Sorry,this fanfiction was written in Japanese.

冷たい薔薇 全章

                    水沢晶

 プロローグ

 今夜はどこに遊びに行こうかしら。
 魔王の城の一室で、美しい魔物が夜空を見上げていた。
 吸い込まれそうに深い緑の瞳、それを縁取る長いまつげ、気位の高さを感じさせる通った鼻筋と、綺麗に整えられた眉。優雅なカーブを描くあごの線を、淡く輝く長い銀髪が飾る。そして、濡れたように光る黒い服をまとい、抜けるように白い肌をしていた。
 その夢魔の名はモリガン。
 生まれると同時に魔王の慧眼によって、類い稀な力をもつと見抜かれたサキュバスである。「この者こそ我の後継者」と魔王ベリオールは定め、モリガンは下等種族とされる淫魔でありながら、幼い頃から魔王の保護下におかれた。
 モリガン自身は、魔界に住む者どもの多くが欲してやまぬ、魔王の後継者という地位については、「そんなのまだ先の話よ」と思って、好き勝手な暮らしをしていた。
 貴族階級の集まる舞踏会へ踊りにいって、いい男を誘おうかしら。
 「狩場」となっている街で美少年を探して、餌食にしちゃおうかしら。
 それとも、山の近くの樹海へ行き、群れなす魔界獣と闘ってみようかしら。
 お抱えデザイナーを呼びつけて、ドレスを新調するというのもいいわね……。
 そんなモリガンの夢想を、従者のアデュースが破った。
「モリガン様。ベリオール様が今夜はお話があるので、お出かけにならないようにとおっしゃっておられます」
「えっ?! ・・・何よ、いきなり。遊びにいくつもりだったのに」
「それはお気の毒ですが、大事なお話だそうですので。どうも、悪い知らせのようです」
「……わかったわよ」
 モリガンはむくれて、ベッドに身を投げ出した。

「いい夜だな、モリガン。元気そうで何よりだ」
 小山のような巨体を大広間の玉座に据え、ベリオールはモリガンを見下ろしていた。
「魔王様もごきげんうるわしゅう」
 と、モリガンは貴婦人らしく優雅に一礼をした。
「話というのはだな、モリガン。霊王ガルナンが数日前、体調を崩して倒れたそうだ」
「まあ。お亡くなりになりそうなのでしょうか?」
「いや、今は持ち直しているようだが、あの老体だ。いつまた倒れ、起き上がれなくなるかわからん」
「それは大変ですわね」
 さして、大変だとも思っていない口ぶりでモリガンは返した。
「実際、大変なことだ。もしこのままガルナンが死んだりするようなことがあれば、魔界に戦乱があることは確実だろう」
「そうでございましょうか? 誰かがガルナンの後を継ぐだけではありません?」
「現在ガルナンには、名声と実力を兼ね備えた後継者はいない。だから彼が死ねば、彼の一族が戦を伴う跡目争いを繰り広げるだろう。最悪、ヴォシュタル家がそのまま滅ぶということもありうる」
「アーンスランド家、ドーマ家、ヴォシュタル家の三巨頭体勢が崩れる訳でございますわね」
「その通りだ。悪くすると、近々大規模な争いが起こるかもしれない」
「ふうん、そうでございますか」
 でも、私には関係ないわ、といいたげなモリガンに、魔王は告げた。
「ところで、モリガンよ。お前もそろそろいい年なのだから、結婚を考えてはどうだ」
「! ……なんでそういう話の展開になるのでございますか?」
「お前は私の後継者であり、いずれは魔界一の名門アーンスランド家を継ぐものだ」
「ベリオール様は、この世に永遠のものはない、このアーンスランド家も、そのうち絶えると常日頃おっしゃっているではありませんか」
「その通り、アーンスランド家もいずれは終わろう。しかし、私は自分がいずれ死ぬからと言って、自殺する気はない。それと同じように、後継者を定めずに死ぬ気はない。ヴォシュタル家は、ガルナンが死ねば、滅ぶか、大幅に勢力範囲を狭める。アーンスランド家をそのようには、やはりしたくない」
「それはそうかもしれませんが、それと私の結婚が何の関係があるのでしょうか」
「私は強い魔力を持つお前を我が後継者に定めた。しかし、私の見るところによると、お前は結婚して子供を作る気も、力あるものを養子に迎える気もなく、ただ遊び回っているように見える」
「それが悪いのでしょうか」
 モリガンはすねたように言った。
「アーンスランド家の存続という観点からすればな。このままお前に魔王の座を譲れば、その時からおまえが死ぬまでの数百年間、お前は遊び回り、後継者も定めず死ぬだろう」
「サキュバスはそういう生き物でございますわ」
 そもそも私を後継者に選ぶことが間違っているのではないかしら、とモリガンは思ったが、さすがに魔王に対してそれは言えなかった。その気持ちを見抜いたらしく、魔王は、
「お前が思っている以上にお前は強く、賢いのだよ。お前は魔王の後継者たるべく定められて生まれて来たのだ。そして、今では立派な貴婦人だ。これから、ほどなくして私はお前が我が後継者であることを魔界中に発表する。私が突然に死んでもいいようにな。それとともに魔界中の独身貴族がお前に結婚を申し込むだろうよ」
 その言葉に、モリガンはふふと笑った。
「誰が、サキュバスと結婚したがるというのでしょうね。愛人ならともかく」
「魔王の後継者というなら、話は別だろう」
「ですが、そもそもなぜ寿命の短い私をお選びになったのです。ベリオール様の方が、私などより長く生きるのではございません?」
「そう考えるのも当然だな。ではおまえだけに私の予知を語ってやろう。私はおまえより先に死ぬ」
 魔王はあまりにも平静にその未来を口にした。
「まさか……」
 モリガンは絶句した。
「なぜ死ぬかまではわからぬがな。そういうことだ、娘よ」
「……」
 モリガンは沈黙した。
 どうも自分を取り巻く事態というのは、思っていた以上に深刻らしい。
 このまま、自分の未来は魔界の女王、あるいは大貴族の妻ということで、決定してしまうのだろうか。
 そんなうざったい肩書はいや。そんな面倒臭くて窮屈な未来は真っ平。魔界やアーンスランド家が滅びたって構いはしない。と、内心でモリガンは思ったが、優雅で気ままな生活が出来るのは、魔王ベリオールの保護があってのことだとよくわかっていた。断れはしない。
 また、モリガンは彼女なりに魔王ベリオールを敬愛してもいたので、魔王に正面きって反抗する気は起きなかった。
「話はそういうことだ。それでは退がってよい」
 とモリガンは言われ、一礼して退出した。
 その後、自室に戻ったモリガンはおつきのコウモリ男、アデュースの反対を押し切って、人間界への旅を決行した。
「何か、これからしばらく遊びにいけない気がするから、その前に遠いところへ旅行に行きたいわ」
 魔王の地位を継ぐだのなんだのという面倒臭さを我慢しろと言うなら、これくらいのわがまま許してくれたっていいじゃない、と勝手な理屈を付け、モリガンは気晴らしの旅に出たのだった。

 第一章 黒蛋白石の指輪 (The Black Opal Ring)

 地上は黒いヴェールを何枚も重ねたような、濃密な闇に包まれていた。
 それは闇が常に人の暮らしと共にあったころ。まだ、夜の地上を人工の光が埋め尽くすようなことはなかった。
 満月の微かな光が、人が眠るための町、宿場町を照らしだす。
 細い道を命綱にする寂れた町の、すぐまわりは月光を吸い込む深い森で、町は今にも暗い樹木の海に飲み込まれそうに見えた。
 その町の教会の塔の上辺り。夜空と生き物たちの地上との間に、翼を広げた魔物が羽ばたいていた。
 人間界の夜空の中でモリガンは、何かに気づいたように、くるりと宙で旋回した。
「この気配は……闇の住人?」
 その口元には楽しげな笑みが浮かび、瞳は面白そうに輝いた。
 つうと滑るようにその気配が感じられる優雅な邸宅の窓へと近づく。
 どうやら、この宿場町一番の金持ちの家らしい。
 とん、と軽やかな音と共にバルコニーにおりる。
 その音に寝室のベッドの魔物が振り向いた。背中には青黒く大きな翼、炭火のように光る目。大きく骨張った手には鋭く長い爪が生えている。その手はがっしりと犠牲者の肩を掴んでいた。
「貴様、何者だ」
 血まみれの唇からのぞく白い牙。彼の正体に、他の答えはなかった。
「あら、お食事中だったの。ごめんなさいね、吸血鬼さん」
 そのふざけた態度に明らかに相手はむっとした様子だった。
 男はベッドから降りると滑るように移動し、彼女の目の前に立った。それとともにその身を品のある人間の男性の姿へと変える。威圧するように腕を組み、じろりと見下ろす。
「私に何の用だ」
「別に用がある訳じゃないの。ただ、人間界に私と同じ魔界の者がいるのは、極めてまれなことだもの。どんなやつなのか、ちょっと興味がわいただけ」
「それだけの理由で私の邪魔をしたのかね」
 切れ長の目に怒りの色が見えた。
 モリガンはさすがにまずかったかしら、と思った。吸血鬼にとっては食事している所をのぞかれるというのは、性交をのぞかれるのと同じような意味をもつ。さらに、その快楽を中断されたら腹も立とうというものである。
「悪かったわね、お楽しみの邪魔をして。それじゃ私は帰るから、ごゆっくりどうぞ」
「それで済むか、無礼者め!」
 吸血鬼は骨太の指を夢魔の肩にがっしりと食い込ませた。
「君の血でこの償いはしてもらおうか」
 そのままのどに牙を突き立てようとするのを、夢魔は体をひねってかわし、男の腕を振りほどいた。
「ほう…」
 これは意外だという表情が男の顔に浮かんだ。
「ふふっ、私と闘う気なの? それなら外でやりましょうよ」
 挑発して、夢魔はバルコニーから飛んだ。
「ちっ」
 吸血鬼も大きな翼を広げた。
 少し離れた森の奥に、両者は降り立った。
「それでは、始めましょうか」
「すぐに終わるだろうがね」
 男が女に向かってすっと近づく。女は同時に後ろへとジャンプする。
「はっ!」
 空中から光弾が放たれる。だが、その一瞬に男の姿は消えた。
 直後にモリガンの頭上から男がキックを食らわす。
「あっ」
 すんでの所でガードしたが、そのままがっちりと抱きかかえられる。
 頭から地面にたたき落とされる。そのまま立ち上がるとくらくらした。
「ファイア!」
 男の声と共にコウモリがモリガンの首筋目がけて飛びかかる。
 女は自らの翼でガードする。その隙を狙って男が近づき、飛び蹴りをする。
「えいっ!」
 みるまにモリガンの翼が刃に変じる。その刃は男の太もものあたりに浅い傷を負わせた。
「ぬおっ…!」
 地上に倒れた男に女が歩いて近づく。起き上がろうとする相手に蹴りを入れようとするが、男の動きは予想以上に素早かった。女の方に一歩踏み込んで鳩尾に拳をたたきこむ。
「っあっ!」
 モリガンは殴られた所を押さえて、出来る限りすばやく後ろに下がった。
 男がその後を追う。次の瞬間モリガンの翼が何本もの長い刺に変じる。鋭いそれは、男の四肢にいくつもの傷を負わせた。
 吸血鬼が痛みに足を止めたその時に、夢魔は後ろへ大きくジャンプして言った。
「なかなかやるじゃないの。今夜はとりあえず、引き分けということにしない?」
 まだ闘えるとは感じていたが、ここでケガをするのも馬鹿らしいと思った吸血鬼も構えをといた。
「フッ。女でこの私と闘える者がいるとはな」
「それでは、私はこれで失礼するわ」
 夢魔は微笑んで一礼した。
「おや、名前を教えてはくれないのかね。できれば、また会いたいものだ」
 吸血鬼は先程までとは打って変わった、紳士的な笑みを浮かべた。
「あら、食事をおごって下さるのかしら? 別に名前を知らずともそういう運命であれば、またどこかでお会いできるわ」
「なるほどな。それでは再会の約束の証しとしてこの指輪を贈ろう」
 吸血鬼は自分の右手人差し指から、指輪をひとつ抜いて、空に投げた。
 モリガンの手の中に落ちたそれは、月の光を受けて妖しくきらめいた。
「ありがとう。もらっておくわ」
「いずれまた会おう」
 男は大地を蹴って夜空に飛び去った。
 モリガンがその指輪をじっくりと見ると、それは銀の台座に大粒のブラックオパールをはめたもので、白く輝くダイヤがそのまわりに飾ってあった。その色合は闇の中に虹色の炎が燃え立つようで、彼女は一目で気に入った。
「綺麗……なかなかいいセンスしているじゃないの、あの男」
 その指輪のサイズはやはり彼女の指には合わなかったが、そんなものは宝飾職人に直させればいいことだ。
「あら?」
 その指輪の内側を見て、彼女は声をあげた。
 名前が彫ってある。
「Demitri.M」
 さすがに彼女もその名は耳にしたことがあった。
「あら、あの男がデミトリ……でも、それって誰だったかしら?」
 つぶやいてモリガンは指輪を、開いた胸元から、服の内側にすべりこませた。
 その時、彼女の頭についている翼がコウモリに変じた。
「モリガン様……」
「あら、アデュース」
 笑って流し目をする。
「あのですね。とりあえず今まで黙っていましたが、今回の行動はあまりに軽はずみですよ!」
 彼はモリガンおつきのコウモリ部隊隊長だった。
「ただのなりゆきじゃない」
「なりゆきで命懸けの闘いなんておっぱじめないで下さい。それに、誰だったかしらじゃないでしょう! 魔界七貴族のマキシモフ家の当主ですよ! これでどちらかか死んだりしていたら、下手すりゃ両家が敵対関係になってしまいます! アーンスランド家の次期当主とマキシモフ家の当主が……」
「何? 援助交際?」
 指輪を胸元から取り出してモリガンが笑う。
「うっうっ」
 アデュースがコウモリ姿のまま、泣きまねをして見せる。
「いいじゃないの。私がアーンスランド家の次期当主だということはまだ知られていないんだし。ここでどちらかが死んでも、どうせ真相は闇の中よ」
「顔と名が伏せられているだけで、サキュバスらしいということはみんな知っています!」
 モリガンは涼しい顔でまた指輪を服の内に落とし、アデュースに告げた。
「ちょっとケガをしてしまったから、今晩はあの小さな宿屋に戻って休むことにするわ。しばらくしたらまた、『扉』が開くから、そのまま帰りましょう」
 モリガンは人間になりすまして、宿屋に部屋をとっていた。そこが人間界滞在時の彼女の行動の拠点となるのである。
「賢明な判断でございます」
 アデュースは安心したように言った。
「それとも一月くらい、お散歩しようかしら」
「モリガンさ〜ま〜」
 モリガンはアデュースにくすりと笑って見せると、夜空に高く舞った。
 闇にはただ、薔薇の花に似た香りだけが残された。

 執事のペジはモリガンの部屋の扉の前で軽くため息をついた。
 何か嫌な予感がする。もしかしたら、またどこかへお忍びで出かけてしまったのでは?
 そんな感じがするのだ。
 こほん、と咳払いをして、恐る恐る扉に手を伸ばす。
 ……もしいなかったら、ベリオール様に気づかれないようにうまくごまかさなくてはいけない。あの何かにつけ鋭い魔王を相手に、である。それも大変な仕事だが、何よりも無事に帰ってくるかどうかをびくびくしながら待つのが辛い。
 さいわい、これまでは何事もなかったかのように帰ってきているが、軽い怪我をしていたこともあった。同行したアデュースに後で聞くと、「狼男とやり合ったんですよ」という恐ろしい返事だった。
 モリガン自身は自分がどこで誰と戦おうが勝手、と考えているが、とんでもない。
 例えサキュバスの小娘であろうとも、彼女は魔王ベリオールのお気に入りなのである。
 もし、モリガンがお忍びで出掛けて大怪我でもしたら?
 そして、それが魔王にバレたら?
 ……執事の彼が管理責任を問われるのは間違いない。クビですめばよいが、死刑とかいう展開もありうる。
 自分が火あぶりにされる様を想像して執事は軽く身震いをした。
 呼び鈴の紐をひいて声をかける。
「お嬢様……おいでですか」
 返事がない。
 おつきのアデュースが代わりに返事をするようなこともない。
 もしや……。
「失礼させていただきます」
 すっと扉を開けて彼は部屋に入った。モリガンの住居として使われているのは魔王の城の一棟の南端だった。そしてその応接間には誰もいなかった。
 すっと血が冷えるのを感じながら執事は応接間から、食堂に入った。
 しかし、机にゆりを生けた花瓶がおいてあるのみで、誰もいなかった。
 モリガンが自分の好きな本や楽譜などを集めた書斎に入った。が、ここも空だった。普段ならここで退屈しながら家庭教師に礼儀作法や歴史を習っているはずなのだが。
 ますます現実は厳しい。
 となりの部屋はピアノなどがおいてある音楽室だったが、ピアノどころか物音ひとつしない。念のために扉を開けてみたが、やはり誰もいない。楽士でもあるアデュースがフルートを磨いているようなことさえなかった。
 いくつもの部屋をまわり、もはや残る可能性は寝室しかなかった。彼は念のために耳をすましてみた。話し声どころか、物音ひとつしない。
「お嬢様……失礼致します」
 ノックをして、執事は静かに扉を開いた。
 寝室は空だった。
 彼は予感の的中に呆然とした。
 しかし、すぐに気を取り直した。
 もしかしたら、出掛けているといっても人間界ではないかもしれない。
 魔界の辺境で獣系モンスターを狩って遊んでいるのかもしれないし、城下町で男を誘ってよろしくやっているのかもしれない。こっそりと地方の舞踏会に行ったのかもしれない。
 しかし、彼のはかない望みは天蓋つきベッドのわきの一枚の置き手紙によってあっさりと打ち砕かれた。それはアデュースからのものだった。

 ペジ様へ

 前略 またモリガン様が人間界に行きたいと騒ぐので、ついていきます。
 すみません。
 私としても止めようとしたんですが、いつもながらやると決めたらどこまでもという方ですから、それはかないませんでした。
「あなたがついてこなくても私一人で行くわ」と言われては、お供するほかはありません。
 さらに、「刺激を求めるのはサキュバスの本能よ。この衝動には逆らえないわ」ともおっしゃりますし……。そう言われると「とりあえず城の庭でも散歩していて下さい」とも言えませんし。そういうことを言うと「退屈で頭が痛くなる」だの「肌が荒れる」だのと子供のようにだだをこねますし。おっと失礼な表現でしたか。
 という訳で後をよろしくお願いします。 草々

              アデュース=フォーレスト
 
 言い訳だらけの置き手紙を手にしたまま、執事はしばらく硬直していた。
 モリガンは、またも彼に試練を与えたのだった。

 広大な魔王の城の庭に小さなあずまやがあった。長身痩躯で紺色の服の男が供もつけずに、葉擦れの音を聞きながら、そこで読書をしていた。
 彼は長い爪の生えた左手で革表紙を持ち、右手に銀色のしおりを握っていた。
 ドーマ家の当主、ジェダ。冥王と呼ばれて恐れられる彼だった。
 魔王との謁見の時間を待つ間、庭の散歩を許可されたので、一通り歩いた後、この東屋で、『続・魔界の生物の進化について』という本を読んでいたのである。
 その本は、「魔界の生物はかつてひとつの『神』であった。それがわかれ、このような多様な進化を遂げたのである」というような論旨で、理論そのものは聞きあきた退屈なものだった。だが、作者であるリリアンは魔界有数の生物学者であり、その名に恥じず、魔界生物を知るうえで貴重な資料となる本だった。
 リリアンは綿密な調査に基づいて、どのように生物が「個性化」していったのかをよく分析していた。
 「個性化」した生物があくなき闘争を繰り返すことによって、魔界には様々な力を持つ魔物が溢れるようになったのである、闘争こそがこの魔界を発展させてきたのだというリリアンの意見にはジェダも基本的に賛成だった。
 だが、それはこの魔界という世界が若いころの話ではないか。
 もはやそのような闘争と個性化は、この魔界を荒廃させるだけのものとなったのではないか。
 ジェダは常々そう考えていた。
 いまや争い生き残るためだけに、特殊な能力を発達させた魔物たちの多くは、それゆえに進化の袋小路に入り込み、自らを滅ぼしていった。
 その好例がサキュバスだ。
 ジェダは『続・魔界の生物の進化について』のサキュバスについてのページをめくった。

「サキュバスはとても短命の種族で、その寿命はたかだか400年程度。それゆえか彼女らの生き方はとても激しい。飽くことなく刺激と快楽を求め続け、そのためにのみ生きる。退屈には堪えられない。仮に彼女らを密閉されたせまい空間にひとりだけで閉じ込めたとしたら、その余りの退屈さに2日目には死んでしまう。ホルモンバランスが崩れ、内臓の様々な機能が急激に低下するからである。
 淫魔の脳が常に「新たなる刺激」を求めるのは、次々に獲物をとらえなければ飢えて死ぬという彼女らのエネルギー代謝効率の問題から来たものと考えられる。
 しかし、進化の過程で「刺激」に対する欲望だけが突出し、それを「食事」によって満たすことが出来なくなって行く。
 これは種族の存続の危機であった。多くの夢魔が刺激を求めるあまり、他の種との必要のない戦闘や捕食のためでない性的快楽にのめり込み、淫魔の数はここ数百年で急激に減った。
 現在サキュバス族は魔界に約300匹。このままでは1〜2世代後には種族そのものが消え去ってしまう。彼女ら自身はしかし、その状態を悲観することもなく、気ままな暮らしを楽しんでいる。
 だが、このような快楽重視の態度こそが、彼女らを絶滅の危機に追い込んでいるとも言えるのだ」
(『続・魔界の生物の進化について』 
 著者 リリアン=アミ から)

 ジェダはその箇所に銀のしおりを挟んで、一度本を閉じた。
 サキュバスか。このような記述を読むと愚かな種族の見本としか思えぬが、魔王ベリオールがサキュバスの小娘を、高い地位につけるつもりでかわいがっているというのは、どういうことだろう。
 ジェダは100年程前、この城を訪れた時、この庭で薔薇を摘んでいたモリガンに出会った。
 その時彼女は胸に黄色い薔薇を抱き、薄青のドレスに身を包んでいた。
 太陽のない魔界に存在する、大きな月が銀髪を淡く輝かせていた。
 その姿をジェダは「美しい」とは思ったが、「好みだ」とは思わず、ただどこの貴族の娘だろうと考えていた。
 儀礼的なあいさつと二言三言の会話を交わしてすれ違っただけだった。が、強く印象に残った。
 ジェダがあまり好まない、肉体のすみずみにまで蜜が染みとおっているような色気と、燃え盛る炎を胸に抱いているような強い魔力。
 色と力を備えつつ、それが露骨に迫ってこない品性には、彼にふむ……と思わせるようなものがあった。
 ジェダがその女がアーンスランド一族の、諍いの種になっている夢魔であると知ったのは、後日であった。だが、当時の彼は「魔王のお気に入り」ということに関して「どうせ大人になったら愛人のひとりにでもするつもりだろう」としか思っていなかったのだ。
 だが……。
 そんな彼の回想を彼の供の声が破った。
「ジェダ様。魔王陛下の部下から、そろそろおいでになるようにとの連絡がございました」
「わかった。すぐ行く」
 ジェダは彼の部下に本を手渡して、音もなく立ち上がった。

「ドーマ家当主だが、魔王陛下にお目どおり願いたい」
 柔らかく知的な声が、謁見の間に通じる扉の番人に用を告げた。
「どうぞ、お通り下さいませ。わざわざ御足労ありがとうございました」
 番人が一礼するとともに、重いはずの扉が驚くほど滑らかに開いた。
 真っすぐに空を斬る、細身の剣のように空気をかき回さぬ動きで、ジェダは謁見の間の中央にまで進んだ。
 魔王は小山の様な巨躯を玉座に据えて、ジェダを見下ろしていた。
「ドーマ家の当主か。今回は……南の地方の貴族の反乱の鎮圧についてだったな」
「はい。アーンスランド家の領地と接する地方ですので、彼らに食料その他の物資が流れないように、我が領地の南半分の国境を封鎖して下さると有り難いのですが」
「そういった無用な騒ぎは、こちらとしても不都合な事態なので、協力しよう。何なら、兵を貸すぞ」
「そこまで、陛下のお手を煩わす訳にはいきません」
 とジェダは恭しく頭を下げたが、内心では、アーンスランド家の軍隊に自分の領地に入られてたまるかと思っていた。悪くすると、そのまま南の領地をとられかねない。
「わかった、そのように取り計らおう」
「ありがとうございます」
 そして、両者は取引の詳しい内容の検討に入った。
 帰り際、ジェダはベリオールに質問した。
「ところで、魔王陛下。差し支えなければ、今噂になっているサキュバスの娘についてお聞かせ願いたいのですが」
「モリガンのことか。彼女は私の後継者とするつもりだ」
 ジェダはその言葉に、切れ長の目を鋭く光らせた。
「いずれ、夢魔を魔王にとのおおせですか?」
「そのとおり。2カ月後のパーティーで正式に発表する。いわば、あの女が将来魔界を統べる女となるのだよ」
 その話は彼も聞いたことがある。ベリオールは、自らの一族からではなく直接血のつながらない者から後継者を選ぶつもりだと。それが、例のサキュバスの小娘、という噂もあるにはあったが、彼は信じていなかった。
「くっくっく、後継者にするとの発表と同時に魔界中の貴族があの娘に結婚を申し込むだろうよ。見物だとおもわんかね」
 ジェダには一匹の女に無数の男が群がる光景は面白い見物というより、浅ましいものという気がした。
 しかし、ベリオールは真意のはかれない笑いをしながら言った。
「君も婿の座を狙ってみるかね。モリガンさえ良ければ私はかまわん」
「そのようなことをおっしゃってもよろしいのですか」
 ジェダは軽く眉をひそめた。花嫁の種族を思ったからである。
 それを見透かしたように、ベリオールは続けた。
「もちろん、婿となる男にはわしもふたつ程、約束せねばなるまい。モリガンが夫を餌食とすることはないという約束がひとつ、そして必ず夫と床を共にするという約束がもうひとつ。これを破ったら魔王の命に背いたとして、モリガンをアーンスランド家から絶縁するとしておこう」
「まことにごもっともな約束でございますな。これで安心してプロポーズできるというものです。…しかし、『モリガン様さえよければ』とおっしゃいましたが、婿は陛下が自らお決めになるのではないのですか?」
「さすがにモリガンはそこまでは素直ではない。結婚自体嫌がっておる」
 たいして困ってもいないような口調で、魔王はその大問題を言ってのけた。
「それはご心労のほどお察しします」
 とジェダは恭しく頭を下げた。だが内心で彼は、結婚したがるサキュバスなどいないだろうと思った。
 若ければなおさらだ。男など世の中に食い尽くせないほどいるのに、たったひとりを選ぶ理由をあの高慢そうな娘が見いだし得るのだろうか。「金」も「将来の安定」もおそらく「気ままに暮らす自由」を捨てる理由にはならない。
 あれだけ美しければ夢魔としての将来は保証されたも同然である。「愛」はなおさらお笑いだ。
 だが同時に彼は、モリガンにプロポーズする決意を固めていた。
 霊王ガルナンの余命がさほどないことは確かだ。彼の死とともに魔界は乱れるだろう。ならばその前に魔王と同盟を結ぶべきだ。
 もちろん、いずれはベリオールを倒すつもりだが、今はまだ早い。殺す前に殺されては何にもならない。
 ここはとりあえず、友好的なそぶりを見せておくだけでもいい。
 それが、ジェダの考えだった。
 一時間程の会談を終え、ジェダは謁見の間から長い廊下へと退出した。
 そのとき、彼は何人かの供を連れたデミトリに出くわした。
 向こうも彼に気づき、マントをひるがえして歩み寄った。
「これはこれは。冥王様でいらっしゃいますか。ごきげんうるわしゅう」
 ジェダはデミトリのことを血の気の多すぎる野心家と思っていたが、静かにほほ笑んだ。「貴公もおいでになっていたとは知りませんでした。それで、こちらへはどのような用件で?」
「数日前からこの城に滞在しております。貴金属の関税の件で」
 マキシモフ家の当主はにこやかに返した。
 魔界貴族ふたりはその後ひととき、友好的に腹の探り合いをした。
「ところで、ジェダ殿。貴公は死者の魂、それも邪悪なものを好んで食物になさるといいますが、一日に『食べる』量に限界というのはおありでしょうか」
「ありませんね。私の本体はご存じのように不定形の液状なのですから、胃腸に食物を抱く訳ではないのです。ただ、そう上質な魂が大量に手に入る訳でもないので、ほぼ一定の魂を日々吸収しています。貴公も、一日に飲む血の量は決まっておいででしょう」
「その通りですな。やはり何となく、欲しい量というのはあります。ただ、質に関しては上限など感じませんな」
「貴公は美食家であられる」
 ジェダは微笑した。

