまい。」
 久しぶりに魔界一の美貌を見られることに対する甘い期待と、かつて彼女から受けた仕打ちによる苦い屈辱感が同時に彼の胸に湧き起こってくる。
 魔王陛下のご訪問ともあらば、当主自ら出迎えねばなるまい。
 軽い溜息をついて彼は杯を干した。
 応接間のソファに座っていたのは、以前より更に輝きをました様に見える美女。
 儀礼的な挨拶をかわした後、デミトリは不審げな顔で切り出した。
「いまさら私めに何の御用であられますかね。魔王陛下。」
「あら、いい話を持ってきたのよ。マキシモフ公。……別に敬語はいいわ。私と貴方の仲じゃない。」どんな仲だと内心で毒づく。
「それでは失礼して……。いい話は君にとってだろう。」
「どうかしら。ベリオール様が死んでしばらくたつわ。でも、私には魔王の地位なんてうざったいだけだし。それであなたにそれをプレゼントしようと思って。」
「どういう意味だね。君が魔王の地位を放棄すると宣言したところで、魔王の正当な後継者は君以外にいないと、皆信じているが。」
「でも、たったひとつだけ誰もが納得する魔王の座の譲り方があるわ。」
「……何かね。」
 嫌な予感がする。思い出したくもない過去を思い出す。
「私と貴方が結婚すればいいのよ。」やっぱり……。
「かつて、私の求愛をあれ程までに手痛くはねつけた君が、そんな事をいうのかね。」
「状況の変化のせいよ。そうすれば、貴方は魔王の座を手に入れられるし、私はややこしいことを全て貴方に任せて遊び回っていられるわ。」
「自分が楽をするためなら、どんな手でも使うか。実に賢い姫君だ。」
「ふふっ。」モリガンは悪戯っぽく笑った。
「他に条件は? あるのだろう。」
「寝室は別にしたいわ。」
「では、断る。」
「そんなこといわないでよ。気が向いたら、貴方の寝室を訪ねてあげるから。」
「逆はありかね。」
「なしよ。」
「ほおほお。では、君が私の部屋に来たときに、私が君の誘いを断る権利は。」
「ないわ。」
 要は、モリガンは好きなときにデミトリの肉体を楽しむ事が出来るが、デミトリは待つしかないし、求められたら断れないという女性優位の極みのような条件である。だいたいそれでは気が向かなかったら、百年間デミトリをほったらかしにすることも出来るではないか。
「それは逆ではないかね。」さすがに憮然としてデミトリが返す。
「そうかもね。でも、そうでなければいや。」
「それと、マキシモフの姓は捨ててもらうわ。デミトリ・アーンスランドと名乗って頂戴。」
 デミトリは男としての誇りと魔王の座を天秤にかけて、深刻に苦悩した。
 しかし、結局「いくら家庭内で妻の尻に敷かれようとも、それで魔界最高の地位が手に入るなら」という選択を彼はするのである。
 そして長い歳月が流れた。
「遅くなって、ごめんなさい。すぐ支度するから」
 窓から飛び込んで来たモリガンは、デミトリの前でばっと羽根役の蝙蝠を散らした。
 そこは魔王の城の一室だった。窓辺の花瓶では、白い薔薇が淡い光を放っている。
「どこへ行っていたのかね。」
「ちょっと人間界まで遊びに行っていたの。」
「またかね。今夜は君が主役の重要なパーティーなのだ。間に合わなかったらどうするつもりだね。」
「ふふっ。」
 モリガンは花のように笑ってごまかした。
「それに、デミトリ。主役は私じゃなくて、私とあなたのふたりでしょう?」
「ほう。なんのパーティーかは覚えていたようだな。」
「もちろんよ。私とあなたの百回目の結婚記念日よね。」
「その通りだ。」
「待ってて、すぐに着替えて来るわ。」
 デミトリの頬に軽いキスをして、モリガンは走り去った。百年前と変わらぬ美しさで。