 長くもない立ち話の後、ジェダは一礼をして彼の滞在している部屋へと去った。
 その背中の鎌のような翼を後ろから眺め、デミトリは、先日人間界で見た光景を思い出していた。
 美しい夢魔と一戦交えた後、彼は魔界への扉を探し、そこから帰ろうとした。
 しかし、その途中で異様な光景にぶつかったのだった。
 古き教会の高い塔の十字架の上に、背の高い魔物が立っていた。
 それは長く大きな鎌を両手で持ち、夜空をかき回すように振り回していた。
 デミトリが見る間に、その鎌に掻き寄せられるようにして、近くの墓場や湿っぽい夜風の中から多くの魂が集まって来た。
 その怨嗟や呪詛の声が、デミトリの鋭い耳には不吉な鳥たちの羽ばたきのように聞こえた。数多くの魂が、やがて長身の魔物のまわりに渦を巻いた。
 もし人間でその光景を目にしたものがあるとしても、夜闇に紛れて、落ち葉や布切れを巻き込んだ小さな竜巻が教会の上で踊っているとしか見えぬだろう。
 だが、デミトリの目にはそれこそが「冥王」の食事の光景であると知れた。
「苦しみもがく魂たちよ。私がお前達を救済しよう」
 ジェダが服の胸元を広げ、液状の肉体を露出すると、宙に舞う魂は蝙蝠の断末魔のような声をあげて、その中へと吸い込まれていった。
 服の前を合わせ、鎌を再び背の翼に戻す冥王は、先刻よりも強大な魔力を得たのが明らかだった。
 デミトリは相手に気づかれぬよう、急いでその場を離れた。
 自分の城に戻った後デミトリは、その光景の意味をじっくりと考えてみた。
 彼自身は栄養の摂取方法としては、様々な生物からの吸血を主とする種族であった。だから、人間界を視察に来たのも、人間を多量に魔界に連れ帰って家畜として繁殖させ、食用奴隷として売り飛ばす事は出来ないかなどと考えていたからであった。
 すでにデミトリ達吸血鬼の間では、人間の血は美味だと評判だった。検討して見る価値はあると思い、彼は人間界を訪れたのである。
 しかし、冥王ジェダが人間の魂を吸収する光景を見て、彼は自分が「人間界への扉」の存在価値を見損なっていたのではないかと思ったのだ。
 魂を糧とする魔物たちにとって、魔界の扉は強力なパワーアップの手段となり得る。
 これはもっと、詳しく調べてみるべきかもしれない。
 デミトリは、ジェダの去った方角を見つめ、厳しい目になった。

 第二章  緑柱石の婚約指輪

 地方の魔界貴族の娘、カミーユは、婚約パーティーの席で、小さくため息をついた。
 彼女はこのパーティーの主役である。
 若い彼女にふさわしく、そのドレスは薄桃色を基調に若草色でアクセントをつけた真新しいものだった。
 後ろでまとめられた髪は、レモンを搾った汁のような色合いの金髪。生クリームにほんの少しをチェリーブランデーを混ぜて泡立てたような、きめ細かな肌。
 年より幼く見える大きく丸い目は、ブルーキュラソーを数滴垂らした、透き通るゼリーの瞳。
 思わず触れたくなる、ふっくらとした唇は苺ムースのようで、愛らしさを感じさせた。
 カミーユは適齢期にはまだ早いなどと抵抗もしてみたのだが、結局周囲に引きずられるようにして、この日を迎えてしまったのだった。
 だからカミーユには、これが自分の選んだ運命だという気がしなかった。
 相手は親が決めた。
 婚約披露宴の日取りも。
 彼女が自分から何かする気になれなかったため、ドレスも母親が選んだ。
 カミーユは遠くで友人と歓談している婚約者を見た。
 あの男性が……。
 婚約の正しさを自分に納得させようと、カミーユは婚約者について知っていることを思い返して見た。
 名はジャービス=シクル。
 家柄は自分の家より多少上だった。これより上の貴族では正妻は望めないだろうというギリギリの線だった。親や側近たちは側室というならば、もう一段上にも手が届くかもしれないとそちらも検討して見たらしい。だが、向こうが望まなかったり、政略的にたいして意味がなかったり、ということで今回の相手に落ち着いた訳だった。
 計算につぐ計算。そのとりあえずの答えが、これ。貴族の結婚だの何だのは政略の問題でしかないのだと、おとなしく父親の言葉にしたがった。
 その時、父親はこう言った。
「どうやら、これまでの愛人たちなどを調べるに、お前のような女があの男は好みらしい」
 その言葉を聞いて、結婚には肉欲という要素もあったのだと気づかされた。
 その通り、引き合わされた男はカミーユを気に入った。
 しかし……だからどうだというのだろう。
 もちろん、気に入られずに婚約することを考えれば幸運であろう。
 けれど、カミーユはジャービスを好きになれなかった。
 そのうち好きになれるという可能性に、あるいは己の浮気の機会に望みを託して、従順な妻としてあの男の傍らで日を過ごすのだろうか。
 彼の武勇は名高かったが、短気で強情な所があるという噂だった。
 分別の有無や思いやりの有無についても、芳しくない話が多い。
 うまくやって行けるのだろうか。
 再びカミーユは小さなため息をついた。
「どうかしたのかね」
 優しい調子で低い声がささやいた。
「あ、いえ何でも…」
 そういいながら、顔をあげる。
 そこにはひとりの魔界貴族が品のいい微笑を浮かべて立っていた。
 冷ややかに整った顔立ち、切れ長の目。控えめな艶のある薄青のテールコートにマント。高い背とがっしりした体格。
「何か心配事でもあるのかね」
「……多少は」
「話したくないなら、無理に話さなくてもよいのだよ。だが、私としては美しいお嬢さんが憂いに沈んでいる姿を見過ごすことはできないのでね。何か力になれることはあるかね」
 険しい顔立ちの男だったか、その笑みは優しげだった。
「……踊って下さいますか」
「喜んで」
 すっと男の手がカミーユの手をとった。
 彼女は踊りには自信がなかったが、男のリードは見事なものだった。
 武術に心得があると見られる体格からもっと武骨な男かと思っていたが、氷の上でも滑っているかのような優雅さだった。
 その感想をカミーユが告げると男は笑って、
「優雅とは実は力強さによって支えられるものだ」
 と言った。
 一曲踊り終えて月明かりのバルコニーで、カミーユは低い声で男に話し出した。
「よくある話だと思うんですが……親の決めた結婚で、私はあの人について『この人が好きだから結婚したい』とは思っていないんです。昔は色々結婚について夢を見ていたんですが」
「運命の出会いとか?」
「はい。この人のためなら死んでもいいと思って、両親の反対を押し切って、地の果てまで逃げるとか。氷の海も炎の海も乗り越えてどこまでも、とか。でも、結局この年までそんな人も見つからず、親が……すべて決めました。でも、納得できなくて……」
「確かに、あの男はたいした男ではないな」
 カミーユは婚約者をけなされたにも関わらず、怒りを感じなかった。むしろ、深くうなずきたい気持ちだった。
「好きな男と逃げるのが、君の夢か」
 カミーユは静かにうなずいた。
「それならば、願いをかなえてあげることはできるな。君が私を好きになってくれさえすれば」
 カミーユは男の言葉に驚いて目をあげた。
「連れて逃げて下さるのですか?」
「まだ、名を教えてなかったな。我が名は、デミトリ=マキシモフ」
「七貴族様……」
 その名はカミーユも聞いていた。
 優しそうな、でもどうもそれだけではない男のようだとは感じていたが、そこまでの地位の高さは予想外だった。
 この男が残忍さと狡猾さで知られるマキシモフ家当主。それならば、この気品も不遜なまでに堂々とした態度も納得が行く。
「私を、妻に?」
「残念ながら、正妻にはできない。愛人のひとりとしてならば、君を大切にしよう」
「なぜ、私を?」
「君の可憐さにひかれた。貴族社会の汚い権力争いを嫌がるその清らかな瞳。夢見ることしか知らぬ君を籠の鳥、温室の花として存分に愛でて差し上げよう」
 カミーユは身を震わせてその言葉を聞いた。
「ありがとうございます」
「それでは聞こう。私をどう思うかね」
「愛しています」
 甘い陶酔の中に決然たる意志を秘めて、カミーユは答えた。 デミトリはカミーユを抱き寄せて、唇を重ねた。
 カミーユは男の胸に顔をうずめ、このままずっと触れ合っていたいと思った。
 しばし抱き合った後、男の方から身を離した。
 そして、カミーユの左手をデミトリの手が、彼の側に引き寄せた。
「この指輪はもういらないな」
 左手の薬指には台座が金の深緑のエメラルドの指輪が、はまっていた。
「そうですね。返さなければ」
 カミーユは自分の手から、デミトリが婚約指輪を引き抜くのを、見守った。
「これは私が送り返しておこう」
 デミトリは上着の内ポケットにそれを入れた。
「はい。お任せします」
 もはや全てをデミトリに、委ねる気になっているカミーユは、そう答えた。
「では、逃げるとしようか」
 デミトリは大きな手をカミーユに差し出した。
「はい」
 喜びに満ちあふれ、カミーユは自分の手を差し出した。

 カミーユは自室として割り当てられた部屋の窓から、白く冷たく丸い月を眺めていた。
 ため息をつく彼女の目の前には壁のように森が競り上がっていた。
 マキシモフ家当主の城は、高い山の中腹に築かれていた。そして彼女の部屋は山側にあったのである。反対に回れば、森は目の下に退き、遠くないところに城下町が見えるだろう。カミーユがデミトリの元へ走ってから、一週間が経った。デミトリは、満月の夜に彼女と呪縛による主従関係を結ぶと前から告げていた。今夜がその満月だった。カミーユは独り静かに部屋で男を待っていた。
 独りでいると恐怖が、少しずつ胸の奥で水位を増していく。その後母親は、私信として一通の手紙を彼女によこした。裏切られた者の愚痴に近い文章が並べられていたが、その中にこういう意味の文章があった。実は両親もカミーユをデミトリの愛人にすることを一度は考えたというのだ。
 しかし、吸血鬼の僕の特徴は主に絶対服従するということだ。もし娘をそうしたら、デミトリが彼らの敵に回ったとき、カミーユが自分の両親が己の主の手によって惨殺されるのを、平然と見過ごして一滴の涙も流さないということもありうる。それを考えたら、多少相手の格が落ちると言えども、娘が娘であれる道を選んだ方が、政略的にも意味があるし、それこそが娘に対する情けだと思っていた。そう彼女の母親は綴っていた。
 カミーユはひどく正直な言葉を母親から聞いたと思った。
 そして、思った。もし、私がこのままデミトリ様の僕になったら、その時の私にとって両親は他人でしかなくなるのだろうか。
 両親を裏切り、ここに来たものの自分の中の「親」への思いが砂のように無味乾燥なものになるかもしれないと考えるとどこか淋しかった。
「今夜から、あの方が私のすべて……」
 声に出して思い出す。あまり仲の良くなかった両親、短いつきあいだった友人たちのことを。
 これまでつきあって来た者たちの全てが一夜にして、どうでもいい他者になるのだ。
 それからは、他の男を好きになることもなく、子供も作らず、あの方以外の者を視野から切り捨てて、過ごすのだ。
 私はここにくるために、それまで持っていたもの、手に入るはずだったもの、それらなにもかもを投げ捨てた。けれど、その私があの方にやがて飽きられ、捨てられることだってありうる。そんな不安がカミーユの胸を締め付けた。
 それに魔界貴族の間では、他の貴族の機嫌をとるために自分の妻や愛人を贈ることは当然のことだった。カミーユの母親も、元は他の貴族の愛人だったのだ。
 幼いころ、よく母親が再び捨てられはしないかと憂えて口にする言葉を聞かされた。夫の愛が自分の上から去るのを何よりも恐れていた彼女は、娘を愛することには熱心でなかった。
 そして父親は他者を愛するということについて、常に気まぐれだった。
 カミーユが不安感が強く夢見がちな娘に育ったのには、そういう事情も背景にあった。
 だがもはや、後悔しても遅かった。
 デミトリはすでに彼女の両親に話をつけていた。
 もはや、ジャービスの婚約者には戻れない。
 彼女が心細さに苛まれていると、コンコンコンと音がした。 運命が扉をたたく音だった。
「遅くなって済まなかった。私だ」
「お待ちしておりました。デミトリ様、どうぞ中へお入り下さい」
 彼の今夜の服装は、派手な飾りのない落ち着いた色合いの紺の上着とクリーム色のタイツ、臙脂のベストだった。先程までは執務室にいたのだろう。彼のレースのスカーフの中で、ブルーダイヤが冷たく光った。
「おや、どうした。震えているね」
 主となる男は扉を後ろ手に閉め、出迎えたカミーユに優しく声をかけた。
「私は……なにもかも捨ててここに来ました。だからどうぞ私を捨てないで下さい」
 カミーユはすがるような瞳で、男に頼み込んだ。
「かわいいことを言う。大丈夫だ」
 と、抱き寄せて髪を撫でる。
「本当ですか。約束して下さいますか」
 デミトリにしがみつくようにして、またもたずねる。
「約束か……口先の誓いなど無意味だ。さあ、喉を差し出したまえ」
「……」
 カミーユは、取り返しのつかない選択を前にして怯えていた。吸血鬼のものとなった女は二度と他の男を主人とすることは出来ない。主が死ぬか僕が死ぬかの死別以外に血の絆が切られることはないのだ。
 デミトリはそれを見て取ると、無言でカミーユの肩を掴んだ。そのまま首筋に口づける。
「……!」
 覚悟を決めているはずだったが、カミーユは体を硬直させて、嫌だというように首を横に振った。
 しかしデミトリはそれに構わず、慣れを感じさせる素早さで、カミーユの喉に牙を突き立てた。
「あっ!」
 暗がりに短い悲鳴があがった。それに血を啜る、濡れた音が続いた。

「気分はどうかね」
 満月が欠け始めて三日ほどたった夜。デミトリはベッドで死んだように眠っている、カミーユに声をかけた。
「……喉が渇きました」
 薄目を開けて答える。
「そうか。口を開けてごらん」
 カミーユがいわれるままに口を開く。
「だいぶ牙が伸びたね。これなら自分で血を吸える」
 カミーユは、その言葉に笑みを浮かべた。
「隣の部屋の棺桶に少年を寝かせてある。喉を潤してくるがいい」
「ありがとうございます」
 礼儀正しく一礼し、カミーユは扉を開けた。
 しばらくして戻って来た彼女は、どことなく酔ったような気配を漂わせていた。
「美味かったかね」
「はい、とても。御馳走様でした」
 カミーユは主人の前でひざまずき、深く頭を下げた。
「さあ、こちらへ来たまえ」
 主人は寝台の脇で下僕を手招いた。
「はい…」
 恥じらいつつもためらわずに、彼女はデミトリの前に立った。

 デミトリは全裸でベッドから降りた。淡い光の中で盛り上がった筋肉が濃い影を作る。
 彼は持ってきた小さな箱から、布にくるまれたペンダントを取り出した。裸のままのカミーユにそれを見せる。
「まあ、きれい……」
 それはアクアマリンのペンダントだった。白い波打ち際で手のひらにすくった海の水のような、澄んだ薄水色の石。銀の台座にはめられ、水しぶきのような小さなダイアに囲まれたその石は、涙型にカットされていた。
「君が失った婚約指輪の代わりに、これを君に贈ろう」
「え! いいんですか」
「もちろんだ。さあ、君の細い首にかけてあげよう」
 カミーユは静かに頭を前に傾けた。デミトリはその首の後ろで、留め金をはめた。
「君の瞳と同じ色だ。とてもよく似合っている」
「ありがとうございます……」
 裸の胸元に薄水色の石をきらめかせ、嬉しさに目を潤ませたカミーユは、デミトリの胸に頬をつけた。デミトリはその頭を柔らかく撫でた。
 そのままいつまでも主人に寄り添っていたそうなカミーユに、デミトリは「いい夜だった。それでは、ゆっくりお休み」と言い、服を再び身にまとって部屋を出た。

 第三章  月長石のロザリオ

「もしもし、学生さん、ちょっと寄って行きませんか」
 時刻は黄昏時、下町の街角でアルベールとミッシェルに声をかけたその女は明らかに娼婦だった。
 彼らは寮生活を送る神学生だ。両者同じく17歳。アルベールは色のほとんどないストレートの金髪を肩まで垂らし、知性を感じさせる切れ長の目には青い瞳が光っていた。
 ミッシェルは軽く巻いた蜂蜜色の金髪で、丸い目に淡い緑の瞳、育ちの良さを感じさせる柔らかな雰囲気を身に纏っていた。
 嫌悪を押さえ、口元だけで微笑みながらアルベールは言った。
「それは神の御心に背く行為ですので」
「あたしも神様は信じていますよ」
 安物で着飾った女は少しなまりのある口調で言った。
 アルベールは女を冷たい目で一瞥した。そして、たとえこの女が神を信じていようとも、神はこのような女をお救いにはなるまいと思った。
 顔立ちから察するに、まだ二十を過ぎたあたりというのに、白い粉を厚くはたいた皮膚は乾いて荒れていた。不健康そうな顔色と濁った目は、恐らく多くの娼婦のように安酒に浸っていることを示していた。
「そうですか」
 アルベールはおざなりに答えた。
「いかがですかね。サービスしますよ」
 アルベールの顔をうっとうしそうな色がかすめた。
 ミッシェルは女の様子に嫌悪より哀れさを感じたらしく、銅貨を一枚取り出した。
「どうぞ。パンでも買って下さい」
 ミッシェルに銅貨を渡されて女は言った。
「あたしは物乞いじゃないんですけどね。まあ、ありがたくもらいますよ。それじゃ、あたしはこれで失礼します」
「では、私たちも失礼します」
 アルベールは一礼して、ミッシェルの手を引いてその場を立ち去った。
 彼はずんずんと歩いた。汚らわしさをふりきろうとするかのように。
 身を売らざるを得ない貧しさがあることや、酒を飲まざるを得ない苦しさがあることに思い至るにはアルベールはまだ若すぎた。
 彼はただ、神は自らの教えに忠実であるものを救うと信じていた。
 ミッシェルは角を曲がる時に振り返って女を見た。遠くで彼女はまた別の男に声をかけていた。世界には救われない者がなんて多いのだろう、という思いが若き神学生の頭をかすめた。
 そんな彼らの様子を宿屋の屋根に腰掛けて見ていた者がいた。
 黒のドレスの裾から白い足がのぞく。その先にあるのは赤いハイヒールだ。
 見上げるものがいたらさぞかし驚いただろう。古びた煙突のかたわらに、銀髪の貴婦人が座っているのだから。
「ふふっ、あの子いいわね。神学生だってところがたまらないわ」
 モリガンは肩のコウモリに話しかけた。
「あの神経質そうな少年ですか。それとも人の良さそうな方……」
「神経質な方が気に入ったわ。ま、もう一人の方も悪くないわね。気が向いたら、ってことにするわ」
「ああ……神は彼らをお見捨てになったか」
 肩のコウモリ、アデュースは軽く首をふって嘆いて見せた。彼は生まれながらの魔物ではない。昔は一人の人間だった。
 アデュースは魔物となって二百年、モリガンにつきあって百年以上たつ。だが今でも、彼は時として餌食となる「人」に哀れさを感じてしまう。
 が、モリガンはそれにかまわずにこう言った。
「追うわよ。アデュース」
 そして、彼女の姿は屋根から消えた。

 ジェダは「魔王の後継者たるサキュバス」についての報告書をオゾムから受け取って、不機嫌な表情になった。
「これでは意味のある情報が入手不可能であったことを隠すために、無意味な言葉を羅列したも同然だね。むしろ私が彼女と直接言葉を交わした一瞬からの方が得るものがあるとさえ言えるよ」
「はっ、何分にも魔王が相手ではそう露骨に嗅ぎ回ることもできず……」
「低能を証明するようなことを言うね。魔王がご寵愛とはいえ、アーンスランドの一族全てがあの小娘の味方ではないだろう。むしろ、敵に回っているだろうね。そこに照準を合わせたまえ。彼女の敵から聞き出すのだよ」
「はっ、そう致します」
 オゾムは深々と頭を下げた。
「それでは、私はこの城を二週間ほど留守にする。魔界の扉付近を治めるレペ家との交渉のためだ。後のことはいつも通りにしておいてくれ」
 ジェダはそういうと、椅子から音もたてずに立った。

 ミッシェルは、友人のアルベールが最近気分が悪そうなので、心配して彼の部屋を訪ねた。
「心配してくれるのかい? 実はこの頃変な夢を見ているんだ」
 ミッシェルに聞かれて、アルベールは語り出した。
「夢? 多分体が疲れているとか、そういうことだと思うけど」
「違う」
 さえぎるようにしてアルベールは断言した。
「一昨日の夜、僕は真夜中息苦しくなって目が覚めた。すると、毛布の上から長い銀髪の全裸の女が、僕の上にのしかかっていたんだ」
「え…!」
 ミッシェルは叫んだ。
「まさか、夢魔か…!」
 ミッシェルはアルベールの話にまがまがしいものを感じ取った。
「その通りさ。その通りなんだ…! 続きを話そう。僕と目が合ったその女は、ベッドの頭の方にはいずってきて、僕に抱きついた」
「それは……」
 その意味、その先を察してミッシェルは首筋に氷をあてられたように思った。
「その腕の感触はふっくらと柔らかった。そして、少し冷たい肌はしっとりと滑らかだった。ぞっとするほど官能的な感触だったよ」
 アルベールの顔色はまさに死者のように白かった。
「そしてその時あの女は笑った。確かに僕に流し目をして満足そうに微笑んだんだ。いかにももうあなたは私のものだと言わんばかりの邪悪な笑み…。忘れられないんだ……。僕はその時驚いてベッドから跳ね起きた。そして夢だったとわかったんだ」
 アルベールの枯れたような声の調子に時に激しいものが交じる。
「その時はただの悪夢だと思った。何かの間違いで見た夢だと……」
 一度、アルベールは言葉を切った。
「だけど、毎晩見ているよ。その夢を。……僕はずいぶんと痩せただろう?」
 それは事実だった。4日前と同一人物とは思えない顔色の悪さは、病気になったというより、精気を吸い取られたという方が納得がいくものだった。
「神よ……」
 ミッシェルは思わずつぶやいて、自分の月長石のついたロザリオをアルベールに渡した。「ムーンストーンには夢魔を払う力があるという言い伝えがあるから……」
「ありがとう。君の友情に感謝するよ」
 力無くアルベールは微笑んだ。

「デミトリ様……よろしいですか」
 側近のイザベラは扉を開いて主人に声をかけた。そこはデミトリの城の一角にある訓練場だった。
 そこで彼は自らを鍛えるために部下との戦闘訓練を行っていた。相手となった部下の腕を軽くねじ上げたまま振り向く。
「何だ、イザベラ」
「パーティーの招待状が届いております」
「どこからのだ。返事を急ぐのか」
「はい。魔王ベリオール様からのものです」
「何? 何万回目かの誕生パーティーか?」
「いえ、新しく後継者を定めるので、その発表だそうです」
「何!」
 デミトリの目が見開かれる。
「それでその者はどこの誰なのかね」
「秘密だそうです。パーティーで発表すると……」
「調べろ。コウモリたちを放て」
 ちっ、といまいましげにデミトリは舌打ちをした。
「それから、メルロー家の令嬢とカベルネ家の子息が婚約するという件はどういたしましょう」
「適当な品を持たせた使者を送って置け」
 興味無さそうに言うとデミトリは部下を振り返り、「続きは他の部下としろ」と言い捨てて、彼自身の執務室へと急いだ。

 その晩、ミッシェルは胸騒ぎがして、夜明け前の闇の濃い時刻に目が覚めた。
 アルベールのことが気になって仕方がないので、様子を見に行こうとした。
 古びた木の廊下をランプを掲げてミッシェルは歩いた。あのような話を聞かされた後では、寮のすみずみの闇にも魔が息づいているような気がする。
 アルベールの部屋の前に何か小さく光るものが落ちている。
 拾い上げて見るとそれは、彼が渡したロザリオだった。
 嫌な予感がして、ミッシェルは、扉の前に立った。中からは微かにうめき声らしきものが聞こえた。
 ミッシェルは扉を開いた。鍵はかかっていなかった。
 そして、彼はベッドの上の光景を見て、立ちすくんだ。
 アルベールの上に全裸の女がのしかかっていた。
「あら、見たのね」
 ランプの明かりに照らされた女には、コウモリの翼があった。
 夢魔。
 アルベールの話は本当だった。ミッシェルは目を見開いた。
 その女は、アルベールの話からミッシェルが想像していたより、はるかに美しかった。
 目の前で胸もあらわな姿で微笑むそれは、全身の皮膚が粘膜ででもあるかのようなぬめっとした生々しさに満ちていた。
 目の前の光景が、「見てはいけないもの」であることは明らかで、ミッシェルは恐ろしさから後ずさった。
「ふふっ」
 楽しげに微笑んで、夢魔は裸足でベッドから降りた。左手で胸の辺りを押さえながら二歩、あるいた。そして、右手をゆっくりとミッシェルの方に伸ばした。
 その様は実になまめかしかったが、ミッシェルは恐怖の叫びをあげた。
「い、嫌だあぁ…っ!」
 彼の絶叫は寮の生徒の何人かを起こすのに十分だった。
 くるりと身を翻して彼女はこう言った。
「また会いましょう。あなたの夢の中で……」
 そして、夢魔は閉じた窓の前で、光る霧になって消えた。
「あ…あ…」
 ミッシェルは腰が抜けて、その場にしゃがみこんでしまった。
「どうした…!」
「何だ!」
 両隣の部屋の生徒が2、3人駆け込んできた。
「しっかりしろよ!」
 そのうちの一人がミッシェルを抱き起こしたとき、ベッドに駆け寄ったもう一人が言った。
「死んでる…」
 彼は振り向いて叫んだ。
「誰か寮長を呼んでくれ。医者でもいい! ともかく脈がないんだ…!」
 その声を聞いて、ミッシェルのあごはがっくりとのけぞった。
 気絶したミッシェルを抱えた生徒は、異常事態にただ呆然とするばかりだった。
 アルベールは助からなかった。そして、その次の夜からミッシェルも衰弱していった。
 その理由を問う友人に彼は「巻き込みたくない」と沈黙を貫いた。

「ジェダ様。アルノー家の次期後継者、ジャービス様からのお手紙ですが」
 読書の最中だった冥王は、切れ長の目を部下に向けた。最新の哲学書を手にしたまま問いかける。
「用件は」
 オゾムは不合理なことを好まない主のために手短に述べた。
「はっ、要するにマキシモフ家の当主に婚約者をとられて腹が立ったから、彼の領地に攻め込みたい。兵を貸してくれ、ということです」
 ジェダはいかにも興味無さそうに、視線を再び本に落とした。
「敵の敵は味方という古典的な発想だね。確かにあの吸血鬼は下らない野心家だ。しかし、ジャービスはそれ以上の愚か者だ。私は彼の味方をする気はない。今、マキシモフ家とことを構えても面倒が増えるだけだ」
「では、丁重にお断りしますか」
 ジェダは微かに首を傾げ、少し考えた。
「そうだね。ついでに、今度開かれる魔王の宮殿のパーティーで、デミトリ自身を直接問い詰めたらどうかね、と書き添えておきたまえ」
「あの方なら問い詰めるだけでなく、そのまま一発殴りそうな気がしますが」
 それでいいのですかと問うような部下に、冥王はわずかに目を細めて笑った。
「それだからこそ、というものだよ。乱闘騒ぎになれば、デミトリの評価も下がるだろうからね。魔王の後継者の婿選びが始まるこの時期、あの男に対する世間の目とやらを厳しくしておいた方が得策というものではないかね。……では代筆を頼む。サインは私がするので夜までには持ってくるように」
 彼はそういうと再び読書を始めた。

 夜ごと夢魔の訪問を受けている少年は、暗い夢の迷宮の中を走っていた。
 それは石作りの深い迷宮で、ところどころ水がしたたり落ちていた。彼、ミッシェル=リデルはこの世の者とは思えぬ美女に追われ、そこを逃げまどっているのだった。時々、彼は途中に扉を見つけ逃げ込もうとするのだが、すべての扉は閉ざされていた。
 追っ手は迫ってくる。足音もなく。相手は人ではなかった。
 捕まれば自分は終わりだ。
 そのことだけは確信があった。勝算はなく、ミッシェルの心にはただ恐怖だけがあった。 角を曲がり、重厚な両開きの扉を彼は押し開き、中へ転げ込んだ。無我夢中でカンヌキをかける。振り返るとそこは礼拝堂だった。キリストが描かれたステンドグラスを通して、部屋に流れ込む月光が、白っぽい石の床を淡く染めている。
 ミッシェルは白いマリア像の足元にひざまずき、救いを求めて祈った。神学生の彼にとって見慣れた聖母像は、穏やかな微笑みを浮かべていた。その笑みに脅えきった彼の心は次第に安らぎを取り戻してきた。
「マリア様……」
 彼が寄る辺ない子供の目で見上げた時、石作りのマリア像の姿が変貌を始めた。
 硬い大理石の肌は、やわらかな肉の肌へ。爪は薄紅に、唇は濡れたように艶やかな紅に。白いだけの瞳は淡い緑にきらめき、長いまつげがそれを縁取っていた。もはや明らかに生身となったその像はくすりと笑って、フードをとった。その下から現れたのは、ステンドグラスの光によって虹色に輝く、長い銀髪。
 ミッシェルは息を飲んで後ずさった。
 正体を現した夢魔はこの上なく妖艶に微笑み、ばさりと聖母の衣裳を脱ぎ捨てた。白い裸身が逆光で縁取られたように淡く光を放つ。
 重さを感じさせない動作で、祭壇から床へと夢魔はすべりおりた。
 その優雅さに少年は一瞬逃げることを忘れた。
 彼がはっとして身をひるがえした時、すばやくサキュバスは駆け寄ってその手首をつかんだ。
 女のものとは思えない、強い力だった。
 怯えた目でミッシェルは女を見つめた。
 次の瞬間、彼は冷たい床に背中からたたきつけられた。
 苦痛に一瞬目を閉じ、その目を開くと目の前に夢魔の顔があった。
「ふふっ」
 含み笑いが甘い香りの息とともに彼の顔にかかった。
「あ……」
 その先は声にならなかった。
「そんなに怖がらなくていいのよ。それに良心の痛みなんて最初だけ。あとはひたすら気持ちがいいの……」
「いやだ…」
「あら。ここのところ毎晩お楽しみなのに、いまさら嫌だというの。昨日の晩だって何度も出していたじゃない」
 ミッシェルは今朝、べとべとに汚れていた下着のことを思い出して、嫌悪感を強くした。「離せ、悪しき者よ!」
 払いのけようとする腕をあっさりとにぎり、夢魔はくすくすと笑った。
「あなたももう共犯よ。あなたはすでに『救われない者』なのよ」
 絶望に身をすくませるミッシェルの服を、夢魔は素早く剥ぎ取った。
 まだ雄になりきっていない、未熟な体が露になる。
 それは上にのしかかる女の成熟した肉体と比べて、痛々しいほどに力を欠いた体だった。

 夜明け前の闇の濃い時刻、学生寮の屋根の上に女がひとり座っていた。
 周囲の暗さに紛れるような、黒い衣服に身を包み、夜風に銀髪をなびかせていた。
 白く形のよい指が、血の色が皮膚の下から透けて紅に艶めく唇を、撫でた。
 それはキスを回想するときの仕草にも似て、なまめかしかった。
「モリガン様……ご満足なされましたか」
 その肩の蝙蝠が囁く。
「ええ。汚れを知らない少年を堕とす気分は、いつも甘いものね」
「明日また魔界の扉が開きます」
「そうね。ほかにも美味しそうな男の子はいたけど、そろそろ帰らないとペジの胃に穴が開くわね」
「はい。それから魔王様がモリガン様を、後継者としてお披露目する宴の準備のために、モリガン様に会おうとなさる可能性があります」
「厄介なパーティーもあったものだわね。魔界に帰ったら、魔王の後継者。このままここで暮らしたいわ」
「そんなことをおっしゃらずに……」
「はいはい」
 夢魔は周囲の蝙蝠たちを翼に変え、屋根から飛び去った。その姿は夜闇の中で、虚空へ吸い込まれるように消えた。

第四章  紅玉の瞳

「デミトリ様……到着致しました」
 魔王の城についたデミトリはカミーユを伴って馬車から降りた。後続の馬車から供の者達も次々に、降りる。
 馬車、と言っても馬ではなく立派な角を持つ歴とした魔界獣だ。
 魔王の後継者の姿が、主だった貴族の前に披露される日が来たのである。他の貴族の馬車も次々に到着しつつあった。
 デミトリは、魔王の城を見上げて、その歴史を思った。
 彼の城とは違う古風な建築方式と装飾。デミトリの城は華麗でやや装飾過剰だったが、この城は重厚な雰囲気を漂わせていた。色あせた石の柱が、かえって犯し難い気品を感じさせる。
 それが立つ崖に彫られた巨大な魔物の顔に目をやって、見るものを威圧する城だな……とデミトリは思った。
 この古く巨大な城は長くアーンスランド家が、魔界の支配者であることを示していた。
 だが、いずれ……デミトリは心ひそかに思うと、名を告げて門をくぐった。

 パーティー会場は魔王の宮殿の大広間だった。
 傍らにカミーユを伴い、数々の貴族と談笑しながら、デミトリはこの宴の主役の登場を待ち侘びていた。
 彼なりに色々調べたが、結局養女となるはずの女に関して詳しいことはわからなかった。「モリガンという名で、種族はサキュバス。性格は気まぐれで、容姿は美しい」ということだけが確実な情報だったが、それだけでは何もわからないに等しい。魔王が選ぶからにはおそらく魔力も相当なものだとは思うが、サキュバスではたかがしれているという気もする。
 ……どんな女なのだ。モリガンという女は。
 この疑問は客のほとんどに共通するものだった。
 強いのか。美しいのか。魔王との関係は。
 すでにモリガンに会っているジェダは、他の貴族の品のない憶測をうんざりしながら聞いていた。
「サキュバスでは魔力もたいしたことあるまい。どうせ色香だけがとりえの愚かな女さ」
 などと低い声で貴族たちが話しているのを聞きながら、ジェダは内心で「愚かなのはおまえたちの方だ」とつぶやいた。先入観でばかり語り、確かさを求めない。こういう連中が魔界を支配しているかと思うと頭が痛くなる。
 その時、広間にラッパが響き渡った。
「魔王ベリオール陛下並びに、モリガン様のご登場である…!」
 客の目がいっせいにそちらを向いた。
 ひとりの女が魔王に伴われて立っていた。
 デミトリは目を見開いた。見覚えのある女だったからである。
 それは、半年ほど前に闘った女だった。
 魔界の扉から人間界へと初めて視察に出た彼は、成り行きで彼女と闘う羽目になった。
 別れ際、夢魔は言った。
「私たちがそういう運命ならば、またどこかで出会えるわ」
 彼は名乗る代わりに指輪を渡した。
 それは、そのまま別れるには惜しい何かを感じさせる女だったからだが、別に彼女が彼の城を訪ねてくるようなこともなかった。
 だが、ここで会うことになるとはな……。
 モリガンはゆっくりと階段を降りて来た。
 彼女の華やかさと堂々たる態度はその場に集まった一同の瞳に、まるで真夜中の太陽のごとく輝いて見えた。
 豪華な衣装にモリガンは身を包んでいた。深みのある濃い緑のベルベットのイブニングドレスは、胸元や優雅な模様を金糸で刺繍され、全体にきらめくダイアモンドがちりばめられていた。
 だが、実は見るものの視線は衣装や装飾品ではなく、その肉体や物腰や表情に注がれていた。
 そのローブデコルテの大きく開いた胸元からは、豊かな胸のふくらみと優美な曲線を描く鎖骨が見えていた。
 腰はぐっと引き締まり、腕はすらっとして長かった。その場にいた男の多くは釣り鐘形のスカートに隠れた下半身を想像しただろう。上があんなにあるなら下の方も豊かに違いない、と。
 「サキュバス」という種族名や「ひどいおてんば」という前評判に反して、その身のこなしは上品でありその微笑みはとても優雅だった。
 魔王が彼女を後継者にすることを真剣に考えて教育したことが、その一事からも察せられるな、とジェダは観察しながら思った。
 モリガンはそこに居並ぶ男女が皆自分に視線を注いでいるのを感じると、広間を見渡して女王の微笑を浮かべた。
 その微笑みを見てデミトリは、ほう、さすがに大した女だ、と思った。自分の価値に絶大な自信を持っている。
 男たちに囲まれて微笑しているモリガンにデミトリは近づいた。マキシモフ家当主と知って、下位の貴族達が脇にのく。
 デミトリは近くによって初めてモリガンの指に、例のブラックオパールが輝いているのに気が付いた。
「お久しぶりです。モリガン様」
 微笑みを浮かべてあいさつする。
「あら、どなただったかしら」
 デミトリの期待に反して、モリガンの方はどうやら本当に忘れている様子だった。
「そのオパールの指輪を贈らせていただいた男ですが」
「あら。あの方」
 さすがに思い出した様子である。
 モリガンの瞳が悪戯っぽく輝いた。
「あの夜はなかなかに楽しかったわ。またご一緒したいと思っていたの」
「こちらも、あの夜以来あなたのことを忘れられず、またお会いしたいと願っていました。それでは、再会を祝して一曲いかがですか」
 デミトリはすっと右手をあげた。その手を胸元にあてて優雅な一礼をする。
「そうね。悪くないわ」
「それでは」
 彼の手は宙に滑らかに曲線を描いて、モリガンに差し伸べられた。
 モリガンは男の手に、ブラックオパールの指輪の代わりに、大粒のルビーの指輪がはめられているのを見た。
「今夜の貴方の指輪は紅玉なのね」
「私の瞳の色ですよ」
 その言葉にモリガンはデミトリと視線をあわせた。
 その瞳は吸血鬼特有の赤い色。血の色が透けているのだろうか。
「なんて鮮やかな赤かしら。ルビーとすれば最高級ね」
「モリガン様。貴方の瞳も実に美しいですね。ペリドットのような瞳です」
「あら、なぜエメラルドではないのかしら」
 ペリドットはエメラルドに比べ一般に色が薄く、格も落ちる。モリガンの瞳は淡い緑なので、形容としては落ち着きのあるエメラルドより、生き生きと明るいペリドットという方が正しいかもしれなかったが。
「一点の曇りもない瞳だと言いたかったのですよ」
 エメラルドは鉱物としての出来方の問題で、必ずと言っていいほど石の中に疵がある。それが本物の証しとされるくらいだ。
「ふふ、ありがとう」
 モリガンはその答えに満足したらしく、デミトリにつっと身を寄せて踊りの態勢をとった。
 ふたりが踊る様は、多くの者に「なんて優雅な」というような感じに受け止められたが、それ以上に「あのマキシモフ公が先手を打った」という意味あいをもって受け止められた。
 その場にいた貴族の中には、モリガンを口説こうと思っていた者も決して少なくない。彼らは揃ってデミトリをライバル視した。
 デミトリはそのような嫉妬の視線が自分に向けられているのを一瞥して見て取り、計算どおりだと内心でほくそ笑んだ。
 モリガンはそういう周囲の思いを、ただのゴタゴタとして面白がっていた。
 この男とスキャンダルになるのも悪くないかも、とアデュースあたりが知ったなら「軽率です〜」と泣きそうなことを考えていたのである。
 一曲踊り終わった後、デミトリは「ラストダンスもご一緒に」と耳打ちして去った。
 息もきらさずに、ワイングラスを手にしたデミトリに、冷ややかで礼儀正しい声がかけられた。それはドーマ家当主の声だった。
「久しぶりだね。デミトリ。相変わらず君のお手並みは鮮やかだ。二言三言で初めて出会った女性をダンスに誘うとはね」
「いや、今回は初めてでなかったから誘えたのだが」
 ジェダはデミトリの前からモリガンを知っているような口ぶりにはっとした。モリガンをデミトリはどの程度知っているのか?
「あの少女を前からご存じか?」
「以前ちょっとしたことで、知り合ったのだがね。しかし、あの妖艶な女性に「少女」という形容はどうかな」
 そういうと彼は目を細めるようにして含みのある笑みを浮かべた。その言葉に、ジェダはデミトリがモリガンを「女」として見ているのを察し、「やれやれ」と思った。
 6000歳を超すジェダにとっては、200歳のモリガンなど少女に過ぎない。
 デミトリはまだ400歳の若造のはずなので、別に構わないのだろうが。
 しかし……当然のことながらこの男もまた、モリガンをものにせんと狙っているのだ。野心と色欲から。そうでなければこうも「男」の笑いをしないだろう。
 油断はできない。表面上は和やかに世間話などをしつつ、ジェダはデミトリに対する警戒心を強めて行った。
「それでは、私は他の方々にも用があるので」
 とジェダはしばらく後、一礼してデミトリの側を離れた。
 デミトリも礼を返した。
 ジェダが察した通り、デミトリもまたモリガンを手に入れる気でいた。彼がモリガンという女が王位継承者になるという話を聞いてから、その決意をするまで5秒とかからなかったろう。
 しかし、その「モリガン」が「以前闘った夢魔」であると知り、彼の心には微妙な変化が生じていた。
 一言でいうなら、こういう感情だ。
 その地位抜きでも興味がある。
 そんなことを考えながら、デミトリはモリガンを見つめた。
 その時、彼の耳に憎しみに満ちた声が突き刺さった。
「デミトリ=マキシモフ公でいらっしゃいますな」
 振り返ってデミトリは先日パーティーで見た、カミーユの婚約者が立っているのに気づいた。
「おや君か。カミーユなら元気で、あそこにいるが」
 平然とカミーユの方を手で指し示す。
「あの尻軽女はもはやどうでもよい。それより貴様に用がある」
 その言いようにデミトリの眉が顰められる。
「何の用だね」
「貴様に決闘を申し込む」
「ほほう。これはこれは…。だが、君はまだ若い。命を大切にした方がいい」
 そのはなから馬鹿にした態度にジャービスはきれた。
「覚悟…!」
「おっと」
 デミトリが素早く後ろに下がったので、ジャービスの拳は近くのテーブルをぶち割った。
「きゃああ!」
 給仕をしていたメイドが悲鳴を上げる。近くの腕に覚えのある貴族達が数人がかりで、「早まるな」「陛下の前だぞ」などといってジャービスを押さえ付けた。
「この……」
 ざわめきの中、玉座を降りた魔王がその中心へと歩いて来た。
 悠然と進み出た魔王はこう問いかけた。
「ここで闘われては困るな。しかし、事情があることでもある」
 デミトリがジャービスの婚約者を横からかっさらったことは、当然魔王の耳にも入っていた。
 ジャービスの目にはまだ憎悪があったが、彼は冷静さを取り戻しつつあった。そして、その前に立つデミトリは、最初から冷静だった。
 魔王は対照的な二人の顔を眺めて言った。
「両者とも決闘を望むか?」
「もちろんです。この男を許すことはできません」
「はい。私としても身に降りかかる火の粉は、払わねばなりませんのでね」
「ならば明日の黄昏時、我が闘技場をお前達のために貸してやろう」
 その寛大な申し出に一同がざわめいた。
「はっ、喜んでそうさせていただきます」
 と意気込んでジャービスはひざまずいた。
「陛下のありがたき心遣い感謝致します」
 と落ち着き払ってデミトリもひざをついた。

 その騒ぎを遠くから眺めていたモリガンは、パーティーが終わった後、自室でアデュースに「何があったの?」と聞いた。
 アデュースはまずモリガンにパーティーでデミトリが連れていた女性を見たか、と聞いた。モリガンはうなずいた。
「あの女性はあの暴れた男性の婚約者だったんです。ですが、その婚約パーティーに招かれた折り、デミトリ様が見初めて自分の愛人にならないかともちかけて、そのままつれ去ったんです」
「あら、手が早いわね。女は嫌がらなかったの?」
「彼女はデミトリ様に一目惚れだったようです」
「そんなにいい男かしら」
 モリガンは小首をかしげていった。
「少なくともカミーユ様にとっては。おふたりが連れ立っている姿をお見かけしましたが、カミーユ様は満ち足りたご様子でデミトリ様の傍らで微笑んでおられました」
「あら、そうなの。気づかなかったわ」
「もう少し、他者を観察なさった方がよろしいですよ。モリガン様。そして、カミーユ様の両親は驚かれましたが、すぐさまデミトリ様から使者が送られて来ました。
 デミトリ様は金と外交上の便宜を図ることをお約束なさいました。
 両親の方々は彼の勢力をもお考えになり、それで納得しましたが、おさまらないのは婚約者です。
 これで兵さえ整えば彼の国にすぐ攻め込んでいたかもしれない、という位のお腹立ちだったようです。
 おそらく、デミトリ様がカミーユ様を己の愛人としてこの宴に堂々と連れて来ているのを見てついに怒り心頭に達したのでしょう」
 モリガンは浮き浮きした様子でその話を聞いていた。
「面白い話ね。明日の決闘が楽しみだわ」
「決闘自体はすぐ終わると思います」
 アデュースは事務的に答えた。
「デミトリの方が強すぎるから?」
 モリガンは微笑し、アデュースの目をのぞき込んで聞いた。
「ええ。さすが、よく見抜かれましたね」
 アデュースもにっこりと微笑み返した。

 その頃、自室に戻ったベリオールに従者が話しかけていた。
「魔王様、よいのですか? 大事な宴を台なしにしたあの者たちをお許しになられて」
「宴の見世物がひとつ増えただけと思えばよい。たいして面白いカードでもないだろうが、他人の情事の噂話と殺し合いの見物は暇な貴族達の最も好む所だ」
 魔王はなにもかもを、面白半分で見ているような物言いをした。

 魔王の闘技場は城の地下にあった。巨大な天然の洞窟を利用し、大理石作りの舞台と客席がしつらえてある。
 舞台の幅は50メートルほど。観客席は300ほどであまり大きくはない。限られた招待客達のための場所で、残酷な闘いや秘密の儀式、エロティックな見世物などがその舞台の上で行われていた。
 その日の黄昏時、闘技場には一杯の見物人が集まった。
 ほとんど全ての者が「デミトリの勝利」と信じていた。だからといってジャービスに同情するわけでもなく、大半の者の見解は「馬鹿だねえ」の一言につきた。
 といってデミトリを応援するでもない。むしろ、彼のこれまでのスキャンダルをひそひそと語っている連中が多かった。「あの男はちょっといい女と思うとすぐ……」「ですけれど、この前ある人妻からの誘いを……」「遊び好きな女も相手になさるが、やはり処女が……」等々。
 上品な方々が下品な会話をしている中で、ジェダは冷ややかにその手の話題を無視していた。
 彼の興味はこの闘いで示されるデミトリの強さにあった。その一端でも目にすれば、後々あの男と闘うはめになったとき参考になるというものだ。
 定められた時刻になり、ジャービスが緊張した面持ちで闘技場に出て来る。
 それに続いてデミトリが登場したが、こちらは緊張とは程遠く、悠然としていた。
 最も眺めの良い席に座った魔王が、立ち上がって言った。
「準備はよろしいかな。それでは、両者共に力の限り闘うが良い」
 そして、審判役が声高く叫ぶ。
「始め!」
 デミトリが踏み込んで、ジャービスの顔を目がけて拳を突き出す。
 ジャービスがとっさにガードし、ジャンプして後ろに下がる。
 彼の両手の人差し指が長く伸び、鞭状に変化した。
 ひゅっ、ひゅっと空を切る音がする。
 彼はリーチのあるそれを振り回して、デミトリを牽制した。
 デミトリは一旦下がって相手の攻撃パターンを読もうとしていた。
 割合単純だな、と見切ると「ファイア!」とコウモリで牽制し、そのまま前進した。
 コウモリをガードしたジャービスの目の前に突然デミトリは現れた。
 す…とジャービスに薔薇の花が差し出される。
「カモン ベィビィ……」
 デミトリは低く、甘い声で言うと彼に花を投げた。
 次の瞬間白煙が立ちのぼり、ジャービスの姿は寝間着姿の茶色の髪の女性に変化していた。
 女の首筋に魔物の鉤爪がかけられる。それは肌を切り裂き、がっちりと首をつかんだ。
身動きも出来ないまま宙に腕一本で吊り上げられる。
 ジャービスは本性を現したデミトリの姿を見て、ぞくっとした。
 青黒い肌。赤く輝く眼。長く鋭い牙。
 ジャービスの首から滴り落ちる血は、その魔物の唇に吸い込まれて行った。
「ぅん…」
 本人もぞっとするような呻きをジャービスは漏らした。
 吸血はほんの一瞬の出来事で、デミトリは血に濡れた唇を長い舌でぺろりとなめると、その手のひらから魔力を放出した。
 魔力の炎が一瞬ジャービスの体を包む。
 吸血鬼はそこで手を放し、女の体は地に落ちた。
 そのままデミトリは人間に似た姿に戻って、すう…と後ろへ下がる。
「お似合いだな」
 穏やかな声に嘲りの響き、止めに手慣れた投げキッス。
 観客席から驚きと畏怖の声に交じって、くすくす笑いが聞こえた。
 ジャービスは手をついて起き上がろうとした。肉体は男に戻っていたが、火傷が痛んだ。
 立ち上がろうとして、そのまま転倒する。
「無理は止したまえ」
 慈悲さえ感じさせるような優越感に満ちた声を聞きながら、彼は気を失った。
「勝負はあった。勝者はマキシモフ家当主である」
 審判役を魔王から仰せつかった貴族が声を張り上げた。
 闘技場の観客たちは鮮やかな闘い振りを見せた勝者に、惜しみ無く拍手と歓声を送った。デミトリに花を投げる貴婦人もいた。
 ジェダはそれを聞きながら、こういう所が魔界貴族連中の不可解なところだ、と思った。
 この場にいる者の中で、デミトリに好意的な者など少ないはずだ。なのに、勝てば喜ぶ。いや、別に憎んでいなくても悪口をいい、噂話のネタにするのがこの連中なのか。それとも勝者なら誰でもいいのか。礼儀だから、で拍手しているならそれはそれで裏表があって油断できないが。
 だがおそらく、面白いから噂をし、楽しかったから闘いに拍手したというのが、彼らの行動パターンから察する真相なのだろう。
 実に下らない。
 どうしてこう目の前のことだけしか考えられないのか。
 これだから、魔界には争いが絶えないのだ。
 ジェダは盛り上がった雰囲気の闘技場で、独り冷ややかにデミトリを見つめた。