「落ちついた?」
 寝巻姿のモリガンの声が彼を回想から引き戻す。
「ああ。君と出会ってから百年か。早いものだな。会ったときには、まさか百年添い遂げようとは思っていなかったが。」
「そうね。でもね、デミトリ。私はあなたが夫でよかったと思っているの。」
 モリガンが甘えた仕草で彼の胸に頬を擦り寄せる。結婚したての頃はろくに寝室も訪ねてくれなかったのに、さすがに長年の生活の中で情がわいたのか、近頃の彼女はすっかり彼を慕っているようだった。
「私のかわいいひと……。」
 厚い胸に柔らかな唇がつけられる。
「抱いて。あなたが欲しいわ。」
 彼の心のどこかで微かに警鐘が鳴った。何かがひどくおかしい。
 デミトリのわずかなためらいを見抜いたように、モリガンがするりと背中に腕をまわす。抱き寄せられ、豊かな胸に顔を埋めた彼を原始的な安心感が包む。
「愛しているわ。」
 その言葉はこの上なく甘く、優しく、彼の心をとろけさせていく。
「私も愛しているよ。」
 そう答えて、デミトリは官能的な香りのするモリガンの肉体を抱きしめた。

 目が覚めるとモリガンは、ついたてで囲まれた中にいた。
 手には手錠がはめられ、足にも重りがついていた。
 側には見張りが二体。そのうちの一体がモリガンの手錠につながった鎖を握っている。細身の、しかし不気味な力を感じさせる者たちだった。
 天井を見上げる。かなり高い。天井は青みを帯びた黒っぽい灰色の石で、鏡のように磨かれていた。
 その豪華な造りから、ここは立派な城の大広間であろうと検討をつける。床に目を落とす。自分の横たわっていた、毛並みのよい深紫のじゅうたんは、玉座に続いているものではなかろうか。
 もう一度、天井を見上げる。灰色の中に小さく自分が映っている。前の方を見ると……玉座に座っている者の、頭とひざが見えた。
 ジェダ。
 目覚めたときから、予想はしていた。だが、小さくとも姿を目にすると、確信は怒りに変わった。
「ジェダ。そこにいるのね。姿が見えているわよ。」
 モリガンは声をはりあげた。
 ジェダは一瞬まわりを見回してから、ああ、という感じに天井を見上げた。モリガンと視線が合う。そして彼は玉座から降り、すすっとモリガンの視界から消えた。
「お目覚めかね。」
 ジェダは玉座から、少し離れた所にいるようだった。
 声の感じからそう判断する。
 視線を合わそうとしないのは、罪悪感からではなく、誘惑を警戒してのことだろう。
 その姿を見ないことは、淫魔と冷静に話をする上での鉄則である。
 デミトリの二の舞いは踏むまじってことね、賢明な判断には違いないわ。
 モリガンは下唇を噛んだ。
「よくも欺いてくれたわね。」
 ついたての向こうに声を投げる。
「君には悪いことをしたね。デミトリが扉付近で私の邪魔さえしなければ、最初の交換条件で、無事に家まで送り届けても良かったのだがね。」
「なぜ、デミトリが邪魔したから私が捕まるの。デミトリと私の間に、どういう関係があるのよ。」
「肉体関係が。」
 冥王は無機質なほどさらりとその言葉を言ってのけた。