 モリガンは特別席で闘いを見物した後、控えの間にデミトリを訪ねて行った。
「今日の貴方、なかなか素敵だったわ」
「モリガン嬢にそうおっしゃって頂けるとは。身に余る光栄でございます」
「明日の夜、貴方のお部屋にお邪魔してもいいかしら。ごゆっくりお話ししたいの」
 モリガンは上目使いに見上げて唇に笑みを浮かべた。
 それはとても妖艶な微笑み。狙った獲物は逃さない魔性の者の笑みだった。
「もちろん、歓迎致します。私の部屋は東の棟の2階の階段から左に4番目です。扉にファイアドラゴンの彫刻のある部屋なのでお間違えなく……フフ、今晩でも構いませんよ」
 こちらも耳元にそっとささやきかける。女は気持ち良さそうにしていた。
「今夜はお疲れでしょう。それでは、明日の夜に」
「それでは、後程お会いしましょう」
 デミトリは優雅に一礼をした。

 約束の夜、デミトリは話がうますぎると思いながら、自室として割り当てられた客室で、紅茶をすすりながら待っていた。
 だいぶ夜も遅く、からかわれたのかもしれない、と思い始めたころ扉をノックする音が響いた。扉を開けると、以前人間界で出会ったときのような格好のモリガンが、悪戯っぽい笑みを浮かべてたっていた。
「遅くなって、ごめんなさいね。なかなかこっそり抜け出すチャンスがなかったの」
「いや、君を待つ時間は楽しかったよ。さあ、部屋の中へ入りたまえ」
「いえ……実はお願いがあるの。外へ行きましょう」
「外へ? わかった」
 デミトリはモリガンと共に、物陰に隠れるようにしながら廊下を歩いた。
 モリガンの案内で使用人用の出入り口から、こっそりと城を出る。
 あたりを見回す彼らの頭上で、三日月が輝いていた。
 彼女はデミトリを、城の近くの洞窟に連れて行った。
 その洞窟の入り口には特殊な魔法がかけられていて、外からはそこに洞窟があると気づけないようになっていた。
「ここは君のお気に入りの場所なのかね」
 デミトリは暗い洞窟を眺めて言った。その洞窟は入り口からすぐの所が割合広くなっていて、天井からはクリーム色の鍾乳石が無数に下がっていた。
「そうよ。よく、ここにきているの」
 デミトリは、入り口の右脇の石作りの水路と池を眺めた。魔物の彫刻が抱える土管から紫の濁った水が流れ出している。地下水が洞窟内を水浸しにしないために作られたものだろうか。
「あの服は?」
 デミトリは左脇の細い洞窟に置いてある、ドレスを指して聞いた。
「こっそり遊びに行くときの着替えよ。服の側においてある柩には、小物類が入っているわ」
「城での暮らしは、そんなにも退屈なのかね」
「もちろんよ。それでデミトリ……」
「何だね、モリガン」
 デミトリはこんな所まで自分を連れて来た理由は、秘密の話があるか、色っぽい誘いかだろうと思っていたので、甘い声で名を呼んだ。
「実は私、あなたともう一度闘いたいと思っていたの。お手合わせ願えるかしら」
「……喜んで」
 彼は失望を気取られないように、穏やかな声で答えた。
「それでは……」
 とデミトリが身構えた瞬間、モリガンの表情が一変した。彼女らがいる広間から、二股に分かれる洞窟の左側の方の奥に向かって叫ぶ。
「誰かいるの? 出ていらっしゃい!」
「よくお気づきになられましたね。お待ちしておりました」
 そこから、武装した男たちが次々に現れ、すばやく出入り口を塞ぐように並んだ。
 リーダーと思われる男は顔を夜会用の仮面で隠していた。
「モリガン=ファルですな」
 モリガンはその名にぴくっと反応した。
「あなたたち何者?」
「答える義務はございませんな」
 ずざさっと男たちがモリガン達のまわりを半円形に取り囲む。
 その数は十三。デミトリは相手の魔力を推し量って、かなり強いが難しい相手ではないな、と思った。
 リーダーらしき男は落ち着き払って、モリガンの傍らのデミトリに言った。
「巻き込まれた君には気の毒だが、ここで死んでもらう」
「私を誰だと思っているのかね」
「この女の餌か玩具だろう?」
 当たり前のことと言わんばかりに答える。
 デミトリはその言い草に眼光を鋭くした。
「私に対する無礼は、死をもって償ってもらおう」
 かつん、と足音を立てて一歩前に出る。
「腕に覚えがあると見える……どこかの貴族に仕える、そこそこ地位のある騎士と言ったところかな」
 デミトリの服装と体格からそう判断を下す。デミトリは内心で「もっと上だ!」と思ったが、サキュバスが戯れる相手としてはそんなところだろうということも思った。
「モリガン、この男たちは全て殺すつもりかね」
「できれば、一匹か二匹残して。一応尋問するから」
 その会話を無視してリーダーの男は、前を向いたまま部下たちに言った。
「我が精鋭達よ、油断するな。仮にもアーンスランドの後継者候補だ。まず男の方から片付けろ」
「弱そうなやつから倒せ……戦術的に正しい判断だが、私が弱いという判断の間違いを思い知らせてやろう」
「ふふっ、さすがね。デミトリ」
 モリガンが楽しげに微笑む。
「マキシモフ家当主、まさか!」
「なるほど……我が名は知るとも顔は知らず、か。昨日の決闘を見物しなかったのかね」
「私たちは昨日ここへ……」
 男はそこで口をつぐんだ。
「遠くから来たばかりなのかね。それにその微かな訛り。貴様は、ここから北にある地方の士官だな。田舎者が。自分の不運を呪うがいい」
 男は一瞬ぎくっとした様子だった。しかし、身構えて部下たちに叫んだ。
「両者とも殺せ! 油断するな!」
 デミトリはすぐさま後ろに跳んだ。地に降りると同時に「ファイア!」と炎をまとったコウモリを放つ。それは避けようとした男の喉笛に噛みついた。
 モリガンはふわりと天井に舞った。次の瞬間翼が変じた無数の針が、男たちを突き刺した。
 デミトリに男の一人が飛びかかる。デミトリも跳び、空中で相手をつかんで、頭から地上に叩き落とした。
 モリガンがしゃがみこんで近くの男に足払いをくらわし、ヒールで踏み付ける。
 蹴る、殴る、投げる。しばらくすると襲われた側の方が素早く、判断も的確だということに襲った側にも明らかになってきた。ともかく暗殺者の側の攻撃がまともに当たらないのに比して、一対の男女の攻撃は確実に相手にダメージを与えていた。
 傷、打撲、骨折。モリガンの肌から血を飛び散らせた男は、次の瞬間心臓をモリガンのドリルと変じた手によって貫かれていた。
「私の肉体に傷をつけるなんてばかな男ね」
 モリガンは頬に飛び散った返り血を、優雅な指で拭った。
 その脇でデミトリは、目の前の男のあごを拳で砕いていた。
 その有り様に残る暗殺者達に脅えが走る。たかがサキュバス一匹、そう思って来たのだが、彼女自身の強さもさることながら、「闇の貴公子」として有名なデミトリの強さは、こんな力ある戦士と闘うなんて話は聞いていない! と叫びたくなるようなものだった。
 無意識のうちに後ろに下がる暗殺者に、デミトリが跳び蹴りを食らわし、相手がのけぞると同時に翼で斬りつける。
 もう一体が後ろから、デミトリに殴り掛かるのを、彼はしゃがんでかわすと同時に足払いをかけ、倒れた相手の腹を容赦なく踏み付けた。
「次は誰だね」
 再びマントへと変じた翼の端から血を滴らせ、楽しげに言う。
 その笑みを見て、前に進もうとする者はいなかった。
「来ないならこっちから行くぞ」
 低い声で言うと、恐怖で硬直した男の喉に指を突き立てて、溢れる血に濡れた爪を嘗める。その男の体を寄って来た別の男に投げ付ける。ぐっと手の甲で口を拭う。太い牙を見せて笑う。
「悪くない。もっと血が欲しいものだな」
 ひっ、という悲鳴が挙がる。やはり「喰われる」ことは単に「殺される」こと以上に恐ろしい。
 少し離れた所では、モリガンが、
「おととい、いらっしゃい」
 と男をブーツで蹴り上げていた。
 暗殺者たちがすべて地に倒れふすまでに、そう長い時間はかからなかった。
「拷問で吐く可能性は低そうね」
 ひとりだけ生き残らされた、リーダーらしき男を3、4回けり飛ばして、モリガンは言った。
「もちろん、城に戻れば最新かつ最高の拷問設備が整っているし、それも楽しいんだけれど、謎を解く手段としては無意味だわ」
 デミトリはにっと牙を見せて不気味に笑った。
「手段はある。その代わりこの後、この男を証人として公式の場に出すことは出来なくなるが」
「それでいいわ」
 モリガンは霜の降りたような声で言った。
「それでは」
 デミトリは男の胸倉をがっちりと掴むと、後頭部をドンとたたいた。
 気絶した男のあごががっくりとのけぞる。デミトリはそのケープを外し、上着の上の方のボタンを外して、男の首筋を露出させた。
「なるほどね……」
 モリガンが納得したようにつぶやく。
「あまり女性には見せたくない姿なので、後ろを向いてくれないか」
 モリガンは相手の美意識に、敬意を払った。
 次の瞬間デミトリの姿が変貌した。まとっていた燕尾服が陽炎のように揺らめいて消える。青黒く肌の色が変色する。炭火のように赤く目は光り、広げられた皮の翼は不吉に黒い。
 尖った牙を剥き出し、喉に突き立てる。牙が肌を破る瞬間、男は空気を切るような短い悲鳴をあげた。だが、すぐに眼を見開いたままぐったりとしてしまう。それは恍惚の表情にも見えた。血を啜る音が洞窟内に響く。
 やがて、デミトリは満足したという表情を浮かべて、身を離した。
 見る間に彼の姿が元の貴公子然としたものに戻る。
「もうこちらを向いてよい」
 彼はモリガンに言った。
 デミトリは爪で自分の人差し指の第一関節あたりを切った。
 僅かな血が滴り落ちる。
 それを半開きになった男の唇に押し込む。そして、
「嘗めろ」
 とだけ言う。男は最初嫌がっているようにも見えたが、しばらくして引き抜かれたデミトリの指に赤い色はなく、透明に濡れていた。
「さあ、今宵からは私がお前の主人だ。まず名前を聞こう」
 それは優しい声。とても優しい声。
 側で聞いていたモリガンは、なんて冷たい声だろう、と感じた。それは絶対に逆らえない者に対する声。
「名は、アルノー=ウィグルス」
 半ば夢の中にいるような声で答える。
「敬語を使いたまえ。それで、どこの貴族に仕えているのかね」
「アーンスランド家のベロア地方の分家でございます」
「ほう。この度モリガンを襲った理由は?」
「はい。分家の当主エゼルブ様の母上が、息子をアーンスランド家の後継者にしたいとお考えになり、モリガンを亡き者にするようにと仰せになりました」
「なるほど。おおよその事情は解った」
 デミトリは言い、モリガンを見た。
「何か他に聞きたいことはあるかね」
「別にないわ」
 デミトリは、もう一度強く後頭部をたたいた。
 アルノーは再び倒れた。
「それでは、邪魔が片付いた所で闘うかね」
 モリガンは死体が積み重なる中で、
「さすがに今夜これ以上闘う気はないわ」と返事をした。
「そうか。それでは、このまま部屋にお帰りかね」
「ええ。悪かったわね。こんな戦いに付き合わせて」
「いや、楽しかったよ。しかし、君の闘っている姿は本当に美しかったな」
 デミトリは低い声で言うと、すっとモリガンの肩を抱き寄せた。
「やめてよ。そんな気分じゃないわ」
 モリガンは静かに肩の手を外した。
「おや、ショックなのかね。命を狙われたことが。君のような立場ならこれまで何度もこんなことはあったと思うのだが……それでも身内との争いは、嫌なことであることに変わりはないかね」
「お互い身内なんて思っていないわ。向こうにとってはサキュバスなんて下等種族よ。こちらから見れば、暗殺を企てる連中は血筋ばかりで力もなく、それを認めない馬鹿ばっかり。こんないざこざにはもう、うんざりしているわ」
「随分前から権力争いに傷つけられて来たのだね」
 デミトリが穏やかな声で慰めるように言う。
「権力なんて下らないわ」
 モリガンは断言した。
「ご存じかしら。実は、アーンスランドの一族の中で「賢い」と言われる者たちはみんな私に手を出さないのよ。私が死ぬのを待っているの。あいつらはみんな千年は生きるのだもの」
「そうか。サキュバスの寿命は400年。君は、あと200年の命なのだね」
「貴方も長命種よね。吸血鬼だもの。ふふっ、このまま行けば、ベリオール様より私の方が先に死ぬわ。何のために私を後継者に指名なさったのかしら……」
 モリガンの顔に憂いの影が差す。彼女は思い出していた。魔王の予知を。
「ふっ、これまで私は君を単なる遊び好きと思っていたが、実は短い生を激しく生きる気なのだな」
「そうよ、快感が好き。永遠の愛なんて無意味だわ。たった200年なのに」
「ならば、数少ない夜を快楽の炎で彩るのもよかろう。夜はまだ始まったばかりだ。今宵は私と共に一瞬の高みを目指さないかね」
 モリガンはデミトリの顔を一瞥した。
「悪くないかもしれないわね」
「かなりいい相手だと思うがね。望むだけ抱いてやろう」
 モリガンはデミトリの肉体を、額から足の爪先まで見た。
「そうね。このまま部屋に帰っても、嫌な気分で眠れないだけね」
 慣れた笑みを男に向ける。
 デミトリはモリガンの腰を撫でるようにして抱いた。モリガンは逆らわずに目を閉じた。
 男は女の唇をそっと指でなぞってから、自分の唇を重ねた。
 一回目のキスは軽く。
「血の味がするわ」
 唇を離してモリガンはつぶやいた。
 デミトリはその言葉に微笑した。
「…ん、このままここでやるの?」
 モリガンはのけぞるようにして顔を離して聞く。
 暗い洞窟のあちこちには、血塗れの屍が転がっていた。
「死体の側では嫌かね」
 デミトリは楽しげに聞いた。
「それは別に。ただ石の地面は堅くて冷たいから」
「なるほど」
 というとデミトリはいくつも転がっている暗殺者たちの屍に歩み寄り、鮮血が飛び散っているケープを引き剥いだ。
 5枚程持って来てモリガンに、「これを敷いたらどうか」と聞く。
「どうせなら13枚全部持って来て」との返事だったので、デミトリは「柔らかいに越したことはないな」とアルノーの分を含めて、13枚を洞窟の奥まったところに重ねて敷いた。
「これで問題はないな」
「ええ。結構よ」
 とモリガンは言うと伸びをするようにゆるやかに両手をあげた。たちまち彼女の服がコウモリに変じ、洞窟の天井へと舞い上がり、そこにぶら下がる。まるで、逆さに散る黒薔薇の様だとデミトリは思った。
 一糸纏わぬ姿になると、モリガンは血の滲むケープの上に座り込んだ。
「さあ、あなたも脱いで……」
 デミトリは自分の胸元から太もも辺りまでを、愛撫するようになで降ろした。
 それと共に、その肉体に纏われた衣服がゆらりと霞み、上から消えていく。女の目にはそれは、服が皮膚に吸い込まれるようにも見えた。最後に、マントが翼に変じ、その翼が折り畳まれるように背中に消えた。
「ありきたりなほめ言葉だと思うだろうが、君は実に美しいな」
 デミトリは血染めのケープに、モリガンを押し倒しながら囁いた。

 夜が終わるまで、男女の手足は絡み合い、離れることがなかった。
 朝になるころ、彼らは洞窟の中の池に、そこら辺の死体を投げ込んで、服を身にまとった。
「今夜は楽しかったわ」
「また会いたいな」
「気が向いたら、また誘うわ」
 モリガンは爽やかとさえ形容出来そうな表情でそう言うと、洞窟の入り口でデミトリと別れた。
 デミトリは、傍らにひざまずいているアルノーを振り向いた。彼の顔色は青白く、ケープにはしわが出来ていた。
「これも成り行きだ。君は今日から私の従者、吸血鬼の一族の者として暮らすのだ」
「かしこまりました」
 アルノーは、新たな主人に向かって、深くこうべを垂れた。

第五章 猫目石のピアス

 魔王の予想通り、後継者であるとの発表から一月もたたない内に、様々な貴族がモリガンに結婚の申し込みに来た。
 まさに、国中の貴公子からプロポーズされるご身分となった訳だが、本人はうんざりしていた。
 どの男も貴方は美しいだの素敵だのというほめ言葉に始まり、私はこれこれこんな財産を持ち、経歴があり、教養があり、と言った自己アピールを経て、二回目から三回目辺りで、誰よりも好きですだの大切にしますだのの愛の告白に至る。
 聞き飽きたというのが、贅沢ながら正直な感想だった。もっとも、ほぼ全ての男は贈り物を持ってくるので、それが楽しみと言えば楽しみだったが、たいていは、「こんな服似合わないわよ」というようなものだった。
 かくて、大半の男は一回目で断られ、二回目のお目どおりを許される者はまれだった。
 そんな日々の中、モリガンは窓辺でため息をついた。次々と訪ねて来るので、遊びにも行けやしない。
「ふぅ…魔界一の姫君の地位ってこんなに退屈なものなのね」
 そんなモリガンにおそるおそるアデュースが声をかける。
「あの……モリガン様。次の会見の時間が迫っておりますので……」
「はいはい、わかったわよ」
 とモリガンは応接室へ移動した。
 内心でむくれながら、優雅な微笑みを浮かべる。
 今回の男はかなり若い感じの男だった。魔物の年齢は見てもよくわからないが、話すと何となくわかる。前回など中年を通り越して初老だった。
 しかし、若いだけの男のようだとモリガンは少し相手をして思った。
 男は熱っぽく、モリガンにとっては聞き飽きた言葉を並べた。
「あなたに好かれるためならば、私はどんなことでも致します」
「……あなたはいいわね。やることがあって」
 つまらなそうに答える。
「私にして欲しいことは何でしょうか」
「この部屋から出ていって。二度と私に顔を見せないで」
 この時のモリガンの笑みはとても優しげだった。
 男はそんな、と小さくつぶやいた。
 脇からアデュースが引き取って、男に告げる。
「というわけでございますので、どうかご退出願えますか。次の方が待っておられますから」
 男はこれで終わったのだということを理解できない様子だったが、アデュースが促したので「それでは、また」と出て行った。
 次の男も退屈だった。
 プレイボーイ気取りの男で、これまで自分がもてたのは金をばらまいていたためであって、別に本人がいい男だからではないというのに気づかないような男だった。
「私はあなたを一目見たときから愛してしまいました」
「よくある話ね」
「その時から私の頭にはあなたのことしかありません」
「そう言う者たちがさっきから次々来たわ」
 モリガンの返事は実におざなりで男は焦ったようだった。
「ああ、そうでしょう。それでも私の愛は他の者に比べより深いのです。自分でも底知れぬほど」
「どうやって測ったの?」
「この胸の痛みが教えてくれるのです。私はあなたの声を聞き、姿を見るだけで幸せです」
 演技を過剰にすれば、女が振り向くと思っているらしい。
「なら、召し使いにでもなる?」
「…それも一案ですが、私としてはやはりあなたの夫になりたいのです。そうなれば私はこの上なく幸せになれるでしょう」
「あなたの妻じゃ私は不幸になりそうだわ。もういいわよ。来なくても」
「そ…そんな、それはあまりにも早い結論ではありませんか」
「これ以上口説いてもむだよ。さようなら」
 カチャッ…キ…パタン…!
 モリガンは応接室から出て行った。
「というわけでございますので、どうかご退出願えますか。次の方が待っておられますから」
 アデュースは礼儀正しく告げた。

「ふう、疲れたわ」
 お茶の前の予定を終え、モリガンはベッドに寝そべった。
「今日はもう嫌よ。アデュース。あなた女装して私の代わりに応対して」
「むちゃ言わないで下さい。それに次はちょっと断れないのですが」
「誰?」
「あのお方も熱心ですね」
「あら、デミトリなの。それならお相手するわ。あの男はプレゼントのセンスがいいから毎回楽しみなのよ」
「贈り物目当てですか」
「話もそうつまんなくはないけどね」
「もしかして、これまで3回も来ていらっしゃるのに返事を曖昧にしているのは、モリガン様。実は貢がせるだけ貢がせて、最後に断ろうという腹ですか」
「さあね、ふふっ」
 楽しげに笑うモリガンを見て、アデュースはデミトリに少しだけ同情した。
 あの夜以来、モリガンはデミトリにキスさえ許していないはずだ。
 男の方としては焦りがあるのではないか……。

「どうぞ、お通り下さい」
 アデュースは礼儀正しくデミトリをモリガンのいる応接室まで案内した。
「いつもご苦労だな、アデュース君。それで、モリガン嬢のご機嫌はいかがかな」
「あなた様に対してはそれなりに、機嫌よく応対して下さるでしょう」
「それならよいのだが」
 といいながら、まんざらでもなさそうに笑みを浮かべる。
「あら、いらっしゃい。デミトリ」
 アデュースの目に、デミトリに微笑みかけるモリガンは他の男のときより上機嫌に見えた。
 それでも、モリガン様は結局夫なんて選ぶ気はないんだよな……。
 内心でため息をついて、アデュースは退出した。
 
 モリガンはゆったりとソファに背をうずめながら、デミトリの話を聞いていた。
 彼の語るマキシモフ家の歴史や自分の戦歴などは、意外なほど冷静だった。
 自分に都合の悪いところはあえて話しはしないだろうが、明らかな誇張や嘘はない。
「ディストロ家の連中などは、保身と略奪ばかりで見苦しいにもほどがあると思わないかね、モリガン」
 ディストロ……ああ、資源が少ない北の地方の豪族。モリガンは思い出した。飢え死にしないためにディストロ家の領地の民は、卑怯な盗賊として生き延びるしかない。軍隊といえども、領主に雇われて国を守るというよりは、領主の命令を受けて略奪をする、他に職のない者の群れという方が正しかった。
 なので、彼らにしてみれば「他にどうしようもない」のだが、モリガンも「見苦しい」というのには賛成だった。
 モリガンはデミトリの鼻梁の辺りに視線を置いて考えた。
 他者に対する見方は、一方的ではあるが、間違ってはいない。
 頭のいい男だ。そして、誇りもある。
 傲慢であることも確かだが。
「強い者と美しい者がお好き?」
 モリガンはからかうように言った。
「品ある者も教養ある者も好きだな」
 デミトリは多くのものに恵まれた者特有の、尊大な笑みを浮かべた。
「君も美しいものは大好きだろう」
「もちろんよ」
「そういうだろうと思って、今日はドレスを持ってきた」
 デミトリは従者に運ばせて来たドレスの箱を開けた。
 白く薄い紙に包まれたそれは、深みのある赤のベルベットに、鮮やかな紅のサテンの生地の薔薇を縫い付けたものだった。そこかしこにちりばめられたダイアとルビーがきらめく。
「まあ、きれい。確かに、こういうのは大好きよ」
 モリガンは眼を輝かせた。
「着てみせてくれるかね」
 気に入って良かったというようにデミトリは微笑んだ。
「少し着替えに時間がかかるかもしれないわ」
「その位なら待てる」
 しかし、どうやら一緒に身につけるアクセサリー選びや化粧直しに時間がかかったらしく、モリガンが再び扉から登場したのは、デミトリがつい懐中時計の蓋を何回か開けてしまった後だった。
「どう? 似合うかしら」
 微笑みと共に現れたモリガンは、まさに咲き誇る薔薇のように華麗だった。
 デミトリはその輝きに少し目を見開いた。
「とてもお似合いだよ。やはり情熱の色、血の色もよく似合う」
「このドレス、あなたには教えていないはずなのに、サイズがぴったりよ。さては、あの時に見当をつけたわね」
 モリガンはくすくすと笑った。
「男がドレスを贈る時は、そのドレスを脱がせるのが目的である、というわね」
「いうまでもないことだろう」
 さらりとデミトリは受け流した。
「私は君が欲しい」
 モリガンの瞳を、のぞきこむようにして告げる。
「随分、率直なものいいをなさるのね」
 モリガンはおかしげに笑ってたずねた。
「なぜ、私が欲しいの? この前も女をひとり決闘でものにしたばっかりでしょう?」
「なぜ? 豊かな教養、高い誇り、強い魔力、優れた戦闘能力、気品のある言動、悪戯っぽい笑み、甘い声、整った顔、抱き心地のいい体……君は実に魅力的な女だ」
「まあ、ありがとう」
「だが、何よりも君は魔王の後継者だ。君を手に入れれば、この魔界全てがいずれ私のものになる」
「本音が出たわね。野心家さん」
「野心家というのは、いい男の条件と多くの女は思うものだが」
 闇の貴公子は平然と笑って見せた。
「君にとっては残念なことかもしれないが、富と権力、そして家柄で相手が決まるのが、貴族の結婚の常識だ。君も貧乏で無力で卑しい生まれの男はお断りだろう」
「お金にも権力にも不自由していないから、何にもない男でも気に入ればいいわ」
「サキュバスらしい答えだな。しかし、夫はペットではないぞ」
「あら、違うの?」
 からかうように言って、デミトリの紅い目を見つめる。
「違うな。だが、先ほども言ったように、私は君の地位だけでなく、君自身にもおおいに魅力を感じているのだよ。そうでなければ、最初に会った夜に黒蛋白石の指輪を贈ったりはしない」
 デミトリはモリガンの手をとると、指輪をはめた手に口づけた。
「嘘ではなさそうね」
 モリガンはさすがにあのときすでにデミトリが、自分を魔王の後継者と知っていた可能性は低いと思って微笑んだ。
「それでは聞くが、他に自分と魔界を渡したい男がいるのかね」
「いないわ」
「正直だな。君が自分独りの手で魔界を治めたいというなら別だが、そうでなければ君はいずれ玉座に座る男を選ばざるを得ない」
 モリガンは沈黙した。この男の言うことは正しい。自分はすでに魔王の後継者として、魔界中にその名が知れ渡る身になったのだ。やがては自ら女王になるか、結婚して夫をその座につかせるかしかないのだ。
「だから……私ではどうかね。悪くはあるまい。君は遊んで暮らせばよいのだ」
 デミトリはモリガンの手首を握って、低く囁いた。あなたのいうとおりにしますと、つい言ってしまいそうな魅力的な声で。それは「私が君の主人になる。君の問題は全て私が引き受けてあげる」という、女の魂を闇の中にからめとる、魔力に満ちた言葉だった。
「そうね。悪くはないかもしれないわ。でも今、いいとも決められないのよ」
 モリガンは手を振りほどいた。
「今日は楽しかったわ。でも、私はこれからも予定があるのよ。またいらしてね」
 薔薇色のドレスを身にまとったまま、モリガンは微笑みも柔らかに、デミトリを部屋から出した。

 アデュースに案内されてモリガンの部屋の前まで来たジェダは、廊下の奥に見覚えのある後ろ姿を見つけて、従者を振り向いた。
「あれは?」
「デミトリ様です。先程までモリガン様とご一緒でした。入れ違いになりましたね。度々いらしています」
「度々……すると話は進んでいるのかね」
「それは、お答え出来ません」
 従者は忠実そうに答えた。
「そうか……」
「あら、またいらしたのね。2度目だったかしら」
 彼を見てモリガンは静かに微笑んだ。
「ご機嫌よろしいようで何よりだ」
 とこちらも落ち着いた態度で返す。
「先ほどの男は?」
「何度もいらしている方なの。とても熱心で色々贈り物を下さるわ」
「気のあるそぶりを見せておきながら、君がわざと焦らしているとかいうことはないのかな」
「ふふっ、わかる?」
「よくある手だな」
 ジェダは指を組み替えて続けた。
「あと少しでこの女が手に入ると思うと、男は夢中で金をつぎ込むからね」
 自分が男のうちに入らないかのような口ぶりである。
「そして、そのために気が付くと、手痛い出費をしてしまっているということね」
 ジェダは知性的な微笑で返したが、その微笑には暖かさというものが決定的に欠けていた。
「君は別に特定の誰かの妻の座など望んではいないだろう。君の望みは現在の自分の暮らしが永遠に続くことだ。そして、現在の君の暮らしというのは、贅沢と気ままなふるまいとでできあがっている。
 ならば、私はそのふたつを保証しよう」
 ジェダの言葉に微かにモリガンの目が見開かれる。興味をもった証しだ。
「私の意図は君も察するとおり、アーンスランド家と姻戚関係を結ぶことだ。君自身は特に子を産む必要はない。サキュバスの血をひく子では、短命の恐れもある。私と敵対関係にある者たち、その中でも特に力をもつ者を相手にする場合を除き、浮気、捕食は自由だ。」
「あら、じゃあ、デミトリと浮気したりしてはだめかしら」
 からかうような口調でモリガンは言った。
「彼の地位を考慮するならばな」
 その言い方はまるで「1たす1は2」と言っているような冷静さだった。
「自分の不利になることはするなというのね」
「残念ながら、私は自分の利益を考えて君と婚姻関係を結びたいと願っているのでね。だからこそ、私の協力者としての君に報酬を支払おうというのだよ」
 物柔らかな口調だったがそこには、反論を許さないきっぱりしたものがあった。
「愛や肉欲ではなく、権力と金銭の名の下に夫婦の契約をしようというのね……。ま、この世界では当然のことかしら」
 と、モリガンは笑ってみせて、ジェダの目を見つめて言った。
「悪くない取引かもしれないわね」
「ここに先程言ったことも含め、細かい約束を記した契約書の草案がある。読んでおいて欲しい。一週間後にまた来るのでね」
「検討させていただくわ」
「それでは、他に質問はないかね?」
「今はないわ。それでは、もうお帰りになられるのかしら」
「君も忙しいだろう。それから、これが私からの贈り物だ」
 差し出された小さな宝石箱には深く冷たい青の宝石がひとつ入っていた。
「その石のデザインは好きにしたまえ」
「ありがとう。ネックレスかなにかにさせていただくわ」
 愛想よく笑って告げる。
「では、失礼する」
「一週間後にお会い致しましょう」
 ジェダの退出を見届けてから、アデュースは残された書類に目を通すモリガンに質問した。
「どう思われます? その結婚に関する契約書」
「とても事務的なものね。こちらの動きを巧く封じるような仕掛けもしてあるし。アデュース、後で弁護士を呼んで」
「ということはまじめに検討なさるおつもりですね」
「気に入ったわ。あの男の言うこと。自分の利益のために……愛を持ち出されるより信用出来るような気がするのよ」
「わかりました……弁護士を呼んで参ります」
 アデュースは一礼して、出て行った。

 多くの求婚者たちの相手に追われた日、モリガンはベッドで目を閉じていた。
 −どうして私が、魔王の後継者なのよ。
 本当、そんなものに選ばれたお陰で、幼い頃からろくな事がなかったわ。
 モリガンは遠い遠い日々の事を、羽布団の中で回想した。
 サキュバスは多くの場合、他の生き物とは暮らさない。例外として、愛人として貴族の邸宅などに住む場合もあるが数は少ない。
 多くの場合、彼女らのみの住処を持つが、獣たちのように野山で暮らすことは出来ず、大きな石作りの家に住みたがる。
 しかし、彼女ら自身に建築技術はなく、多くの場合寂れた街や見捨てられた館などに住み着いていた。
 夜になると彼女らはそこから獲物を求めて飛び立って行くのである。
 そのように、いつの間にか夢魔たちが住み着き、他の生ける者たちの近づかぬ場所として有名な場所が「夢魔の巣」と呼ばれる城だった。
 それは、アーンスランド家の領地の「北の暗き森」の奥の外壁の崩れた古城である。
 モリガンは幼いころ、そこで育った。
 その頃はまだ、モリガンはただ魔王のお気に入りのサキュバスとしか、仲間たちにも貴族達にも、思われていなかった。
 そしてベリオールは幼いモリガンを彼の城で育てるのはむしろ陰謀の渦の中に投げ入れるようなものだと、彼女を夢魔の巣に置いた。
 夢魔の巣に住むサキュバスの統率者、エレナ=ファルが一応の彼女の保護者となった。
 しかし、モリガンは幼い頃から気の強さと秀でた知性で、他の者を寄せ付けないような所があった。魔王のお気に入りということで、まわりの夢魔たちも嫉妬心を抱き、疎んじた。
 さらに夢魔が単独行動を好み、他者に対する好き嫌いが激しいこともあって、モリガンは独りでほっておかれた。
 彼女が長じるに連れ、その美しさは周囲の羨望の的となり、嫌がらせが始まった。
 孤独な少女時代のモリガンに友人と呼べる者があったとすれば、それはリタと言う名の夢魔だった。
 しかし彼女は種族的に夢魔であっても「半端者」と呼ばれる、男を餌食に出来ないサキュバスたちの一匹だった。
 彼女らは古城の夢魔たちの部屋の掃除や衣服の洗濯を引き受けたり、茶や香や酒などの細々としたものを売ったりして暮らしている。その大半は年老いた夢魔や力のない他の種族とのハーフなどだった。
 もう年齢的には十分すぎるほどでありながら、まだ男の精気を吸ったことのないモリガンは意地悪なサキュバスたちのからかいを逃れて、「半端者」たちのいる城の片隅でよくお茶を飲んでいた。
 そこで話し上手のリタから、彼女がかつて美しき夢魔として夜空を飛び回っていた頃に見聞きした様々な面白い出来事の話を聞いていた。
 特に、人間界への旅の話はモリガンを魅了した。
 苛酷な魔界とは掛け離れた穏やかな世界がそこには広がっている。夜、静かな闇の中に魔界の者より可憐な月の歌声が満ちる。そして、人間たちは可愛らしく美味しい。陽光は不快で危険だが、他に魔物たちを脅かすようなものはないといっていい。
 それは夢魔にとって「秘密の花園」とでもいうべき世界だ。
 リタはそんな風に語り、モリガンはいつか魔界の扉をくぐることを夢見た。
 ある時、彼女は魔王の宴に招かれ、若い男性貴族に未熟者として笑われて帰って来た。
 その男は夢魔であるモリガンを遊びでベッドに誘おうとしたのだが、モリガンはその意図がよくわからなかったのである。
「お願い、リタ。精気の吸い方を教えて。甘い夢とはどんな夢なの?」
 リタはためらったが、こう教えた。
「つまりそれは、お菓子の夢のことよ。生き物は皆、美味しいものを食べたいという欲望を持っているわ。その欲望につけこみ、心を奪うのよ」
 さらに彼女はこう言った。
「前から行きたがっていたわよね。人間界で試してみたら?」
「ありがとう。リタ。私、やって見せるわ」
 数日のうちにモリガンは、そのころはさほど警戒の厳しくなかったギラ=ギララ山を登り、人間界へと飛び立った。
 無事に扉をくぐった彼女をやわらかな風が迎えた。
 モリガンは喜びに胸を躍らせながら、獲物を探して夜空を飛んだ。
 そして窓から星を眺めていた、素朴で美しい青年に目をとめた。
 この男に決めたわ。ふふ、どんな御馳走の夢を見せてあげようかしら。
 そう思いながら、モリガンはその家の屋根に降りた。

 「獲物」とされた青年は粗末なベッドで、夢を見ていた。
 彼の傍らには、夢魔が寄り添っていた。
 その男は貧しい仕立て屋の息子で、普段の食事はパンとスープだけだった。
 腹いっぱいに食うことさえ夢のうちで、甘いものとは高価なものであり、普段は縁がなかった。
 そんな彼にとって、モリガンが差し出したお菓子の群れは見たこともないほどのものだった。モリガンにとっての「特別なパーティーでのお菓子」なのだから、当然である。
 まろやかなチョコレート。きらめくボンボン。様々な形のクッキー。蜂蜜をかけたパンケーキ、焼き立てのマフィン、ジャムを添えられたスコーン。
 クリームと砂糖をたっぷり入れたまろやかな紅茶。
 銀の皿に盛られた新鮮な果物。その甘い香り、鮮やかな色合い。中には人間界にはないものも多かった。
 貴族のアフターヌンーンティーを思わせる食卓の、もうひとつの椅子には世にも美しい女性が座っていた。その女性の身なりはとても立派で、容姿にも気品があり、彼は王女様か何かに違いないと思った。 
 モリガンは呆然とする男に、にっこり笑ってケーキナイフとフォークを差し出した。
 この夜から、男はすっかり夢の中の美女と菓子に魅了され、仕事をほうり出してひたすら寝て過ごすようになり、急速に痩せ衰えて間もなく死んだ。
 死の数日前、懺悔でその夢の話を聞いていた神父は「魔物に憑かれたのじゃ」と言って、人々に「魔物はこの男の欲望に付け込んだのじゃ。こうなりたくなければ、貧しくとも神への感謝を忘れぬように」と説教をした。
 モリガンはこうして哀れな貧しい男の精気を奪い、意気揚々と魔界に帰った。
 そして真っ先に、感謝を込めてリタに報告した。
「とうとう私一人前になったの! 男が私に心を捧げたのよ」
 と。
 だが、リタはモリガンの話を聞いて浮かぬ顔色になった。喜んでくれると思ったモリガンは少しがっかりした。でも、リタが「あなたって本当に凄いわねえ」と言ってくれたので、嬉しかった。
 ところが、それから一月もたたない内にモリガンは、彼女を邪魔に思うアーンスランドの一族の者から襲われた。危うく殺されかけ、捕虜とした者を締め上げて聞き出したところ、手引きをしたのはリタだと答えた。
 モリガンはショックを受けた。
 リタだけは味方だと思っていたのに。
 信じられない気持ちでリタの所へ行き、問い詰めた。
「なぜ、私を売ったの」
 と聞くモリガンの前でリタは服を脱ぎ捨てた。「こういうことよ」と。彼女の体には左の乳房から下腹部の辺りまで、引き攣れたような醜い傷痕があった。
「その傷は…?」
 息をのむモリガンにリタは自嘲の笑みを浮かべた。
「昔、力あるダークハンターにやられたのよ。誘惑を試みて失敗。そのおかげで二度と男を誘えなくなったのよ。現実の肉体が傷ついても、夢の中ならば美しくあれるだろうと試したこともあるけど、駄目ね。肉体を傷つけられたとき、心も傷つけられた。その傷を忘れることが出来ず、男の夢の中でも私の肉体は醜いの」
 リタは自分の裸の肩を抱いて、視線を床に落とした。
「その時から私は、夢魔としては無力になったわ。かつてはサキュバス族の中で並ぶ者がないと言われた程の私が、こんな所で物売りみたいなことをしているのはそのためよ」
 その声は深い洞窟から吹いてくる風のように、冷たく湿っていた。
「……それで、なぜ私を?」
 リタは再びモリガンの目を見て激しい調子で続けた。
「わからないの? 本当に子供なのね。私には夢魔としての未来が無い。才能に恵まれたあなたにはあるのに。私は嘘を教えたのよ。甘い夢というのは本当はお菓子の夢なんかじゃないわ。セックスを知らないの? 知らないのに、本当にケーキの夢で男を虜にしたの? あなたは天才よ。かつての私以上の。羨ましかったのよ」
 そして、リタはその場に崩折れて泣き出した。モリガンはリタもまた他の夢魔たちと同じように、自分に愚かな嫉妬を抱いていたことを知って失望し、裏切られた苦さを噛み締めた。
 自分に嘘をつき、裏切った彼女に同情出来るほどモリガンは心が広くはなく、昔自分が失ったものを嘆き続けるリタを、モリガンは思いっきり蹴りとばして、自分の部屋に駆け込んだ。
 そしてモリガンが襲われたという事件は魔王の知るところとなり、リタは魔王の後継者を暗殺する企みに手を貸したとして、死刑を宣告された。しかしモリガンが「命だけは助けてあげて」といったので、女奴隷として雑用に使われる身分となった。
 その際、事情を聞くために魔王はモリガンを呼んだ。その時モリガンは魔王に質問した。「セックスって何なのでしょうか」と。魔王はモリガンが何も知らないということがわかると、部下に「私の三番目の寝室にモリガンを連れて行け」と命じ、「私も後から行く」と付け足した。
 部下はうなずき、モリガンは連れられていった。

 モリガンは、その部屋に足を踏み入れてすぐに「普通の寝室ではないみたい」と気づいた。
 窓のない、青紫色の壁紙の貼られたあまり広くない部屋だった。敷き詰められた紫の絨毯はやたらに毛足が長く、ふかふかで歩きにくかった。
 扉の内側には、裸の女と男が抱き合って接吻している図柄が浮き彫りにされていた。
 また、部屋の中央の豪華な石作りのテーブルの上面は、大理石の浮き彫りの上に硝子板を重ねたものだった。
 それは下半身が山羊で、頭に角がはえた髭面の男が、何体もの若い薄物をまとっただけの半裸の女性と絡み合っているレリーフだった。
 大きな木の扉の裏にも、エロティックな蛇女が月光を浴びて、うっとりと岩場に寝そべっている姿が浮き彫りされていた。
 別室に続くと思われる扉にも、セクシーな猫娘が気持ち良さそうに水浴しているレリーフがあった。
 猫娘の扉を開けると、豪華な浴室だった。寝室が小さい割に浴室はなぜか広かった。大きな鏡のまわりを金色の蘭の花の彫刻が縁取る。大理石のバスタブにも、人魚が身をくねらせて泳ぐ様子が彫られてあった。その浴室の一段高くなった所にはふかふかしたマットがひいてあり、その側には肌に塗る化粧水や香油の瓶の並んだ小さな木の箱があった。
 家具は、天蓋付きの寝台と椅子、ソファ、テーブル、サイドテーブル、戸棚と割合少なかった。
 右側には大きな天蓋付きのベッドと、同じく大きな戸棚。ベッドのカーテンは薄く、中に置かれたふたつの枕が透けて見える。
 戸棚の上の方、硝子をはめた飾り棚になっている部分には、色々な道具が置かれていた。男性器をかたどった、素材が何かよくわからないもの、皮と鎖で作られた、明らかに拘束具とわかるもの、奇妙な形の小型の皮の鞭、どこにどう取り付けるのかわからない、アクセサリーと見られるもの、液体や粉末、錠剤などの入った様々な色と形の硝子瓶。好奇心の強いモリガンも、さすがにその引き出しの部分を、開けてみる気にはならなかった。
 だがその部屋で一際目立つのは、入って目の前の壁に掛けてある、頭にコウモリの羽根のついたサキュバスがベッドに寝そべり、若い男を誘惑しようとしている絵だった。
 その女は全裸で、服を着たままためらうような様子の男の肩に、長い爪の生えた手を乗せ、唇を吐息をつくように半開きにしていた。
 そして、男の片手は女の両の乳房の間に置かれていた。
 その絵はある意味よく描けていて、モリガンはそのサキュバスの表情や姿態に、「妖艶」と言われる夢魔の巣の先輩たちによく似た色気を感じ取った。そういえば、雰囲気はモリガンの知る彼女とは全然違ったが、この夢魔の顔立ちはリタによく似ているような気がする。全盛期のリタがモデルとなったのかもしれないと、モリガンは思った。
 その部屋のレリーフや絵はどれも妙に写実的で、その癖現実の風景の薄汚さを排除していた。
 そして、描かれている女達は皆肉感的で、胸を突き出したり、腰をひねったり、尻をこちらに向けたりしていた。
 魔王の寝室にしては、かなり下品だ。
 モリガンにはその部屋の淫らな雰囲気は、どす黒く自分を脅かすものに感じられた。絵や置物、扉や机さえも彼女に緊張を強いた。それは、そういうものを楽しむにはまだ若い者が、性的な表現に出会ったときに感じる、プレッシャーだった。
 布をかけた、大きな柔らかそうなソファーに座る気にもなれず、モリガンは立ったまま、魔王を待った。
 ベッドの側のサイドテーブルには、女の肉体をかたどった瓶が置かれていた。中に琥珀色の液体。おそらく酒だろう。それと繊細な細工のグラス。そして、水差しとタンブラー。
 蓋付きの硝子の器に入った、酒のつまみと思われる、干し肉とチョコレート。
 落ち着かない様子で、辺りを見回すと、モリガンにはだんだんと自分が教えられようとしている「何か」がおぼろげながらわかるような気がしてきた。
 こういうのは、きらいだわ。
 過剰なほどの性的な記号に囲まれて、モリガンはそう思った。その時、
 ガチャ……と扉が開けられ、蝋燭を片手に独りの男が部屋に入って来た。
 壮年の年頃の、背が高く、立派な骨格を持った男だった。
「待たせたな」
 低く、だがよく通る声。
 モリガンが滅多に見ることのない、人間に似せた姿だったが、その辺りを威圧する気配は、間違いなく魔王ベリオールのものだった。
 彼はコトリと燭台を机に置いた。
 ベリオールの長い黒髪は後ろに撫でつけられ、肩甲骨の辺りまで垂れていた。
 目は金色というよりも琥珀色で、顔の彫りは深く、切れ長の目は冷徹さを感じさせた。
 肌には張りがあったが、骨の浮いた顔の造作や、血の色の薄い唇や、表情のつくる微妙な雰囲気は初老とさえ言えるほどに、歳月による成熟を感じさせた。
 そして、魔王がつけていたのは、猫目石のピアスだけだった。
 神秘的でしなやかな獣の瞳のような、その金色の輝きに一瞬目を止める。
 指輪や冠など、他の装飾品を一切つけていないのに、モリガンはなんとなく違和感を覚えたが、後日そういう時に大きな石のついた指輪など危険なだけだから、外していたのだと理解することが出来た。
 ベリオールは部屋の雰囲気に呑まれて、体をこわばらせているモリガンに、微かな笑みを浮かべてみせた。
「おびえなくてもよい」
 そして手でモリガンに、ソファに座るように示した。モリガンが座ると、彼女が向かい合った椅子に座るのかと思っていた魔王は、モリガンのすぐとなりに座った。
 猫目石の輝きが目の前に迫る。
「そんなに怖い顔をするな。『やらなくちゃいけない』と思っているのだな」
「だって、そうじゃないの。やらなきゃ一生無能だの未熟だのといわれるんでしょ」
 詳しいことはわからなかったが、服を脱がされるらしいということは、モリガンにもわかった。
 彼女は他者に触られるのは嫌いだった。だが魔王はそれをおそらく承知で彼女の肩を抱いた。
 モリガンの肌の触れられている所が、ちりちりと痛んだ。緊張のし過ぎだとは自分でも思う。
「悔しいから、が理由かね。あんなことのあった後では仕方なかろうが、『私のまだ知らない楽しいことが、待っている』と思った方がいい」
「それは大人たちがこそこそと、暇さえあればやっていること?」
 彼女とて、そういう「密やかな楽しみ」に憧れたことがないわけではない。しかしこの状況は漠然と思い描いていたものより、威圧的で生臭かった。
「その通りだ。しかし何をどうしているかは知らないだろう」
 黙ってうなずく。
「愛人に高い地位を与えた色ボケと言われたくはなかったので、あえて手を出さずにいたのだがな。まだ何も知らぬのなら、教える他はあるまい」
「ええ。教えて下さいませ」
 モリガンは色気のかけらもない調子で言った。声があまりにかたい。
 魔王はモリガンの上着をするりと脱がせた。ソファーの背にそれを引っかける。
「その不安を取り除くためには、手順の説明からがいいだろう。耳を貸したまえ」
 モリガンは従い、魔王は低い声で、これから体のどういうところを、どう使っていくのかを、その耳の穴に流し込んだ。
「まずは、キスからだ。これは知っているな。互いの唇をつける。そのまま離す場合もあるが、舌を入れる場合もある。その場合は……」
 内容はほとんどマニュアルの朗読に近かったが、落ち着きと深みを備えたその声は長くきくうちに、モリガンを安心させていった。
「わかったかね」
「はい。でも、それで本当に気持ちがいいの?」
「本来生殖のための行為だ。だから誰にでも簡単に出来て、気持ちがいい。祖先達が快楽を求めたおかげで、我々とこの世界は存在する」
「子をなすため……」
 箱入り淫魔には実感のない話だったが、理屈としてはわかった。
「その根本において性交は、交尾だ。しかし根がそうでも、種の進化や文化の発展によって、幹は伸び、枝は張り、葉は茂り……花が咲く。その花こそ香しい」
 魔王はそこでいったん言葉をきった。
「おまえはその花そのものとして咲くべき者だ。やがては大輪の花となろう。お前は美しい」
 モリガンは素直にうなずいた。安心感が彼女のこわばりを溶かし去っていた。
「私が後継者に選んだ女だ。お前こそは特別だ。お前がお菓子と微笑みだけで男を堕としたと聞いて、やはり天才だったかと私は嬉しかったぞ」
 彼は、モリガンを抱き寄せ、接吻した。モリガンは快くそれを受けた。
 そして魔王は夢魔の娘の肩を抱いたまま、ベッドへと連れていった。

 それから二百年たった今でもモリガンは、皿に並べられたクッキーなどを見ると、ふとリタのことを思い出したりもする。
 事件からしばらくたった後、彼女もいじめられていた頃があったという話を聞いた。かつて美しかったリタが、美と共に力を失った時、夢魔たちはいい気味だとばかりに彼女を仲間外れにしたのだという。
 彼女は淋しさから、同じく仲間外れにされて居場所の無かった自分をかまってくれた。その時は自分は優しくしてくれる人なら誰でもよく、リタが何を思っているかなんて、考えもしなかった。
 そして、それ以降自分は女の友人など作らなかった。
 男がつかの間の情事の相手であるように、女も一時の話し相手。
「誰も信じないわ……」
 ぽつりとつぶやいて、モリガンはつくづく思う。
 夫を持った所で、自分の生活が安全になることなどないのではないかと。
 夫は味方にもなり得るかもしれないが、同時に厄介な敵ともなり得る。なまじ頭のいい男や力のある男は油断ならない。愚かな男や弱い男は……願い下げだ。夫の面倒を見るためになど結婚したくはない。
 独り(保護者付き)が一番面倒臭くも無く、気楽で、安全だと思うのに、なんで昨日も今日も求婚者のお相手なのかしら。
「本当に嫌になっちゃう! こんな茶番はさっさと終わりにしたいわ」
 モリガンは天蓋の下で、思いっきり声をあげた。そして、呼び鈴の紐を引いてアデュースを呼び付ける。
「お呼びですか、モリガン様」
「アデュース。くじ作ってちょうだい」
「は?」
 アデュースは今度は一体何だろうと目を丸くした。
「面倒臭いから、くじ引きで結婚相手を決めるの」
「お断りします。絶対モリガン様はくじで決まった相手に、顔が悪いの体が弱いのと、けちをつけるでしょうから、くじでも決まりません」
「じゃ、どうすればいいのかしら」
「ベリオール様に決定を頼めばよろしいのでは」
「それも何かね。でも、誰になさる気かしら」
 ベリオールに相談したりしたら相手どころか、そのまま式の日取りまで決められそうだ。
「ジェダ様がいいかもしれないというようなことを、言っておられました」
 アデュースは用心深く答えた。
「歯切れが悪いわね」
「何しろ本心を明かさないお方ですので」
「あなたはどう思うのよ」
「デミトリ様でいいんじゃないかと、思ったりもするのですけど」
 アデュースは思慮深げに答えた。
「全く、歯切れが悪いわね」
「すみません。色々と複雑な問題が絡み合っていまして」
「これじゃ私が迷うのも当然じゃない」
 フウ、とモリガンは聞こえよがしにため息をついた。
「それにしても、なぜ、デミトリの方がいいとあなたは思うの? 」
「ジェダ様の方がお嬢様を自由にさせてくれるだろうというのは、確かでしょう。でも、冥王様には、自分以外すべて愚かな他人と思っているような冷たさがあります」
「それはそうね。この魔界すべてが嫌いだと思っていそうね」
 モリガンは特有の鋭さで、ジェダの世界に対する絶望と、生けとし生ける者全てへの侮蔑を見抜いていた。
「デミトリ様は、自分のものだと思ったら、自分のやり方で大切になさるでしょう。本人も、自分は女を大事にする男だと言っておられます。実際収集した資料によると、彼の従順なる愛人たちの多くは、彼の財産や権力、本人の魅力などにひかれて、自ら彼に喉を差し出した者たちですし、彼女らの待遇もよろしいようですよ」
 モリガンはふうん、という感じにその話を聞いていた。彼女にとって自分が男に大切にされることはある意味当たり前のことだったので、他の女達の「私を大切にしてくれる男がいい」という切なる願いはピンとこなかった。
「でも、そういう愛はうっとうしいの。ご自慢のコレクションの一番大粒のダイアモンド。そんなのごめんだわ」
「やっぱり、そうですか」
 アデュースは苦笑いして見せた。
「彼も戦う相手ならば、悪くないけどね」
 アレも悪くはなかったわね……とモリガンは内心でつぶやいた。
「私たちよいケンカ友達でいましょうね、と断りますか。ともかく、この魔界で生き延びる手段として誰を選ぶかということは重大な問題で……」
 アデュースは言葉の無力を知りながら、話を続けようとした。
 しかしモリガンはそれを遮った。
「……やっぱり、私と同じ程度かそれ以上に強い男がいいと思わない?」
「え? まあ……」
「決めたわ。武道会を開くのよ」
「あ、舞踏会ですね」
「いえ、武道会。この前デミトリが、えーと……名前忘れちゃったわ。……誰かと女をめぐって決闘していたけれど、それの大規模なやつを開催するの」
「モリガン様。優勝者に贈られる賞品になりたいんですか?」
「私のために多くの男が戦うのよ。女冥利に尽きるわね」
「完全に、面白がっていますね」
「うふふ。とりあえずそういうことだから、ベリオール様にそう報告してくれないかしら」
 夢魔はさっきまでのため息が嘘のように、明るく悪戯っぽい笑みを浮かべた。