「私を人質にしたって、彼は『扉』をあきらめたりはしないわよ。」
「もちろん、彼は君を渡して欲しければ、この先ずっと『扉』の近くに寄るな、と言われても承知しないだろう。しかし、例えば……二週間だけ近寄るなと言われたらどうかな? その二週間の間にかなりの遅れをとるかもしれないと思いつつも、同意するかもしれないだろう?」
「なるほどね……少しばかり優位に立つための交渉の道具には十分ってことね。」
 ついたての向こうを睨み据えてモリガンは言った。
「そういうことだ。自分の立場がおわかりかな。」
「それじゃ、私の未来はデミトリ次第なのね。」
「その通り。彼が君欲しさに私の言うことを聞けば、多分、命は助かるだろう。下僕か玩具か、その先は私の知ったことではないね。もっとも、彼なら自分の手で止めを刺すために君をよこせと言うかもしれないが。」
「もし、彼が断れば?」
「私はすぐさま君の魂を救済してあげよう。光栄に思いたまえ。」
 モリガンはその意味を考え、皮肉に言い返した。
「あら、有り難い話ね。魔王に対する人質とかいうのは考えなかったの?」
「もちろん考えたが、部下たちから話を聞いて、長く閉じ込めて置くには危険な女と判断した。君にしてやられたデミトリは欠点の多い男だが、いわゆる莫迦とか無能とか言うのとは違うのだからね。」
「欠点だらけよ。それじゃ、私の立場は逃げ出す前より悪化したのかしら。」
「そういうことだ。そもそも、君は私の結界にひっかかった時点で、墜落死している筈の身だ。今日まで生きられただけ、幸運と思うべきではないかな。」
「あなたの結界ですって?」モリガンは驚いて聞き返した。
「おや? 知らなかったのかね。デミトリは君に自分が君の命の恩人だと言わなかったのか? 彼らしいね。彼が君を助けたおかげで、こちらは部下を三体ほど殺され、闇鴉の報告を受けるまで落ちつけなかったよ。」
 モリガンは手首の鎖を見つめて沈黙した。
 デミトリは一言もそんな事は言わなかった。それは「私ではなくジェダがやったのだ」と言った所で証拠もなく、モリガンに信用されずに、見苦しく思われるだけだと考えたからか。それとも、モリガンに「恩着せがましい男」と思われるのは本意でなかったからか。どちらにしろ、その真実を明かさないことこそが彼の矜持だったのだろう。
 自分は彼を誤解していた……というよりは彼に騙されていたのだが、モリガンは少しだけデミトリにすまないと思った。だったら、もうちょっと優しくしてあげてもよかったかもしれないわ。
 黙り込むモリガンにジェダは声をかけた。
「話はこれでおわりだ。それでは、君は部屋に帰って寝ていたまえ」
 ジェダのいる辺りから、小柄な足音が走って来て、モリガンのいるついたてをずらして入って来た。
 上品な青の服に身を包んだ、小鬼だった。
 その従者は、すばやくモリガンの鎖を握る者のうち一体に指文字で何かを告げると、さっとカーテンの向こうに消えた。
 外に連れて行け、と告げたに違いないと思うと同時に目隠しをされ、手の鎖が引かれた。そのまま、モリガンは玉座の間の外に連れ出された。