第六章 十三粒の金剛石

「やはり、そうか?」
 ジェダは腹心のオゾムを見下ろして言った。ここは魔王の城の賓客用の部屋だった。モリガンの婚約者を決めるための武道会に出場するために、ここしばらくジェダはこの部屋に滞在していたのである。
「間違いありません。ジェダ様。この資料によると、危険な『魔界の扉』は無限の魔力の源となり得ます」
 オゾムは忠実そうに答えた。
「ふむ……」
 口元に手を当てて、ジェダは考え込んだ。
 それがあれば、魔王ベリオールに打ち勝つことも出来るのではないか……。という彼の考えは間違ってはいないようだった。問題はその計画をどのようにして実行するかだった。
 何しろ、その前提になるのは魔界の扉の独占である。また、パワーアップ後、魔王と対決するための兵力も整えなければいけない。
 色々と手を打って置かなければ、後で思わぬ落とし穴にはまるだろう。
 そのまましばらく彼は考えを巡らしている様子だったが、唐突に言った。
「近ごろの霊王ガルナンの様子はどうだ」
「はっ。老いがこたえている様子でおとなしくしています。それにかなり体の調子も悪いようです。が、その情報網は健在かと思われます」
「そうか……」
 ならうかつには動けない。
「それから……気になることがあります」
「魔界の扉を熱心に調べている貴族の中に、あのデミトリ・マキシモフがいるのです。こちらの調査の過程で、扉近くで当主本人を見かけたこともございます」
「数日後に決闘する相手だね。そう聞くと、決闘で止めを指せないのが惜しいと思えるよ。どうやら純粋な研究目的ではなさそうだからね」
 モリガンの婚約者を決めるための武道会は、すでに決勝を残すのみとなっていた。約100名の独身の貴族の男性が、参加に名乗りをあげた。その3分の2以上が魔王による「書類審査」で落とされ、30名ほどが実際に闘技場で争っていた。
 その結果、勝ち残ったのはデミトリとジェダの両名だった。
 決定後、デミトリがモリガンに「決勝戦を行わずとも婚約者は決められるのでは?」と言ったという噂が流れた。
 ジェダはその話を聞いて、「私に勝てないと知る程度の賢さはあるようだな」と冷笑した。
 結局モリガンが「どうせだから、闘ってもらうわ」と言ったので、決勝は行われることになった。
「デミトリ……か。最近のレペ家は扉を見たい者たちが献上する富で潤っているというが、本当らしいね」
 ジェダ本人もレペ家の領地内に部下を立ち入らせるために、毎回多くの貴金属を差し出していた。
「それに、調べました所、レペ家が危険防止のために、あの扉に封印を施していることがわかりました。その封印は扉を小さく、短くしか開かないようにしているものです」
「ほほう。それがなければ、大量の魂が長時間、この魔界に流れ込んでくるのだね」
「その通りでございます。封印はギララ山のふもとに何カ所かございます。レペ家の番人が守っておりますので、レペ家に話を通してみてはいかがでしょうか」
「わかった。今回もお前が行くといい。私はあの吸血鬼に現実の残酷さというものを思い知らせてから、自分の城に帰るつもりだ」
「はっ、ご指名、光栄でございます」
 オゾムは深々と頭を下げた。

 ジェダとデミトリの決闘は予選と同じく闘技場で行われた。
 だが、今回の見物人はそうそうたる顔触れだった。
 魔王は、両者の立場を考えて、
「互いを殺さないこと」
 を条件に決勝試合を許可した。
 さすがの魔王も、この時期にいきなりドーマ家もしくはマキシモフ家の当主が死ぬという事態は避けたかった。
 そんなことになったら、明日からいきなり魔界は大戦乱時代に突入しかねない。
 だが、そのかわり何をもって勝利とするかは難しかった。
 色々な案が出された。
 2回地面に倒れたら負けだとか、3本勝負で審判が勝者を決めるとか、テンカウントとられたら負けだとか、あるいは互いに胸に薔薇をつけてそれを散らされたら負けだとか。
 結局、「先に起き上がれなくなった方が負け。相手を殺しても負け」というルールに決定された。
 こうして、「死なない程度に痛めつけあう」闘いとなることが決まったのである。
 この知らせはたちまち魔界中に広まり、予選終了から決闘開始までの一週間の間に主だった貴族の多くが顔を揃えた。
 その魔力の強さを謳われる者同士だったが、特にジェダが戦場以外でその力を奮う所はそう見られるものではなかった。
 果たして、あいつらの本当の強さはどの程度なのか?
 やじ馬的好奇心と、戦闘力の分析のため、多くの貴族がこの決闘に注目したのも無理からぬことだった。
「やれやれ、随分と集まったものだな。自分より地位の高いものが負かされる場面がそんなに見たいのかね」
 控えの間から外を眺め、ジェダはふうと小馬鹿にしたようなため息をついた。
 集まっている貴族の大半は、デミトリよりも格下の連中だった。もっとも、デミトリより格上というと、ベリオールとガルナンとジェダ本人しかいないのだったが。
「全く暇な連中だな」
 冥王は、椅子の背に凭れながら言った。

「さすがの私もこれほどの大舞台は初めてだな」
 彼のための控えの間で、デミトリは傍らのカミーユに、余裕を見せて微笑みかけた。
 だが、彼も内心では恐れていた。相手は仮にも三大貴族のひとりだ。自分の十倍もの年月を生きた死神の王。出来れば闘いたくはない。それで、モリガンに「あの色気のない男との結婚を望むのかね」と聞いてはみたのだが、「強い男が好きなの」と微笑みかえされたのだった。
 彼はジェダが名乗りをあげたときから、落ちつかなかった。家柄では向こうが上、彼が「モリガンの好意」を得られなければ、順当にジェダが望むものを得るだろう。そう考えて彼はモリガンの所へまめに通ったのだが、モリガンはどうやら本気で「ジェダも悪くない」と考えているらしかった。そしてその理由は彼には理解できなかった。やはり、強さか。年齢か。それとも家柄か。デミトリは内心歯がみした。
 サキュバスの寿命から考えて、モリガンの余命はあとたった200年。たかだかそれだけの歳月を待てば、魔王の座は自動的にモリガンの夫となった男のものだ。
 こんな美味しい話があるだろうか。
「もし負ければ、大勢の魔界貴族の前で恥をかく結果になる。だが、もし勝てばいずれは私が魔界の王たる存在であることをこの場で示せるのだ」
「はい。いずれは全てがデミトリ様のものに。ですがお気をつけ下さいませ。何かこの決闘には意外な結末が待っているような気がするのです」
 魔族のひとりとして、カミーユには一際鋭く物事を感じ取る力があった。
「裏があるというのかね?」
「はい。ジェダ様は得体の知れない人でいらっしゃいます」
「ふむ……毒でも盛る気かな」
「それとは違うような感じなのですが……」
 カミーユは自分の神経が感じているものを探ろうとするかのように、目を閉じた。

「それでは、ジェダ・ドーマとデミトリ・マキシモフの両名の決闘を、これから執り行う」
 デミトリとジェダが闘技場の真ん中に進み出ると同時に、司会役の声が闘技場の客席のすみずみにまで響き渡った。司会役はアデュースだった。
「この決勝戦の勝者に、モリガン・アーンスランド嬢との婚約が、魔王の名において許されるものとする」
 デミトリはその回りくどい言い方に、内心で舌打ちをした。モリガンは「婚約までなら破棄できる」と考えて、そういう条件にしたのだろう。なぜ、「勝者と結婚」と言わずあくまでも逃げようとするのだ。
 だが、今はそれでも構わぬ。いずれあの女、逃れられぬようにきっちりと捕らえてくれよう。
 デミトリは、特別席からこちらを見ているモリガンを一瞥して、ジェダに対して身構えた。
 ジェダは「賞品」の方を見ようとはせず、ただデミトリを冷静に見つめていた。
「それでは、始め!」
 その声と同時に両者は高く前へ跳んだ。
「ファイア!」
 デミトリの手からオーラをまとった蝙蝠が放たれる。
 ジェダは気づいて、宙で我が身をかばった。
 そして地に足をつけると同時に、デミトリは翼を広げ、身を翻した。
 同じく地に降りたばかりのジェダを、青黒い翼が襲う。
 ジェダは再び身をかばい、デミトリの翼によるダメージを最小限に押さえて、デミトリの無防備な足をけとばした。
「つっ!」
 よろめいたデミトリの首筋をつかんで、宙に吊り上げ、脇へ投げる。
 すばやく態勢を立て直して、今度はデミトリが鎌を奮おうとしていたジェダの隙を狙って、足払いをかける。
 倒れたジェダの背中を、デミトリが宙返りして踏み付ける。
「ぐっ」
 ジェダの背が大きくしなる。
 デミトリは、ジェダの背中から降りるとすっと後退りして、再び蝙蝠を放った。
 が、一瞬速くジェダはデミトリに向かって跳び、宙で両手の長い爪を交差させた。
「うっ」
 慌てて顔の辺りをかばったデミトリの腕から、血が飛び散る。
 次の瞬間、ジェダは手薄になった腹の辺りを蹴飛ばした。
 しかし、彼が地に足をつけた瞬間、今度はデミトリが彼の肩をがっちりとつかんだ。
 そのまま、ばさっと大きな音をたて、高く飛び上がると、デミトリはジェダを頭から地面に叩き落とした。
 人間ならば、首の骨が砕ける所だが、ジェダは液状の体を少し飛び散らせただけだった。
 さらにその肉体を地に塗れさせてやろうと、デミトリは殴り掛かったが、一瞬早くジェダが長く伸びる爪を彼の腕に突き刺した。
「がっ」
 デミトリは傷ついた腕を振って、自分の血を払い落とした。
「かなり利き腕が痛むだろう」
 さっと後ろに下がってジェダがいった。
 デミトリはきつく睨みつけた。
「てあ!」
 ジェダは自分の翼の先をむしりとり、それを宙で回転する刃に変えた。デミトリに投げ付ける。
「ファイア!」
 デミトリは、蝙蝠を召喚してその刃を弾いた。と、彼の頭上からジェダが舞い降りる。
 とっさにデミトリは翼で身をかばった。長い爪が彼の方へと伸びる。
 翼に微かな苦痛を感じたが、デミトリはそのまま空中のジェダを翼で殴りつけた。
 叩き落とされたジェダが地に伏せるのを踏み付ける。
 ジェダは一瞬呻いたがすぐさま起き上がり、後ろへと飛んだ。
 デミトリが追ってつかもうとするのを、ジャンプしてかわし、宙返りして刃と化した翼で、デミトリの肩を斬る。
「うおっ!」
 デミトリが右肩を押さえて後ろに下がる。
 さらにその腕を痛め付けようとジェダがのばした爪を、デミトリは交わしざま、冥王の首筋に跳び蹴りを食らわす。
「ぬっ…!」
 ジェダの肉体の蹴られた部分から、体液が飛び散る。
 だが、自分の目の前に着地したデミトリに冥王は大鎌でばっさりと切りつけた。
 投げようと試みていたデミトリの右腕から鮮血が吹き出す。刃は骨までとどいていた。
 デミトリはあわてて後ろに下がった。踏み込むジェダ。
「デモンクレイドル!」
 デミトリの回転する翼がジェダの伸ばされた右腕を切り落とした。
 地に落ちた右腕は赤い液体となって飛び散り、土に吸い込まれた。
「ふうっ!」
 ジェダは肘から先のない腕を振った。すると、じゅぴっという音と共に、腕が再び生えた。
「ちっ」
 デミトリは舌打ちした。液状の肉体に再生不能などあり得ないか。
 では、と彼は再びコウモリを召還した。
「ファイア!」
 召還の隙を狙い、ジェダは宙へと舞った。それを待っていたデミトリは、翼を翻した。その彼の喉元をジェダの長く伸ばされた爪が狙う。
 空中で両者は激突し、地へと落下した。
 デミトリは起きあがろうとした。が、体が動かない。
 苦痛に眉根をよせたまま見やるとジェダも同じ状態らしく、地に倒れ伏し、服のつなぎ目から、赤が滴っていた。
 左腕で身を起こそうとすること10数秒。
「これで終わりとするか」
 つぶやくような調子の魔王の声が轟いた。
「両者倒れたのは同時。よってこの勝負は引き分けとする。再戦を行うかどうかは、魔王ベリオールと、モリガン嬢の判断に委ねる。しばし待たれよ」
 アデュースが声を張り上げた。
 デミトリは首を傾げて敗因を考えながら、魔王の言葉を待った。
 しかし、ジェダは待たなかった。
「引き分けか…」
 ジェダは唇を歪めて笑った。
「この私と引き分けるとはね。どうやら、君のモリガン嬢に対する執着は本物らしい。ならば、私は君に彼女を口説く権利を譲ろう」
 ジェダは鎌を肩にかけたまま、デミトリを見た。
「だが……フフ。君の男としての魅力は実のところどれほどのものかな? お手並み拝見といこう」
 何をいうか、この独身主義者、と心の中で罵りつつ、デミトリは一礼した。
「譲ってくださるとは有り難い。これでモリガン嬢とゆっくり語らえるというもの。では、魔王陛下。モリガン殿のお相手は私で異存はございませぬな」
「私にはないな。いずれ正式に婚約者とすることにしよう」
 魔王は傍らの後継者を振り返って言った。
「モリガン。よもやこの期に及んで嫌だとは言うまいね。この決闘もおまえの望みで行われたものなのだからね」
 モリガンはにっこりと笑った。
「ええ。それでは、魔王陛下。私自らマキシモフ公とお手合わせすることをお許し願えますか」
「ほう、なぜ」
「私以上に強いのかどうか、確かめたいからです。私より弱くては、話になりませんから。
「マキシモフ公は怪我をしている。後日にするがいい」
 魔王は制止したが、モリガンは直接デミトリに声をかけた。その声は甘かったが、笑みは不敵な自信に満ちていた。
「いいでしょう? デミトリ。今ここであなたと闘いたいわ」
「いいでしょう。モリガン殿。あなたの誘いを断りはしません」
 似た笑みを浮かべ、「闇の貴公子」はお辞儀をした。
「魔王陛下。私は挑まれた以上、闘います」
「では一時間後に二度目の決闘を行うとしよう」
 ベリオールは宣言した。

 派手な音を立てて、木の椅子が倒れた。
 腹立ちまかせに控え室の質素な椅子をけとばし、デミトリは低い声でいった。
「あの女、あくまでも逃げるつもりか!」
 右肩と右腕が痛む。いかに彼といえど、この傷が一時間で治るものではない。
 この状態ではモリガンはジェダ以上の敵だ。
 かといって、あの状況下で「疲れたから一週間後にしてくれ」などとは言えない。要はモリガンにまんまとはめられた訳である。
 あの女は強い。自分以上だとは思わないが、自分に迫る力はある。
 だが、負ける訳にはいかない、いかないのだ。
「デミトリ様……」
 カミーユは主人にそっと寄り添った。
「どうぞ」
 デミトリはその喉に荒々しく噛みつき、血を啜った。

 デミトリは右腕に血のにじむ布を巻いて、闘技場に現れた。
 戦闘用の黒のボディスーツに着替えたモリガンは、薄い笑みを浮かべてそれを迎えた。
 闘いの開始を告げる、アデュースの声が響きわたった。
 それと同時に両者共に一歩踏み込む。
 モリガンはデミトリが左腕で殴ろうとするのをしゃがんでかわし、向こうずねをけとばした。
 よろめくのを見て後ろにひょいと跳ぶ。
 デミトリは体勢を立て直し、隙無く構えてモリガンを見つめていた。その赤く輝く瞳からは闘志が失われていないことが明らかだった。その体からは陽炎のように淡く光るオーラが立ちのぼっている。
 無理しちゃって、とモリガンは思った。
 少なくとも、右腕を用いての攻撃は出来ないことが明らかで、体力もだいぶ削られているはずだ。
 彼女は怪我をしているデミトリに挑むことを卑怯とは思わなかった。
 これは不意打ちではない。怪我をしているのに、「闘います」と意地を張ったデミトリが莫迦なのだ。
 その高すぎる誇りを打ち砕いてあげるわ。
 彼女はすっとデミトリに近づいた、間合いと見てデミトリが大きな蹴りを放つ。 しかし、モリガンの平手打ちが先に彼の頬に飛んだ。高い音が響きわたる。
 勢いを失った蹴りを余裕でかわし、再び後ろに下がる。
 そしてモリガンは高く前に飛んで翼を無数の針に変え、デミトリの喉元辺りを狙った。
 と、デミトリも高く垂直に飛び上がり巨大な蝙蝠の翼を回転させた。宙を切り裂く青黒い疾風。
 それはモリガンの翼を薙払い、彼女の右の一の腕の肉をえぐった。
「ああっ!」
 悲鳴をあげて左手で傷をおさえる。
「腕一本を痛めたといえど、私にはまだ翼があるのでね」
 デミトリはこの状況下で悠然と笑って見せた。
「そうこなくちゃね」
 モリガンは傷口から手を離して、楽しげに微笑んだ。
 だがモリガンは意外にデミトリが疲れていない様子なのに、少し驚いていた。
 その答えは、控え室で青ざめた顔をして、貧血にたえているカミーユなのだが、モリガンにわかるはずもない。
 ちくちく攻めて、存分にいたぶってあげようかしら、などと考えていたモリガンの全身が引き締まる。
 負けるわけにはいかない。
「やっ!」
 モリガンの手から蝙蝠の形をした光弾が打ち出される。
 が、次の瞬間デミトリの姿が消えた。
 はっとして、モリガンはとっさに身構えた。その目の前にいきなりデミトリが出現した。吸血を行う時の姿で。
 左腕だけで彼はモリガンの右肩を掴んだ。とっさにモリガンは左側へと体をひねった。細い喉を狙った太い牙は狙いを外れ、モリガンの右肩から赤い血と白い飾り羽を散らす。微かな悲鳴。それは服に化けた蝙蝠の声か。
 モリガンはデミトリの腕を逃れて、地面に倒れ込む。
 その背中をデミトリは踏みつけた。
「あぁっ!」
 モリガンは白い頬を土に擦りつけるようにして、苦痛に悶えた。しかし、牙を喉に受けていたらそこで止めであったろう。安い代償といえた。
 デミトリは少し下がって、蝙蝠を召還した。起きあがろうとしているモリガンに、それを放つ。
 更にモリガンを蹴りとばさんと跳躍する。
 モリガンはすばやくデミトリと彼の蝙蝠から己の翼で身をかばい、デミトリの脇腹に蹴りを入れた。
「ぐっ」
 デミトリは脇をおさえてかがみ込んだ。
 さらに蹴りこもうとしたモリガンの目の前で天地が回転した。
 苦痛ゆえにかがみ込んだと見せかけ、デミトリが彼女の足を思いっきり払ったのだ。
 再び、モリガンは転倒した。体全体が痛い。このまま負けてしまうのか、と弱気な考えが頭をかすめる。
 デミトリは一歩下がった位置でモリガンが起きあがった隙を狙って、幾多の蝙蝠を召還しようとしていた。
 が、次の瞬間デミトリの眼の前でモリガンの肉体が虹色に輝いた。そしてモリガンの姿がふわっと二重になった。はっとデミトリが振り向くと彼の後ろにもモリガンがいた。
 自らの魔力を一時的に実体化させ、寸分違わぬ分身を作り上げるモリガンの術。その中に彼は落ちたのだ。
「お仕置きの時間よ……」
 いいざまに、モリガンはふたりの彼女に挟まれて身動きのとれないデミトリの頬を平手でたたいた。そのまま思うがままに蹴り、殴る。
「気持ちいいでしょう?」
 からかいを含んだ声を残して、ひとりに戻るとモリガンは隙なく倒れたデミトリに対して身構えた。出来れば起きあがって欲しくなかった。彼女は肩で息をしながら、デミトリの震える肩を見つめていた。
 だが、デミトリは起きあがった。しかし、次の瞬間にがくりとひざをついた。
 彼は眼で殺そうとするかのようにモリガンを睨み付けたが、すぐ顔を伏せた。その肩は激しく上下している。
「勝負あったな」
 魔王ベリオールのつぶやきを受けて、アデュースがモリガンの勝利を宣言した。
「この決闘の勝者はモリガン・アーンスランド嬢である!」
「魔王様。これで私は当分の間、婿を選ばなくてもいいですわね」
 腕から血を流したままの姿で、ひざをつくデミトリの傍らに立ち、モリガンは笑みを浮かべて言った。
「仕方あるまい」
 ベリオールは苦笑した。
「それでは、負傷者の手当をしてやれ」
 その言葉に王室付きの医師団が、担架を運んできたが、デミトリはそれに乗せられることをきっぱりと拒絶し、自分の脚でよろけながら歩いた。
「それから、敗れたりと言えども勇敢な戦いを見せてくれた、ジェダ・ドーマ、デミトリ・マキシモフの両名には後で褒美を与えよう。そうだな。宝石箱に上質のダイアモンドを詰めて送る事としよう」
 その言葉に、羨ましげな声が上がった。そして、会場のどこかで手をたたいたものがいた。それはたちまちのうちに広がり、万雷のような拍手になった。

「デミトリ様。魔王ベリオール様の使者が、魔王様からの親書と大粒のダイアモンド13個を持って参りました」
 それ自体が工芸品として美しい宝石箱を胸元に捧げ持ち、イザベラは主に声をかけた。
「そんなものよりあの女が欲しかった」
 自らの城の私室で侍女に腕をもませていたデミトリは、不機嫌な声で答えた。
「そうでございましょうね。ですが、遠方から来た使者たちに持って帰れともいえません」
「使者へのもてなしは、君に任せる」
「かしこまりました。それでは、後で魔王陛下への礼状をしたためておいて下さいませ」
 デミトリの愛人たちの中で、最も古く、最もこの城の女の中で高い地位にある女は、主に優しく微笑みかけた。二百年以上前から、時を止めて美しい腕がすっと伸びて、デミトリの手の中に宝石箱を置いた。
 デミトリは箱を開けて、ダイアを親の仇のように眺めた。
 金額に直して、彼がモリガンに送った品々の合計金額よりかなり高額だろう。
 金の点ではむしろ儲かったとさえ言えるのだろうが、多くの観衆の前で負けた屈辱感は金銭や物品では癒せそうになかった。
「惜しいところでございましたわね。でも、またチャンスがあるかもしれません」
「当分ないだろうな。そのための決闘だ」
「そして、宝石だ。これをやるからおとなしくあきらめてくれ、ということだ」
 ダイアをつまみ上げた指に力がこもる。
 イザベラの目には主人の指の間で、ダイアが砕けそうに見えた。
「美しいが……突っ返したい気分だ」
 イザベラは、それ以上何もいえなかった。これが、他のことであれば「そのようなことは、お忘れ下さいませ」とその傍らについと身を添えて、その肉体で主人を慰めるところだが、当の主人が他の女のことを考えている今は逆効果になる可能性があった。
 デミトリはしばらくその指で十数個のダイアモンドを弄んでいた。青みをおびた最高級のダイアは、転がすたびに冷たい炎のようなきらめきを放つ。
「征服されざる者」との名の由来を持つ硬い石は、妖しく儚いブラックオパール、血や彼の瞳と同じ色のルビーと同じく、デミトリのお気に入りの宝石のひとつだった。
 その輝きに少しは慰められたのか、デミトリは石を置いて椅子から立ち上がった。落ち着いた声でイザベラに命じる。
「寝室へカミーユを呼んでくれ」
「わかりましたわ」
 イザベラはどことなくほっとした表情で一礼をした。
「カミーユと……そうだな、君も後で来てくれ」
 女として望まれる喜びにイザベラは、包み込むような柔らかな笑みを浮かべた。

 ジェダとデミトリの決闘の一月後、霊王ガルナンが死んだ。
 その知らせは瞬く間に魔界中に広がった。
 そして、それは多くの魔界貴族にチャンスとして受け止められた。
 デミトリもそう判断したひとりだった。
 彼はガルナンと同盟を結んでいた多くの魔界貴族に働きかけ、勢力範囲を拡大しようとした。
 ガルナン亡き後のヴォシュタルの一族の凋落は甚だしかった。他に力のある者はおらず、家臣や同盟貴族は次々に離れていった。それは、領地の減少でもあった。
 離れていった者たちのある者は自ら小国の王となり、ある者は別の国の家臣となった。
 その騒ぎの中でジェダもデミトリと同じくより多くの魔界貴族を、味方に引き込もうとしていた。
 そのための対外交渉に役だったのが、口の上手いオゾムだった。
 彼はガルナン亡き後は、ジェダの後につくのが一番の得策だと多くの者達に信じ込ませた。
 実は、今回魔王ベリオールはそのようなパイの奪い合いには積極的に参加していなかった。だが、「寄らば大樹の陰」とばかりに保護や利益を求めて彼の元に走る者も少なくなかった。とはいえ、全体としてはジェダとデミトリの陣取り合戦だった。
「口先のドーマと腕ずくのマキシモフ」
 という評判は本人達にも届いていた。その争いは一見したところ、ジェダの方が優勢だったが、鋭い者にはデミトリが「対ベリオール」を想定して、勢力範囲を拡大していることが知れた。
 そして、ベリオール本人は用心しつつも、そのようなデミトリの行動には「反逆か…フッ、若いな」という悠然たる態度を崩さなかった。

「何くだらないことをやっているのかしらね」
 アデュースから、ガルナン亡き後の魔界貴族の諍いについて聞かされた、モリガンはうっとうしそうにつぶやいた。
 魔界全体を巻き込む大混乱だったが、今のところ小競り合い程度の戦闘は絶えないものの武力衝突より、交渉だの同盟だのと政治的な手段で解決が図られる傾向にあった。
 それがモリガンにはつまらない。どうせなら、派手な戦乱になればよいのに、と思っていた。アーンスランド家は基本的にこの件に関して「傘下に入ろうとする者は拒まず、戦いを挑もうとする者には相応の報いを」という消極的な態度だったので、モリガンなどは完全に傍観者の立場だった。
「これから、戦乱になるのかもしれませんよ。さすがに全てが話し合いで何とかなるとも思えませんからね」
「あら、今度は大軍を率いてジェダとデミトリが争うというの?」
「多くの者がそう見ていますし、実際その可能性は高いでしょう」
「ということは、ほかの可能性もあるのね?」
「はい。特にデミトリ様の方に陛下への反逆の意志ありと見なすものがいます」
「やりそうね。でも、できるのかしら」
「だからこそ、ガルナン様の死が大きな意味を持つのですが」
 そこでアデュースはふぅとため息をついて告げた。
「ともかく、雲行きが怪しくなって来ましたので、モリガン様はとりあえず結婚なさらずに正解でしたね」
「失敗したわ」
「は?」
「デミトリあたりと結婚していれば、今頃は毎日が戦いで退屈せずに済んだでしょうに」
「……そうですね。デミトリ様としても、この時期優秀な戦士がいれば有り難かったでしょうね」
 アデュースはさすがに疲れたような顔で答えた。
「それじゃ、支度して」
 モリガンはすっと椅子から立ち上がった。
「わ?」
 アデュースが変な声を出す。
「暇だから、また人間界に遊びに行くわ」
「そういう場合ですか! この魔界の行く末が案じられている時に……」
「私には関係ないもの。勝手にやらせておきましょ。幸い、ベリオール様がご多忙らしいし。いい機会だわ」
「お嬢様〜。うっうっ」
 アデュースは目にハンカチをあてた。

 空に突き刺さるようなギラ・ギララ山脈。
 モリガンにとってはもはや見慣れた風景だった。
 だが、今回は様子が変だった。
 いつもは、多少の宝石と色仕掛けで「禁断の土地」に入れてくれるレペ家の番人が難色を示したのだ。
「できれば、このままお引き取り願いたいのですが」
 という番人に凄みのきいた脅しをかけた所、
「有力貴族がレペ家の当主に話を通して『扉』を借り切っているんです」
 と言う話だった。
「それは、アーンスランド家と敵対、もしくはそれに準ずる立場にある貴族なのね」
 モリガンの言葉に番人は青ざめた顔でうなずいた。
 これまでは、レペ家としても魔王に反逆の意志など見せる気はなかったので、モリガンの通行を黙認していた。が、今回モリガンを通したら、その「有力貴族」に対する約束をレペ家が破ったことになる。
 もし、モリガンがここで下手に暴れればお忍び旅行が国際問題になってしまうだろう。
「わかったわ。それじゃ、ベリオール様にレペ家が怪しいことをしているって報告するから」
 モリガンは優しげな笑みを浮かべてそう言った。
「そ、それはお辞め下さい!」
 番人は大柄な体を震わせた。
「あと2週間、2週間ほどお待ち下さい。おそらく、今おいでになっているその貴族の臣下は、今晩『扉』が開くのを観察した後、彼の主人に報告に戻るはずです。ですから、次に開くときは数人の監視以外はいないと思うので……」
 モリガンは不承不承うなずいた。

 言われたとおり2週間後、モリガンが扉の番人の館を訪ねると番人は「くれぐれも内密に」と念を押して、「扉」に通じる道の門を開いてくれた。もちろん、この「門」は物理的な扉ではなく、許可なくしてこの山に入るものを防ぐための結界のゲートである。
 モリガンはいつものように堂々と空を飛んで行くのはまずいと考え、山頂近くまで、岩陰に隠れるようにして、進んだ。突風が時折吹き、岩壁にたたきつけられそうになったことが何度もあった。
『もう、あぶないわねっ』
 心の中で何度もどなる。
 そして、山頂近くの岩陰からのぞくとそこそこ強そうなのが何人か。
 しかし、モリガンはすぐには手出しをしなかった。魔界の扉が開く気配をうかがっていたからだ。
 あともう少し。あともう少しで「もうひとつの世界」への扉が開く。
 その直前の気配をモリガンは肌で感じた。世界が歪む不気味な感覚。
 まずは、注意をそらさなきゃね、とモリガンは手近な岩を思いっきり蹴り落とした。
 ガラガラ、ゴロ、ドン、ドス、ガタッ、グシャラ、ドドトッ。
 岩雪崩の音が響く。
 モリガンは素早く滑空して、その場を離れ別の岩陰からのぞいた。
「何だ! どうした」
 見張りの者たちは皆そちらに集まっていた。
 今だ。
 その隙に、高い空の裂け目に向かってモリガンは力強くダッシュした。扉が開く気配。
 その時空の裂け目に入り込もうとした瞬間、感電したようなショックがモリガンの全身を駆け抜けた。
「きゃあぁぁっ!」
 それは、「扉」自体に施された特殊な封印だった。
 その衝撃に背中や頭に翼として付いていた、コウモリたちがバラバラになり、黒い羽毛の様に散る。
 モリガンは気を失ったまま、岩だらけの谷底へとイカロスのように墜落して行った。
 その悲鳴を聞き付けて、見張りの男たちが一斉に振り向く。
 慌ててモリガンが落ちた方へと駆け寄るが、あいにくとその辺りは切り立った高い崖で、落ちたはずの女の姿は見えなかった。
「落ちた!」
「何者だ?」
 口々に叫んで遠く霞む下の方をのぞき込む。
「……何者だとしても、この高さじゃ絶対死んでるぜ」
「死体だとしても、身元は確認しなければならない。誰か死んだみたいです、では報告にはならない」
 リーダーらしき男が命じ、見張りの男たちのうち空をとべる者、三体が翼を広げて降りて行った。
 そして、しばらくたった時、今度は男の悲鳴が響き渡った。

 夜。魔界の森は生々しく蠢いていた。黄昏を目覚めの時と心得る鳥や獣たちが、近くで羽音を立て、また遠くで吠え声を響かせる。木々は妖しくざわめき、死に損なった者たちを地の底や枝葉の陰から呼び起こす。そこは限りなく暗い緑の世界。
 その森の中にほとんど獣道に近い、荒れ果てた道が通っていた。
 レペ家の所領から、マキシモフ家の所領へと続く道だった。
 その道を黒塗りで2頭立ての馬車が走っていた。護符等から葬式用のものであることは明らかだった。
 その車を見て、幽霊たちが御者席で鞭を振るう男に囁きかけた。
「ソノ死体ヲ置イテイケ…」
「体ガ欲シイ、体ガ欲シイ」
 その声は澱んだ空気のようにかび臭く、死者たちの生への強い執着を感じさせるものだった。
 フードを被り、長いケープをまとった黒ずくめの男は、無視して馬達を急がせた。
 すると今度は馬と男の温かい血肉を求めて、腐りかけた屍者達が両側の薮から姿を現した。
「アア…」
「ウ…ンガァ…」
 もはや、言葉を忘れてしまった者たちだった。
 男は無言で鞭を強く振るった。それは宙を生き物のように走り、一撃で屍達の頭部を砕いた。
 彼らの腐肉を蹄と車輪で地に塗れさせながら、葬式用の馬車は夜を疾走して行った。
 やがて、ふたつの領地が近接する辺りで、レペ家の番人たちがその馬車を呼び止めた。
 彼らは身分証の提示を求めた。
 男はすっと一枚の紙を彼らに差し出した。
 それによると、男はマキシモフ家の領地に住む者で、レペ家の領地に商取引のために滞在していた者だった。
「その車はどうした」
 番人が死者のための車であるのを見とがめて言った。
「妻が病で死んだ。葬式のために故郷に帰るのだ」
 男の返事は簡潔だった。
「念のために柩の中も含めて車を調べる」
 髭の長い男の高圧的な物言いをフォローするかのように、髪の茶色い男が言った。
「悪く思わないでくれ。この間も密輸騒ぎがあったんでね」
「わかった」
 男は静かに車の扉を開けた。
 番人たちは車の中を調べ回り、柩の蓋を開けた。
 黒い柩の中は赤い布で張られ、白い薔薇が一杯に詰められていた。
 薔薇に埋もれていたのは、生者の世界の全てを拒絶するように美しい女だった。
 長いまつげが伏せられ、瞳の美しさは解らぬものの、その面立ちは死体になるために生まれて来たように、冷たく整っていた。
 女は死者のための、黒い繻子の衣を着せられていた。蒼白い肌と長い銀髪がその黒に映える。
「怖くなるような美女だな」
 髪の茶色い男が白い肌に手を伸ばしかけたのを見て、黒服の男は、
「妻に触らないでくれ。調べは済んだろう」
 と言った。
「ああ」
 髭の長い男がそう答え、彼らは馬車を降りた。
「言ってよし」
 その言葉と共に再び馬車は走りだした。
 しばらくすると馬車は今度はマキシモフ家の側の番人に止められた。
「その馬車、止まれ!」
「辺境でのつとめ、ご苦労。私はマキシモフの一族の者だ。今すぐ貴族用の速い馬車を呼んでくれたまえ」
 男は先程とは打って変わった尊大な調子で言った。
「貴族様……。証しだてるものはございますか」
「これを見たまえ」
 男が示した指輪には薔薇と蝙蝠をかたどった紋章が彫り込まれていた。
「承知致しました」
 貴族用の馬車がつくと、男は御者に金貨を与え、行く先を告げた。
 そして葬式用の馬車の床板を外して、小さな木箱をふたつ取り出した。その荷物を御者に命じて新しい馬車に積み替えさせる。
 それから、女を柩から抱え出した。御者から女の顔が見えないように、自分の体で隠しながら馬車に乗りこむ。男は静かに女を後ろの座席に寝かせた。
 窓のカーテンを引いて、男は女の細い手首を掴み、頬擦りしながら囁いた。
「冷たい手だな。薬がよく効いているようだ。君はどんな夢を見るのかね……」

第七章 ダイアとルビーの首飾り

 モリガンは夜中に目を覚ました。
 起き上がろうとする。が、そのとたんに激痛が走った。
 暗い中に目をこらし、体をなでて見ると、自分がほぼ全身に擦過傷や打撲傷を負っていることがわかった。そして大きな傷には薬が塗られ、湿布が張られていた。
 あの高さから落ちて、この程度で済んだのなら幸運だったのだろう……。
 おそらく、一週間ほど寝ていれば、動けるようにはなるはずだ。
 幸運?
 モリガンは眉をひそめた。 自分の運の強さや肉体の丈夫さには自信があったが、あの高さで骨一本折れていないのはあまりに不自然だ。
 それに、コウモリたちはどこだろうか?
 アデュース達コウモリも地に落ちたはずだ。彼らは生きているのか?
 そもそも……ここは、どこかしら?
 見慣れないベッドと嗅ぎ慣れない香り。
 天蓋付きのベッドは豪奢な代物だったが、レペの一族やアーンスランドの一族の館ではおそらくあるまい。
 調度のセンスが違う。モリガンはベッドのカーテンや柱を眺めて思った。レペ家の支配する地方の織物は、もう少し地味な色合いで幾何学的な模様のものが多い。
 もちろん、輸入品という可能性もないではないのだけれど、これは……あの男の治める地方の織物だ。華麗な花柄のドレスを送られたのでよく覚えている。
 部屋に立ち込めている、官能的な薔薇の香もそうだった。以前近づいたとき、あの男自身の体臭にまじり、この香りがした。
 まさか……私をここに連れて来たのは……。
「デミトリ! いるの! いるんならでていらっしゃい!」
 モリガンは、大声で叫んだ。
「おや、お目覚めかね」
 まさかいるとは思わなかった、本人の声がした。
「気分はいかがかな」
 大きな手がカーテンをばさりと引いた。
「やはり、あなた……でもなぜ?」
 デミトリの唇には面白がるような笑みが浮かんでいた。
「君が空から落ちて来たので、通りがかりに拾っただけだが」
「それはどうもありがとう」
 警戒心を隠さないまま、型通りのあいさつをする。
「私のケガが浅いのは、あなたが受け止めてくれたからなのね」
「そうだ。傷が治るまでゆっくり休むがいい」
 デミトリは優しげに微笑んだ。
「お気遣いありがとう。それで、いつごろ家に帰していただけるのかしら」
「そのつもりはないな」
 男はあっさりと言った。
「え! ……それは私を監禁するということなの?」
「そういうことだ。私としてはこの幸運をふたりの運命と思っているよ。君が魔界の扉をくぐりぬけそこなったのは、君にとっては失敗だったが、私にとってはまたとない機会だった」
 モリガンはその言葉にぞっとした。
「……なるほど、ね。レペ家に金を積んだか、脅しをかけたかして、あの場所を借り切ったのはあなただったのね」
「怒った顔も魅力的だ」
 デミトリはきつい目で自分を睨むモリガンの顔をしばらく笑って眺めていたが、こう言った。
「そう。君がしょっちゅうあの扉を通っていたのは知っていたからね。あそこに罠をかければいずれ君がひっかかると思っていた」
「随分なご苦労をなさったものね。女一匹を捕まえるためにわざわざ他の国の領主に話をつけて」
 ベッドに上半身を起こした状態で、モリガンはデミトリに皮肉な一瞥を投げた。
「そのおかげで、魔界一美しい女が手に入ったのだ。満足しているよ」
 デミトリはモリガンの肩を抱き寄せると、強引に口づけをした。
「いやっ」
 男の肩をモリガンは必死で押しのけた。
「何よ。このまま監禁して毎晩玩具にしようとでもいうの」
「それもいい考えだな」
 楽しげに微笑んで言葉を続ける。
「だが、それはもはや、いつでもできることだ。お供のコウモリのいない君は剣を持たない名剣士のようなものだからな。まず、素手では私には勝てないだろう」
「そんなのやってみなければわからないわ」
 モリガンは言ったが、デミトリは余裕たっぷりの笑みを浮かべただけだった。
「このまま一週間も閉じ込められれば、退屈にたえられない君は私の前にひざまずき、自ら喉を差し出すだろう。『あなたのものになります。だからここから出して下さい』と」
「ここからって…」
 モリガンはデミトリの背後を見た。窓枠に彫刻を施した窓が開いている。窓の外には月と星、夜の森が見えた。
 だが、よく見るとその窓の外の風景は絵だった。
「まさか、ここは閉ざされた部屋なの?」
「その通り。調度は整えてあるが、実は地下の牢獄で、寝室と食堂と居間、そして浴室だけがある」
「トイレは?」
 見当はずれとも言えるが、深刻なモリガンの質問にデミトリはくっくっと笑った。
「浴室の前に蓋付きの箱型トイレが置いてある」
 つまり、おまるの高級なやつである。水道も下水道もつながっているとは思えない、地下牢には水洗もくみ取り式も向かないだろう。
「もしかして、おふろも水浴のみなの?」
「ここで薪や油を燃やしたら、君が酸欠になってしまう」
 どおりで明かりが3本立ての燭台ひとつきりだ。
「それでは、もしかしてあなたが、毎日私のおふろの水を上から運んで来て下さるのかしら」
「召し使いに運ばせたいところだが、この牢に私以外の者を立ち入らせるつもりはない。だからそれは、仕方がないな。やはり、女性には身ぎれいにして欲しいものだ」
 皮肉なモリガンの言葉に、デミトリは涼しげな顔で応対した。
「文字通りの監禁ね。卑怯者」
 デミトリは声を低くした。
「君はアーンスランド家の後継者だ。もしばれれば、私とてただでは済まない。命懸けのこの思いをわかって欲しいものだね」
「……」
 モリガンは無言でつんとそっぽを向いた。
「それではこれで失礼する。食事は食堂に鳥料理が用意してあるから、冷めないうちにどうぞ」
「男は用意してくれないの?」
「お望みならば」
 とデミトリは再びモリガンを抱き寄せた。
「あなたは男のうちに入らないわよ! 今すぐ出て行って」
 再度の拒絶にもデミトリの笑みは消えなかった。
「おやおや、つれないことを。以前あんなに熱っぽく抱擁しあった仲だというのに」
「私を閉じ込めるような男は大嫌いよ。顔も見たくないわ」
 モリガンは激しい調子で言ったが、デミトリはさらりと受け流した。
「また来てあげよう。逃げようとしても無駄だ。七つの扉、三つの封印、十二の錠が君を閉じ込めているのだから」
 そう言って、彼はマントをなびかせて立ち去った。
 そして、錠を外す音が聞こえて来た。その音からするに、彼の言うとおりいくつもの複雑な錠や結界がモリガンをここに閉じ込めているらしかった。
 モリガンはベッドにどさりと寝転んだ。
 さすがにすぐに鳥肉なんて食べる気にならなかった。あの男のことだ。最高級の品を用意したのだろうが。
「そういう所にばっかり心を込めないで欲しいわね」
 あまりにも静かすぎるので、つい誰もいないのにしゃべってしまう。
「でも、おかしいわね」
 声に出すと、ますますおかしく思えてくる。
「私を誘拐してあの男に何の得があるというのよ」
 はっきり言って、秘密のうちに監禁したところでデミトリの手に入るものは、モリガンの肉体のみだ。
 もちろん、デミトリがそれを欲しがっていることも感じているが、彼が肉欲のために魔王を敵にまわすような真似をするほどの愚か者とも思えない。
「私の美しさがあの男を狂わせたのね……」
 と口に出してみて、モリガンはやはり嘘臭いと思った。
 モリガンは自分の女としての魅力に絶大な自信を持っていたが、ナルシシズムのために他者に対する認識を根本から誤るほど愚かでもなかった。
 デミトリは、「君が好きだから、扉を借り切って罠を仕掛けた」とか言っていたが、それはあまりにもおおがかりな話だ。
 証拠、証言が残り過ぎる。
 モリガンは救出の手が来るとしたらどこからだろうか、と考えた。
 まず、執事のペジだ。
 モリガンの行く先が人間界という見当は彼ならつけられるだろう。
 そうなれば、真っ先に捜索されるのは、レペ家の所領の「扉」付近のはずだ。
 「扉」をその時借り切っていた人間が何か知っているはずだ……というのは誰でも考えつく。
 もちろん、番人もレペの当主もすぐには口を割るまい。だが、魔王の権力の前にいずれ白状するはずだ。
 特に、「二週間後にまたおいで下さい。その方の部下がお帰りになるので通れます」などと言った番人が何も知らないとは思えない。誰かが彼に嘘をつかせたに違いないのだ。
 ならば、犯人がデミトリであることは容易にわかるだろう。
 ……しかし、その程度のことに考え及ばぬデミトリだろうか。
 わからないわね……。
 モリガンは頭をふって、気分転換に食堂に行った。
 さすがにまだ体が痛むので、そろそろと壁伝いに歩いた。
 食堂は、そこそこ広かった。小さなテーブルに椅子が二つ。
 そして扉を開くともうひとつ小部屋があった。これが「居間」だろう。隅にアップライトのピアノが置かれていた。退屈しないようにとの心くばりだろう、その上の釣り棚には楽譜がぎっしりと並んでいる。そのほかにも小さな本箱に、何十冊かの本が置かれていた。みな多少古く、デミトリ自身のものを持って来たのだろうと思った。
 居間の壁には窓がわりの風景画と並んでデミトリの肖像画がかけられていて、モリガンはうんざりした。
「落書きしてやろうかしら」
 食堂のテーブルには香辛料の利いた鳥肉の料理とポテトのサラダ。年代物の赤ワイン。ドーマ家の治める地方の名産、キュービー印の蜂蜜と白いパン。紅茶とアップルパイ。簡素な食事だったが、美味しかった。ただ、ワインは少し甘すぎるような気がした。女性向けに甘いものを選んだのだろうが、もう少し重みのあるものがいいと彼女は思った。
 モリガンはテーブルの上に飾られた一輪の深紅の薔薇をぼんやりと見ながら、よくもまあ細かいところまで気の回る男ね、などと思った。
 しかし、ここまで準備を整えているということは、モリガンをここから出さないという彼の決意の表れでもあろう。
 モリガンは紅茶を飲みながら再び思い回らした。
 時間が経ち過ぎた紅茶は渋みが出ていたので、モリガンはパンに塗る蜂蜜を垂らして飲んでいた。
 なぜ、私を誘拐したのか?
 デミトリの言う通りなら「恋心」のためだが、これは怪しすぎる。
 ほかに考えられる理由があるとすればまず、身の代金である。モリガンの後ろ盾がもう少し弱ければ、もっともな誘拐の理由だろう。
 しかし、よりによって魔王の養女を誘拐して身の代金……命知らずの盗賊一味ならともかく、マキシモフ家当主の考えることにしては荒っぽさも度が過ぎるというものだ。
 金でも、体でもない……そもそもデミトリがモリガンに熱心にプロポーズしたのは、彼女に魔王の後継者という地位があるからである。そこから考えて行くべきではないか?
 今、モリガンが死ねばアーンスランドの一族は大騒ぎ……にはなるまい。
 どうせ他に後継者にふさわしい人材もいないのだ。
 そしてベリオールが健在な今、彼の鶴の一声で新たな後継者が決まる……それだけだ。
 いや、もしかしたらデミトリは、モリガンの後継者に指名されるような魔力の強さにこそ用があるのかもしれない。アデュースが、「優秀な戦士が欲しいところでしょう」と言ったように。
 しかし、モリガンを戦士として前線に出したら、一発で誘拐がばれてしまう。
 喉に傷のあるモリガンが「私の自由意志でこの男の妻になると決めたの」と言っても、誰も信用するまい。
 やはりデミトリが自分をさらったのは、「手に入れそこなったのが悔しくて、意地でもものにしたかった」というような、精神的な利益のためなのか?
 ふう、とモリガンはため息をついた。
 そういう理由なら、あの男は思ったより莫迦ということになる。
 けれど、そうなのかしら?
 あの男が自分に執着しているのは事実だが、デミトリは女好きである以上に野心家だ。
 そんな男が女一匹のために自らの野心を投げ捨てるような、危険な真似をしでかすだろうか。
 野心家……そうだわ。
 これまで、モリガンはあくまでデミトリは自分に用があるのだと思っていた。
 だが、違うのではないか?
 もしかしたら、彼の本当の目的は「扉」それ自体なのでは?
 彼の野望を達成するために、あの「扉」が何らかの意味をもつのではないだろうか。
 あの「罠」は別にモリガンを捕まえるためではなく、「扉」を独占するための「結界」なのではないか?
 そう考えた方が筋が通るような気がする。自分はたまたまひっかかっただけなのだ。
 そう、自分を監禁した本当の理由は、「口封じ」なのではないだろうか。
 モリガンはとっくに冷めた紅茶をすすりながら考えた。
 つまり、デミトリは何らかの理由があって、あの扉を借り切った。そしてその使い道は他者に知られたくないようなことだった。
 ところが、モリガンが「扉」の周囲に結界が張られていることに気づいてしまった。
 もし、モリガンの口から「扉」を利用した何らかの計画の存在がばれてしまっては大変である。
 それでとりあえず、彼はモリガンを閉じ込めてしまうことにした。
 デミトリがモリガンを殺さなかったのは、モリガン自身の利用価値を考えたのか、それともそれこそ恋心かはわからない。
 そこまで考えてモリガンはつぶやいた。
「でも、そもそもあの扉を何に使うのかしら」
 人間界に遊びに行って乙女の生き血をすするためだけに、扉を独占したいなんてことはありえないだろう。
 まず考えられることは、何かを人間界から持ってくるということだ。
 しかし、力のあるものでなければ通れず、二週間に数秒間開くだけの「扉」だ。そう大量の物を持ち運びなどできない。
 宝石を人間から奪ってかき集め、いっぱいの宝石箱を抱えてあの扉から帰ってくるような荒っぽいまねをすれば、かなりの財産が得られるはずだが、それも何か違うような気がする。
 後は、「扉」が開く時に大量に人間界の空に浮遊している「魂」が流れ込んでくる。それが目当てだろうか。
 ある種の魔物にとって「魂」は食物だ。
 だから、「魂」の売買は実は相当な利益を生むのではないか。
 あの「扉」付近に漂う「魂」を器か何かに封じ込め、「食料」として売りさばけば、「扉」を独占する者は巨万の富を得ることができる。
 そして、その富は必ずデミトリの野望に役立つはずのものだった。
「そうに違いないわ」
 モリガンはつぶやいた。今度は筋が通っていそうだった。
 だから、彼は「扉」のことを秘密にしたかったのだ。
 しかし、そうなるとモリガンが解放される可能性は低い。
「何も言わないからおうちに帰して……無理っぽいわね」
 モリガンはカップを置いて、席をたった。
 食堂のカーテンをひくと、玄関が現れた。
「やっぱり……デミトリ自身でなければとても開きそうにないわね」
 その扉は頑丈な鋼鉄製だった。試しに思いっきり蹴とばしてみたが、びくともしない。魔力による強化が施されているのだろう。
 モリガンは天井を見上げた。ここが地下牢なら、壁に穴を開けるのは危険だ。
「ここで生き埋めはさすがに御免だわね……」
 一枚目の扉についているものは、簡単な鍵を差し込むタイプの錠前だったが、その扉の小さな窓から見える二枚目の扉には四個も錠が付いていた。その錠の種類は多岐にわたった。普通に鍵を差し込むもの、数字を合わせるもの、パズルになっているもの、鍵で開くと思うのだが、ややこしく彫刻がされているため鍵穴が簡単にはわからないもの。
 とりあえず、一枚目の扉を開けようとして、やたらに頑丈そうな錠にアップルパイ用のナイフを突っ込んでみたが開かなかった。
「これじゃ、三枚目あたりを開けようとしている内に、あの男がまた来ちゃうじゃない」
 モリガンはいったんあきらめて、ベッドに戻った。
「こんな退屈な所、一週間もいたら、衰弱して死んじゃうわ」
 ともかく、他にすることがないのでモリガンは眠るしかなかった。