 デミトリは、モリガンが去ったあと、カミーユ達によって発見された。
 彼は一日目を覚まさず、側近や女達を心配させた。
 精気を吸い取られた体は石のように重く、身動きすらままならなかった。だが、医師は「挫いた足の他に外傷らしい外傷はないので、一週間も寝ていれば大丈夫ですよ」
 と告げた。
 医師が退出した後、やつれたデミトリがイザベラに最初に聞いたことは、
「モリガンはどうした」だった。
「お逃げになりました。行方はわかっておりません。また、アーンスランド家からも何も言って来てはおりません」
「……わかった。後で状況を詳しく報告するように。その際に責任者の処罰も決定する」
「かしこまりました」
「喉が渇いたな。」
「すぐに用意致します。生き血でございますか。」
「水……いや血を。」
 正直食欲など皆無だったが、衰えた体力を回復するためにはいやでも飲まねばなるまい。
 イザベラは退出した。
 デミトリは独り、ベッドの天蓋を眺めた。
 そしてモリガンに見せられた「甘い悪夢」を回想した。
 思い出すだけで胸が酸に灼かれるような、決して他者に語れない夢。
 普通にいうような意味で淫靡なのでも、凄惨なのでもないが、デミトリにとっては淫蕩で残忍な夢の方がむしろ自分を恥じることがなかったに違いない。
 彼はあの夢の中での交わりに至福を感じた自分が、どうしても許せなかった。
 この私が少しでもあの様な望みを抱いていると言うのか……!
 甘い、まさに甘いその夢が終わる間際に、夢の中で見た、モリガンの姿が、声が心から去らない。
彼女は慈悲さえ感じさせるほどの眼差しで、この上なく彼を追いつめる言葉を残した。
「あなたは恐れているの。ジェダを。ベリオール様を。
 そして、自分の死を。
 あなたが望むのは逃走。
 あなたが求めているのは、安らぎ。
 ふふ。野心なんて捨ててしまいなさい。
 その方が楽よ、ねえ。」
 ただ、単に口でそういわれたのであれば、彼は「莫迦な」と笑って聞き流したろうが、夢として明確に見せられると、自分は本当は甘く臆病な男なのではないかという疑念が焼けた火箸のように心をかき回す。
 我知らず、シーツに爪を立てる。
「あの女……!」
 しかしモリガンはどうしただろうか。捕まらなかったということは魔王ベリオールの城に帰り着いたか。彼女は告げるだろうか、自分のしたことを。
 そうなったら、万事休すだ。
 とはいえ、逃げた彼女に対して今更何が出来る?
 デミトリは深い溜息をついて、枕に片頬をつけた。
 このまま、一生ふて寝をしていようかなどと、普段なら決して考えないようなことを考える。
 だが、それではあの夢を現実にしてしまう。それは本当にサキュバスの支配に屈することだ。それだけは、それだけは絶対にあってはならない。
「デミトリ様。食事をご用意しました」
 イライザが告げ、彼のベッドのそばに薬で眠らされた若い女が運ばれて来た。
 イライザは召し使いに命じて、デミトリのベッドに女を寝かせた。
「さあ、どうぞ。デミトリ様」
 デミトリは目の前にいるのが「おいしそうな女」だというのはわかったが、「おいしそう」とは感じなかった。しかし、彼はベッドのカーテンを引き、渋々女の喉に口をつけた。
「いかがですか」
 食事の後、イライザがたずねると、デミトリは「眠るための柩」を持って来いとだけ言った。
「とりあえず、三日ほど私は眠るので、誰も起こさないように。」
 という言葉を彼は残し、柩にもぐりこんで寝息もたてずに眠り込んだ。実に無責任なせりふだったが、書類を読むのさえ目がかすんで難しいという体調では他に仕方もなかったろう。
 イザベラはため息をついたが、すぐさま毅然とした表情になって、三日間の間になすべきことを考えた。

 ドーマ家当主の城に捕らえられて一週間、モリガンは
「デミトリの時の方が優雅な監禁って気がしたわね」
 と不満を漏らした。
 貴族の姫君の部屋らしく、豪華に調度を整えた牢獄の方が、変と言えば変なのだが、この部屋は実に牢獄らしく、殺風景だった。
 部屋は狭くて一つしかなかった。その隅に穴に近いトイレと体を拭くための布と水桶が置いてある。天井も、壁も冷たい石作りで、これまた頑丈そうな扉は鉄だった。
 鉄格子のはまった窓は、モリガンを閉じ込める際に鉄板でふさがれ、ススで汚れたランプだけが明かりだった。
 ベッドは堅い木の寝台で、古い木らしく節穴が抜けていた。シーツと毛布は一応洗ったばかりのものではあったが、シーツは黄ばみ、毛布は色あせていた。枕は小麦粉の麻袋にぼろきれをつめたもので、端が破けていた。
 モリガンの服装はさすがに囚人服ではなく、二日に一枚ずつ支給される白い綿の飾りのない下着と同じく白のワンピースを着ていた。
 逃げるときに持ち出した、高価な宝石類や香水、化粧品は取り上げられたので、クシと石鹸、小さな手鏡だけが、「絶世の」と言われた美貌を磨くための道具と言えた。それを飾るのは、若いオリーブの雫の瞳と咲きかけの薔薇の唇のみ。
 素顔で、銀髪を白い服に垂らしただけの姿でも、その仕草や微笑みから色気や気品が失われることはなく、殺風景な牢獄の中で、モリガンは美しかった。
 食事は三日に一回、薬で眠らされた男がドアの下の、高さ三十センチほどの小さな扉から押し込まれてくる。
 男の精気が吸えるのはデミトリの時よりいい待遇と言えたが、モリガンは多いに不満だった。
 男の質が悪い。
 これまでに与えられた三匹は食用奴隷や犯罪者だった。
 腹の出た中年から、痩せっぽちの少年まで、男なら誰でもいいだろうと言わんばかりである。
「ああ、もう。なんでみんなこんなに不細工で、下品で、馬鹿で、下手で、弱くて、話がつまんないのかしら!」
 淫魔の餌として投げ与えられる男が、美貌だったり、上品だったり、賢明だったり、床上手だったり、力強かったり、話術が巧みだったりというような長所を持ち合わせるはずがないのは、モリガンにも理屈としてよくわかった。が、あまりにも「私の舌は肥えているのよ!」という事実を無視されていて、モリガンは憤懣やる方なかった。
「本当に生きてても、役に立ちそうにない連中ばっかりね!」
 脳みそについては、むしろ意図的に頭の悪い者たちを寄越しているのではないか、とも思えた。ドーマ家の内部情報が漏れるのを防ぐために。
「有り得るわね。みんな、奴隷や犯罪者とは言え、あまりにもここの事情に疎いもの」
 すでに一月にはなろうという監禁生活で、独り言を言うのに慣れてしまったモリガンはつぶやいた。
 新しい餌が来て、その日はその餌と話したりするのだが、奴隷の過去など面白いものではない。
「やっぱり、強引でさえなければ、デミトリっていい男の部類に入れてもいいわよね」
 食べかすをドアの下の扉から押し出して独りになった後、モリガンは考え込んだ。 
 逃亡の際に、ジェダの手を借りたのは、確かに失敗だった。
 しかし、金も無く、女独りでは途中で怪しまれて捕まった可能性も高い。
 やむをえない選択だったと、言えないこともないのだが……。
「本当に男って信用出来ないわね」
 かび臭い石牢で、モリガンはふうとため息をついた。
 この牢から逃れる手段は無さそうだった。
 牢屋の扉自体は前回ほど鍵が厳重ではないが、小さな扉から出し入れされる「餌」を除いて、出入りする者はいない。だから、扉が開いた隙に出ることは出来ない。
 「餌」用の扉から出るためには、一瞬にしてはいずり出るという、蛇女のような芸当が出来なくてはならない。もぞもぞとはい出ようとしたら、上半身が出たところで胴体を真っ二つにされるのが落ちだ。
 もちろん、見張りもいる。その見張りに「おなかが痛いの。お医者さん呼んで」とか嘘をついても、デミトリの城から逃げる時のように、スパイ役のアデュースがいないので、この牢屋から出ても、城の中で道に迷う可能性が高い。
 もちろん、前回のように城の外の道案内はいない。
 それに、デミトリの城の時は「私を殺せとは言われていないはず」と警備兵たちに言って、時間稼ぎが出来たが、ジェダは間違いなく、警備兵たちに「逃げようとしたら殺せ」と命じているだろう。
 たった独り、警戒厳重な冥王の城から抜け出せるか。徒歩で自分の城まで逃げられるか。
 その方法はありそうになかった。
「……デミトリ。私の生死はあの男次第……。」
 では、デミトリに自分が引き渡された場合、どうなるか。
 デミトリは今度こそ、容赦などするまい。
 すぐさま、モリガンの手足を鎖で縛るなどしたうえで、吸血するだろう。
 いや、それでもましな方かもしれない。
 散々虚仮にされた復讐のために、日夜拷問した上で、残忍な手段で処刑するということもありうる。
 となると、ジェダから再びデミトリの手に引き渡されたら、さらに事態が悪化するとみていい。
「随分彼を虐めちゃったものね。でも、吸血鬼の虜になる位なら、今ここで自殺した方がましね」
 闇の中で銀髪をかきあげつつ、粗末な手鏡の中の自分に向かって宣言する。
 逃げるチャンスがあるとすれば、自分の身柄がジェダから、デミトリに引き渡されるその時だ。
 モリガンは陰気な石牢で深いため息をついた。
 結局、自分に今出来ることは待つことしかないのだ。

 デミトリが柩から起き上がったのと同じ日に、ジェダからの隠密の使者が到着した。
 モリガンの身柄は預かっている。渡して欲しくば、これから十日間、ギラ=ギララ山には近づくな。
 要約するとそういう内容だった。
 証拠として、モリガンの髪の毛一房と、彼がモリガンに与えた首飾りが同封されていた。
 デミトリは、モリガンが魔王のもとへと逃れたのではなく、ジェダの虜囚となっていることを知り、驚いた。
 だが、彼は悩んだすえ、ジェダの言うことに従うことにした。自分が拒否すれば、ジェダはモリガンを殺すだろう。たぶん、彼の力なら、それが可能だ。自分以外の者の手によってモリガンが殺されるというのは、彼にはあってはならないことのように思えた。例え、それが関係性に対する妄執であろうと、譲れはしない。
 参謀のキーツは「わざわざ近づくなというということは、その間に重大な計画を進めるつもりに違いありません。お気持ちはわかりますが、ここで冥王様に遅れをとる訳にはいかないのですよ」と言ったが、デミトリは首を縦に振らなかった。
「だが、何もしないで待つというのもなんだな。扉の使用方法についての研究はどうなっている?」
「そのことでございますが、例えば冥王様などとちがい、当主様は一度に上限なく魔力を吸収できるような能力を残念ながらお持ちあわせではございません。ですから、戦闘中に少しづつ魔力を得ることが出来るかどうかが勝利の鍵でございます。」
「なるほど、それで?」
「なんらかの手段で、空間をゆがめ当主様と魔界の扉を繋がなくてはいけません。それには、かなり大がかりな魔術の装置が必要になります。ですから、それはこの城の地下に設置いたしましょう。この装置の力で特殊な力場を発生させ、それを中継地点として当主様に直接魂を送ります。」
「ふむ。それなら、ベリオールに挑むことが出来よう。しかし、その前に現在事実上その扉を管理している、ジェダをなんとかせねばな。」
 デミトリの憔悴した顔の中で、目だけが炭火の様に燃えていた。
 当主様はまだ野心をお忘れではない。
 その安心感は彼の様子を見守っていた側近たちの胸に、細波のように広がっていった。

 一匹の蝙蝠が、デミトリの城の塔の軒にぶら下がっていた。
 アデュースだった。彼は、近くのアーンスランド家の領地の、モリガンの別荘にたどり着き、そこにいた予備の蝙蝠部隊を集め、必要な金銭などを手に入れて、再び、デミトリの城に入り込んだのだった。
 この城は、もはや彼には「勝手知ったる」という感じで、廊下で迷ったりなどはしなかった。だが、モリガンの逃亡後、ひたすら警備は厳しく、これで警戒心の強い城主が床に伏せっていなければ、とても入り込めたものではなかっただろう。
 アデュースは、アンナからモリガンの逃亡後、何が起こったかを聞き出した。
 ジェダがモリガンの身柄と引き換えに、しばらく魔界の扉に近寄るなと言ったことを知ったアデュースは「そうか、そういうやり方もあったか。だけど、本当に扉を巡る争いは大詰めという感じだね」とつぶやいた。
 そして様子を伺っていたある日、デミトリが領主にしては少数で、旅の支度を始めた。
 アデュースは、行く先は「扉」と直感し、蝙蝠部隊を引き連れて、なるべくアーンスランド領を通りながら、ギララ山に向かった。

 ある日、牢のモリガンに小窓から、一通の手紙が差し入れられた。
 筆致流麗な手紙にはこういう意味の事が書かれていた。
「数日後に君を牢から出す。そして、ギララ山の頂に連れていき、そこでデミトリに引き渡す」
 要は、モリガンを餌にデミトリをギララ山までおびき寄せ、罠にはめようと言うのだ。
 しかし、デミトリは来ないだろう、モリガンはそう思った。自分が彼の精神につけた傷は深いはずだ。サキュバスに悪夢を見せられて後も、それまでの生き方を貫ける男などまずいないはずである。潔癖な男は淫蕩に、努力家の男は怠惰に、誇り高き男は卑劣に……自分に対する疑念から男達はそれぞれ身を堕としていく。
サキュバスが「夢を奪う魔物」といわれるのは、そういうことでもある。彼女らは襲われた者の夢や野心を戯れに捻り潰す。
 彼が、ジェダの元に独りで赴くなど、命がけどころの騒ぎではない。
 デミトリが来なければ自分は殺されるのだ。だが……仕方がない。
 体調も万全ではなく、心に傷を負った状態では来れたところで、彼はあっさりとジェダの手にかかるだろう。それを考えるとむしろ来ないで欲しかった。デミトリが敗れたとしたら、自分はたぶんジェダに殺される。大人しく殺されてやる気はもちろんないが、勝てそうな相手ではない。
 どっちにしろ、自分を生かして返す気など冥王にはないということか。
 モリガンはジェダの線の細い知的な顔を思い浮かべて、唇を軽く噛んだ。
 
 
 ギララ山の麓で人間の姿に戻ったアデュースは山麓の森から空を見上げた。
「デミトリ様はもう着いているのかな。ここまで来て逃げたり……するかも知れないな。お嬢様に襲われて一月足らずだもの。随分とあの悪夢が堪えてるだろうし。でも、とりあえずこの八千キロ以上もある山を登って様子を見るしかないか。やれやれ、大変そうだな。警戒も厳しそうだし。まったくもう、モリガン様があの日人間界に遊びに行こうとさえしなければ、今頃は優雅にフルートでも吹いていられたのに。」
 彼は、周囲を飛び回っている他の蝙蝠たちに、これからのことをそう説明した。半分は愚痴だったが。
 その時後ろの森から、はっと誰かが息を呑む気配が伝わってきた。
 アデュースがさっと振り向くと、逃げようとしているのは、淡い金髪に白磁の肌の美女。
「捕まえろ!」
 隊長アデュースの命で蝙蝠達は、ばさささと飛び立った。
 彼らは生ける黒雲の様に淡い緑のドレスの彼女を取り囲む。そして彼らは細い皮ベルトの様に瞬時に変形し、その体を戒めようとする。
 美女も綺麗に塗られた爪の生えた手で、蝙蝠達を次々たたき落とすがいかんせん数が多い。
 ついに美女は足を蝙蝠の変形したベルトに巻き付かれて、転倒した。
 急いで上半身を起こした彼女のまえに、アデュースは片膝をついて顔を覗き込んだ。
「あなたは……確か、モリガン様の……」
 美女はアデュースを見てうめくようにいった。
「良く憶えていらっしゃいましたね。あなたはカミーユ様ですね。」
 カミーユ達デミトリの供はここ、麓で待つようにと言われていたのだった。
「とりあえず、一緒に来てもらいましょう。私たちが来ていることを誰にも知られたくありませんので。もちろん、あなたの御主人様にも。」
「……。」
 デミトリ様はすでに山頂に向かわれたわ、カミーユは心の中でそうつぶやいた。 しかし彼女にはそれを口に出す事は許されていなかった。

                     第十二章に続く


 2000.6.30.脱稿

 作者 水沢晶

 URL http://www.yuzuriha.sakura.ne.jp/~akikan/GATE.html

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