「デミトリ様、お願いですからここから出して下さい……」
 天井から鎖でつるされた、鳥籠のコウモリが哀れっぽい声を出す。その部屋はマキシモフ家当主の居城の執務室だった。
 重量感のある木の机の前に腰掛け、羽根ペンで書類にサインをしていた主は、籠の蝙蝠に目を向けて言った。
「出す訳にいかないのはよくわかるだろう、アデュース君」
「せめて、もう少し大きい籠にして下さい。私は本来人型なんですよ!」
「安心したまえ。おとなしくしていれば、ペットとして飼ってやる。餌には不自由させないぞ」
「……どうせ、お嬢様にも似たようなことを言っているんでしょう。従順であれば大切にしよう、てなことを」
「その通りだな」
 椅子に座ったままで、にっと笑う。
「ああ可哀想なお嬢様。せめて、私をお嬢様の側に置いて下さい」
「だめだ。彼女には当分私以外の男など見せない」
「お嬢様が私を男の部類に入る者と思ったことがあるだろうか、いや、ない……と思うんですが」
「あきらめたまえ。彼女が私の妻になったら君を再び彼女の従者にしてやろう」
「それって、監禁状態で口説くってことですか。それは脅すって言いませんか。それとも、吸血しちゃうってことですか。それは妻じゃなくて下僕っていいませんか」
「少しは口を慎みたまえ」
 デミトリは平手で、アデュースの籠をぱしんと叩いた。
「キイッ!」
 籠の内側にたたきつけられたアデュースが、蝙蝠の声で悲鳴を上げる。
 さすがにこたえたらしく、しばらく黙り込む。
 だが、やがて遠慮がちに口を開いた。
「あの、すみませんが、ひとつだけお聞かせ下さい。あの時、墜ちたお嬢様に襲いかかって来た者達は何者ですか?」
 アデュースはモリガンと共に空から墜ちた。
 その時デミトリが何処からか現れて、空中でモリガンを抱きとめた。
 アデュースは、運よく即死は免れたが、大怪我を負い、そのまま地に伏していた。
 その彼の前に、モリガンを抱いたデミトリが降下して来た。
 だが、その時扉を見張っていた者達が、デミトリに襲いかかって来た。
 デミトリはやむなくモリガンを少し下の茂みに放り投げて、そいつらを一瞬の内に惨殺した。
 そして、モリガンのお供の蝙蝠たちの中で息がある者……アデュースだけだった……を拾い上げ、再びモリガンを抱えた。
 気絶してしまったので、アデュースは後のことは知らない。
 しかし、デミトリが彼らを殺したということは、あの者たちはデミトリの部下ではない。
 ならば、あの「扉」を監視していた者達は誰なのか?
 それがアデュースの疑問だった。
「ジェダの部下だ」
 デミトリはあっさりと答えた。
「ということは、デミトリ様はジェダ様の動きを探るためにあそこに?」
「察しがいいな。もちろん、モリガンを助けるために控えていた訳ではない」
「モリガン様は貴方様とジェダ様の争いに、巻き込まれたのですね……」
「犬も歩けば棒に当たる。姫君はあまり外を出歩くべきではないな」
「デミトリ様……ぜひ、デミトリ様からもモリガン様にそう言って下さい。そうなれば少しは私も楽になるんです」
 アデュースは深いため息をついた。
「安心したまえ。当分彼女は出歩くことなどできない」
「それは安心出来ません…」
 アデュースは片翼で目の辺りを覆った。
 しかし、少しの間考え込むと今度はこう聞いた。
「それにしてもなぜ、モリガン様を生かしておくんです。まずいことを知られた訳でしょう? もしかして、人質ですか。ベリオール様に宣戦布告する時、モリガン様を交渉の道具になさるおつもりですか」
「ほう。ただの泣きまねコウモリではないようだな」
「ということは、それに近い事情があるんですね」
「さあな」
 デミトリは頬杖をついたまま、薄く笑った。
 その笑みを見た籠の中のアデュースは、戦乱の予感に血肉が冷える思いだった。

 ジェダは、オゾムからの報告に続いて送られてきた、監視の者からの報告を読んで眉をひそめた。
 それはこういう内容だった。
 何者かが、魔界の扉をくぐろうとしたが封印に阻まれ墜落した。
 悲鳴を聞いたが、女のようだった。
 そして、その生死を確かめに行った三体が惨殺死体で見つかった。
 だが、女の死体はなかった。
 「扉」をくぐろうとした女の素性と目的は不明ながら、高いところから落ちても死なず、さらに戦士達を惨殺していることから相当な力のある者と見られる。
 それだけが暗号で記されてあった。
 これには、普通の文字で書かれた嘆願書が同封されていた。
 女の「扉」への接近を許し、さらに逃げられたという失態についての処罰を軽くして欲しい、というものであった。
 ジェダはそれには興味を示さず、そのままくずかごに捨てた。
 そして、考え込んだ。
 その「女」とは何者か、と。強い女と聞いてすぐに思い浮かぶのは、モリガン・アーンスランドだが、なぜ彼女が「扉」に関心を示すのかがわからなかった。
 あの遊び好きの女がより強い力を求めているなどとは、思えなかったのである。
 とりあえず、ジェダは監視の人員の増強をオゾムに命じた。
「もし、モリガンであるならば、この計画が直接ベリオールの耳に入る可能性もあるね。計画の実行を急がねば」
「はい。ジェダ様」
「まずは、扉の封印の場所をレペ家から聞き出すことに全力をあげて欲しい。レペ家もこちらを警戒しているらしいが、君の交渉能力には期待している」
「お任せ下さい、ジェダ様」
 ひざまずくオゾムの伏せられた顔に、不気味な笑みが浮かんだ。

 アデュースが籠に入れられて3日目の夜。デミトリは今夜もモリガンを訪ねていて、執務室には誰もいなかった。捕らわれの楽士は、美女の肖像画にでも聞かせるつもりで、通る声で歌っていた。

  若者見たり   荒野の薔薇
  色鮮やかに   咲く花に寄りて
  喜び愛でる
  薔薇 薔薇 紅薔薇
  荒野の薔薇

  摘み取り行こう 荒野の薔薇 
  貴方を刺すわ  薔薇は答えた
  折らせはせぬと 
  薔薇 薔薇 紅薔薇
  荒野の薔薇

  若者手折る   荒野の薔薇
  薔薇は叫んで  刺で刺したが
  花はその手に  
  薔薇 薔薇 紅薔薇
  荒野の薔薇

 蝙蝠の口から、人の声、それも美声と呼べるほどのものが流れ出すのは、魔界と言えども神秘的な光景ではあった。
 ぱちぱちぱち、と微かな拍手があった。
 アデュースが床を見下ろすと、それは艶やかな黒の毛皮の、闇鼠だった。
「上手いもんだねえ。あたしは感心したよ」
「貴方はどなたでしょうか」
「私はアンナ。この城に長いこと住んでいる鼠だよ。あんたこそどこからきたんだい?」
 アデュースは本当のことを言っていいものかと一瞬ためらったが、ここに捕らわれている事情を含め、正直に打ち明けた。
「ふ〜ん、モリガン様って方もお気の毒に。まあ、この城に住んでいるとひどい話なんざいくらでも聞くけどね」
 うんうんという感じに腕組みして鼠はうなずいた。
「やっぱり?」
「でも、なんせご主人が吸血鬼だから、食事以外にひどいことはそう起こらないみたいだね。鳥の連中の噂によると他の城では、女の浮気と男の裏切りは当然のことらしいからね。それで平和があるわけないさ」
 ゴシップ好きらしく笑って、鼠は言った。
「なるほどね」
 男も女も全ての者が主人に絶対服従する城、それはとても平和な城だろう。
「ねえ、暇だったらもう一度歌っておくれよ」
 暇でないわけないだろうとばかりに、籠の蝙蝠にねだる。
「いいですけど、その代わりこの籠を開けてくれますか?」
「そう言われてもね……。もし、あたしの仕業ってばれたら、城中で鼠狩りが行われちまうよ」
 鼠は困った様子で、肩をすくめて見せた。
「そこを何とか。ちょっと様子を探ったら、また籠に戻りますから」
 手の変わりに翼を合わせて、アデュースが頼み込む。
「わかったよ。その代わり、三日後に行われる娘の結婚式で歌っておくれ」
「喜んで」
 闇鼠はデミトリの机を器用によじ登ると、引き出しから籠の鍵をとりだした。
 それをくわえ、籠の側のカーテンから籠を吊るす鎖に飛びつき、籠の扉にたどり着く。
 カチャッと微かな音がして、扉が開いた。
 アデュースはするりと籠を抜けると、人間の姿に戻って腕を挙げて伸びをした。
「うわ、あんた実は大きかったんだねえ」
 闇鼠は、目を丸くした。

 モリガンが閉じ込められて一週間近く経過した。
 暇を持て余したモリガンは、ピアノを弾いたり、デミトリとおしゃべりしたり、彼の持ってくる本を読んだりして日々を過ごしていた。
 デミトリはモリガンのために、彼女が望む香水や化粧品などをそろえた。
 モリガンが化粧したとて、デミトリの他に見る男などいないのだが、やはり素顔でいる気にはなれなかった。
 きれいに化粧したモリガンを見て、デミトリは
「君は今日も美しい。特にその口紅の色合いが艶やかで、よく似合っている。まるで冷たい月光を浴びて咲く、薔薇の花のようだ」とか褒めるのだが、モリガンは内心で
「あなたのために化粧しているんじゃないわ」と思っていた。
 また一昨日は、モリガンは高価なダイアとルビーのネックレスを贈られた。金と銀の合金の台座に、デミトリの瞳の色のような鮮やかで深い色のルビーがはめ込まれ、そのまわりを無色の小さなダイアがかざる、とても美しいものだった。それで喜んで
「ありがとう」と頬にキスしたら、そのまま抱きすくめられ、ベッドに連れて行かれそうになった。それで
「まだ、いや」と言ったら、昨日はドレスを贈られた。
 贈り物攻めにして、自分を陥落させようという魂胆が見え見えだとは思ったが、プレゼントはありがたくもらっていた。
 この牢獄で自分が着飾っても、デミトリが楽しいだけだとは思ったが、モリガンは毎日、ドレスもアクセサリーも香水も化粧も、「今から舞踏会に行ける」という位に決めていた。
 それほど、暇だったのである。
 彼らが会話をするのはたいていモリガンの食事のときだった。デミトリが自らワゴンを押して彼女の食事を運んでくるのだった。
 その食事もモリガンが「グラタンが食べたいわ」とか「チョコレートボンボンをちょうだい」とか「ブランデーが欲しいわ」とか言うと、次の食事にはちゃんとそれが出てくるのだった。
「すっかり、召使ね」
 というモリガンの皮肉もさっぱり通じていない様子で、デミトリはモリガンが食事をするテーブルに向かい合わせに座って、食後のワインをご一緒しているのだった。
「美女を目の前にして飲む酒は美味い」とか涼しげな顔で言うデミトリに、モリガンは「本当は私よりあの扉に用があるんでしょ」と問いただしたが、最初の頃は「君以上に大事なことはないが?」と、はぐらかされ続けた。
 だが、やがて口を割った。それはモリガンをここに閉じ込め続けようという、決意の表れだったかもしれない。
「その通り。あの扉が私は欲しい。それで君に邪魔されたくなかったので、仕方なく君をここに閉じ込めた。かわいそうだとは思っているよ」
「ねえ、デミトリ。私は別にあなたの邪魔なんかしないわ。だからここから出して」
 モリガンは甘ったるい声で言ったが、男の返事は冷たかった。
「口先だけならなんとでも言えるからな」
「じゃあ、どうしたら出して下さるの」
「君が下僕となり、永遠に私に逆らわなくなるまで。さもなくば、死体となって出るほかはない」
 どちらもごめんだとばかりに黙りこくった、モリガンを見てデミトリは微笑した。
「退屈なら、刺激的なことをしてあげようかね」
 と、すばやくモリガンの手をとってその甲に口づけをする。
 モリガンの背をおぞましさを含んだ官能的な感触が走った。
「だから、やめてよ。こういうことは」
「なぜ、そんなに嫌がる。どうせここからは出られないのだ。ならばせいぜい地下牢暮らしを楽しんだらいかがかな」
「あなたも、一度抱いたら自分のモノと考える、愚かな男の一匹なの? ……手を放してちょうだい」
 聞こえないふりでデミトリはモリガンの手首をつかんだまま、もう一方の手でそれを撫でる。
「いい感触だ。だいぶケガも良くなったようだね。痣や傷も消えてきれいな腕だ」
 モリガンはその手を振り払った。
「私を力ずくでものにして、ただで済むと思っているの。アーンスランド家に宣戦布告する気だとでもいうわけ?」
 モリガンは腕で男をガードしながら、きっと睨みつけた。
「その通りだ」
「まさか……あなたじゃ、ベリオール様には勝てないわ。自殺行為よ」
「ご心配ありがとう。だが、君は知らない。あの『扉』を手にした者が魔界をも手中に収めるのだということを」
「それは、どういうこと?」
「私のものになったら全てを教えてやろう。だが、これだけは言っておく。いずれ、君が頼みとする魔王さえも我が手にかかって果てることになるのだ」
「何を莫迦なことを言って……んっ」
 デミトリはモリガンに強引にキスをすると、すぐさま後ろに下がった。思いっきり平手打ちをしたはずのモリガンの手は空をきった。
「それでは、また来よう」
 デミトリはすばやく、一枚目の扉の錠を開けて向こうへと滑り込んだ。
 モリガンが急いで駆け寄っても、すでに扉は閉ざされていた。
「莫迦……どうせなら最後までやりなさいよ」
 感触の残る唇を撫でてモリガンはつぶやいた。
 とりあえず、寝室に戻ってベッドに寝転がる。
「魔界の扉……もしかしたら、私が考えている以上にこの事件には裏があるのかしら」
 デミトリがベリオールに勝てるというのはあり得ないことのように思えた。
 だが、デミトリが何の根拠もなしに「勝てる」というはずもない。
 わからない……何もかもわからない。

 その日デミトリは執務室に掛かり付けの医師を呼び寄せた。何か体の不調でも、と問う医師に、彼は軽く手を振ってたずねた。
「女と遊ぶときに使いたいのだが、いい媚薬か催淫剤はないか? 相手の女に飲ませてみたいのだ」
 意外な質問をされて、医師は不審そうな目でデミトリを見た。が、事務的に答えた。
「催淫剤でしたら、手持ちで強力なものがございます」
 医師は鞄の中を探り、透明な液体の入った小瓶を取り出した。
「ほう、これか。何という薬かね」
「サキュバスの唾液でございます。彼女らが獲物を捕らえやすくするためでしょうが、淫魔の体液や分泌液などには強い催淫効果があります。これは男性に対して絶大な効果がありますが、女性にもよく効きます」
「……ふむ。これはサキュバス本人にも効くのかね」
 デミトリは眉をしかめて言った。
「は? おそらく効かないでしょう。いかに彼女らといえど日がな欲情している訳にもいきますまい」
 医師は冗談と受け止めて説明した。
「では、サキュバスに効く催淫剤というのはないのかね」
「あまり淫魔に催淫剤を投与するという話は聞きませんな。実験して見れば、キノコや草の中に効くのが発見できるかもしれませんが、どんな副作用が出るやら」
「……」
 デミトリは怪しいキノコを食事に入れて失敗した時のことを考えた。もし、腹痛や嘔吐などを引き起こして、「私を毒殺する気なの」と警戒されたら元も子もない。
 医師は考え込む主人に続けた。
「それに、彼女らがもっとも冷静なのは、男の床にいる時と申します。欲情はさせられても、それで好き放題できるかどうかはわかりませんな。むしろ、淫魔を欲情させたら襲われてミイラにされそうな気がいたしますが」
「それは、サキュバスにもよるだろう」
「まさか、媚薬を盛る相手というのは、あの魔界一有名なサキュバスではございませんね」
 医師も「魔王の後継者」を巡る騒ぎは知っていたのである。
 デミトリは一瞬返事につまったが、医師のその質問は無視して小瓶を手にとった。
「……わかった。では、これを貰おうか。支払いは月末に、他の薬の代金などと共にイライザに請求してくれ」
「では、こちらにサインをお願い致します」
 デミトリは薬を受け取った証しに万年筆で名を書いた。
「それから、使用上の注意ですが、女に盛る場合は一晩にひとさじにして下さい。男でも、同じくらいです。多く飲ませると、泥酔したのに近い状態になって、脳が麻痺し、意識不明になります。それよりさらに多くの量を与えると死ぬ場合もございます」
「ほう。では、サキュバスと何回もキスしたりすると、命が危ないのか?」
「理屈の上ではそうですが、普通は先に昏睡状態に陥ります。ただ、そうなるとそのまま夢魔に精気を吸われる可能性が高いですね」
「それでは、サキュバスを相手にキスする時は、舌をからめてはいけないのかね」
 医師はちらりと主人を見た。
「デミトリ様なら、そう何度もなさらない限り、意識不明にはならないでしょう。多少理性を失うくらいですむと思われます」
「そうかね」
 この前洞窟で体を重ねた時に随分燃えたのは、ひとつにはそのせいか。
 実に、油断のならない相手だ。たった三回のキスで意識不明になったりしたのでは、たまらない。
「それから、直接飲ませるほかに、香に染み込ませて、香炉で燃やし、その煙を嗅がせるという方法もあります。これは、乱交パーティーで使われることがあります」
 デミトリは、モリガンの部屋にある香炉を取り上げないと、うっかり部屋に入れないなと思った。
「それから、生物ですので、開封後はお早めにお使い下さい。説明としては以上でございます。他に何かご質問はございますか」
「いや、下がっていい」 
 独りになったあとデミトリは柄にもなくため息をついた。
 医師が怪しんでいる様子なので、つい買ってしまったが、どの女に使おう。
 モリガン本人には効かないだろう。そうだな、いつもおとなしいカミーユにでも飲ませて楽しむか。
 彼は小瓶を引き出しにしまって、もの思いに耽った。

 闇鼠のアンナの案内でアデュースは、夜こっそりと城のあちこちを探りに出掛けた。
 しかし、昔から城に住む鼠といえども、隠し扉の向こう側までは知らない。
 何しろ鼠の力では、隠し扉は開けられないのだ。
 デミトリが開けたときに一緒にもぐりこむというのも、見つかる危険が高い。
 ということで、アデュースは人間に戻っては隠し扉を開けて潜り込んで、迷路のような通路の地図を作っていた。
「また、ワナに引っ掛かりそうで嫌だなあ」
 などといいながら、手製のダンジョンマップに書き込んでいく。
 鼠も機を伺ってはデミトリの後をつけたが、地下牢へと続く通路の隠し扉はどうもひとつではないらしい。怪しい通路を探った所、延々と歩き回ったあげく、愛人の部屋に通じる扉に出てしまったりした。
 もっともそれはそれで収穫で、鼠はこっそりと愛人のソファーの下に潜り込んで愛人同士の会話などを盗みぎいた。
 しかし、それでわかるのはとりあえずモリガンがまだ吸われても犯されてもいないらしいということだけだった。
 そんなある夜、鼠と蝙蝠は死体置き場、つまり吸血鬼たちの残飯置き場で密談していた。
 ここは闇鼠たちの食事場所でもあった。アンナ達は死肉を糧としていたのである。
 ふと、ものの気配に気づいて振り向く。
 するとそこには、小柄な夜がらすが瞳を光らせていた。
 彼は漆黒の羽根に鋭い銀色のくちばし、枯れ木の枝のような足をしていた。
 その鴉は声を出さず、直接アデュースの頭の中に話しかけてきた。
「ヤレヤレ。苦労シタ。まきしもふノ城ハ、ハイリヅライ所ダ」
「君は何者だ」
「三日前、コノ死体置キ場デ君達ノ話ヲキイタ。主人ニ報告シタ。私ノ主人ハどーまノじぇだサマ」
 ジェダ……アデュースは驚いたが、確かに彼ならマキシモフの城に間者を放っていて当然、いや放っていない方がおかしい。しかし、まずいことを知られた。アデュースは警戒し、鋭い視線で鴉を見た。
「主人ハイッタ。でみとり、ジャマ。ダカラもりがんノ逃亡ニ、私、手ヲカス」
 その言葉にアデュースは驚き、その意図を探ろうと、鴉をまじまじと見た。
 
 そして、十日目。
 デミトリがいつものように食事を運んでくると、モリガンはけだるそうな様子でベッドに横たわっていた。
「最近、食欲がないの」
「おや、それはいけないね。私が食べさせてあげようか」
「そんなのより、あなたの精気が吸いたいわ」
「それは駄目だね」
「とっても美味しそうなのに」
 冗談とは思えない目でデミトリを見る。
「少しでいいから頂戴」
「少しで済ます訳がない」
「じゃあ、いいわ。その食事持って帰って」
「ハンガー・ストライキかね」
「そ。このままじゃ、私本当に死ぬわ。知っている? サキュバスを独りで狭いところに閉じ込めた場合、彼女は2日で死ぬの。退屈のあまり、ね」
「それでは、君が今日まで生き延びているのは私の訪問あってのことだな」
「……それはそうね」
 認めたく無さそうに言う。
「それでは、今日辺り私と刺激的な時間を過ごさないかね。退屈も紛れるし、いい運動にもなると思うが」
「嫌よ。それ位なら飢えて死ぬわ」
 モリガンはきっぱりと拒絶し、両者の間に少しの間沈黙が流れる。
「君が私と一夜を共にしたのは、君にとっては気まぐれの行為だったかもしれない。だがそれ以来、いや最初に会った時から、私は君が好きだ」
 その吸血鬼の声は低く、絹のしとねのような、艶のある柔らかな声。心の隙間に忍び込んでくるような、魔力のある声だった。
「貴方が好きになった女はどれだけいるのかしら。この城にいる愛人の数が知りたいわ」
 モリガンは、「やはりこの男には色気があるわ」と思いつつ、冷静に聞いた。
「たった四十名だ」
「四百年生きてるにしては少ないわね。暇を出された女は?」
「いないな。最近可愛がってやっていない女もいるが、捨てはしない。吸血鬼の下僕となった女に第二の人生などないからな。さすがに一度ものにした女に『死ね』と命ずるほどの憎しみを抱いたことはない」
 モリガンはそれを聞いて、彼の命令に絶対忠実な女達が、彼に憎まれることは確かにないだろうと思った。
「みな、あなたのしもべなの?」
「その通りだ」
「もし私があなたを好きだと言ったら、私のこともそうするつもり?」
「私のことが好きなら、私のものになるのは喜びではないのかね」
 モリガンは、やれやれという感じに首を振った。
「もちろん、私はただ単に自分の欲望から君と血の契りを交わそうとしているのではないよ。私は君を死なせたくない。美しい君があと200年の命なんて、あまりにも切ない話だ。私は永遠の命を君に与えたいのだ」
 デミトリの声は甘やかであり、誘いの内容も負けず劣らず甘美だった。
 モリガンは少し沈黙したが、やがてこういった。
「でも、実際に永遠を生きた吸血鬼などいないわ。皆、誰かに殺されて死んでいった。あなたが誰にも殺されないという保証などありはしないもの」
 今度はデミトリが沈黙する番だった。
 しかし、モリガンはぱっと表情を変えると、とびっきり甘い声で囁いた。
「喉に口づけをしないで、ここから出してくれるなら、あなたを魔王の座につけてあげてもいいわ。別に私はそんなものいらないんだもの」
「悪くない話だが、どのみち君をこの城からだすことは出来ない。君がベリオールに何も話さないという保証はどこにもないからな」
「私のことが好きなら、私を信用してよ」
 デミトリは少し冷ややかな目になった。しかしその言葉は相変わらず流暢だった。
「確かにこの部屋に閉じ込められているのは、君にとって辛いことだろう。それゆえに君が私を憎むのもわかる。だが、私は君を苦しめる目的で閉じ込めた訳ではない。だから私は君が楽しく暮らせるように、できるだけのことをするつもりだ。私は君を可愛いと思っているよ」
「それはつまり、私がこの部屋から自由の身として出る方法は、あなたを倒すしかないということね」
 モリガンはいいざま、デミトリに毛布をばっと投げつけた。
 そのまますばやくベッドから降りて、壁を後ろに身構える。その全身から瞬間的に殺気が吹き出す。
 顔にかかった毛布をばさりと下に落として、ゆっくりとした調子でデミトリは言った。
「そうか。君には紳士的に口説いたって効果がないのだね。ならば、力ずくで肉体に所有者の名を刻んであげよう」
 その声の変化は、柄や鞘を金銀宝石で飾り立てた剣が引き抜かれ、よく研がれた刃が姿を現すのに似ていた。
「正体を現したわね。けだもの」
 モリガンが構えたまま、ふんと睨みつける。
「もう一度聞こう。私に抱かれる気はないのかね」
「しつこい男ね! お断りよ」
 というと同時にモリガンは足先で、デミトリの急所の辺りを蹴り上げようとした。デミトリが気づいて後ろにとびのく。
 その隙にモリガンは身を翻して走りだした。
 すぐさま、デミトリも後を追う。
 モリガンは寝室から食堂に駆け込み、玄関の所までたどり着いたが、扉には堅く錠が降りていた。
「どうした。逃げられるとでも思ったか」
 デミトリのあざ笑う声が響く。
 モリガンは振り向いた。それと同時にテーブルを投げ付ける。
「頭に来るわね! いい加減その紳士面をやめて、本来の姿を現したらどうなの」
「お望みならば」
 テーブルを受け止め、部屋の隅に転がすとデミトリはバサッとマントを翻した。
 そのマントが見る間に翼に変じる。手足の爪と牙が長く伸びる。皮膚が青黒く変色する。
 色鮮やかな包み紙が燃えて、鉄の人形がその下からあらわになるような、一瞬の変化だった。
 その間にモリガンが姿勢を低くして、デミトリの向こう脛辺りを狙って突進する。
 デミトリが蹴ろうとするより速く、モリガンがタックルするようにデミトリの足にぶつかる。
 バランスを崩してデミトリが、背中から倒れる。急いで翼で受け身をとる。
 すかさずモリガンが腹の上にひざから飛び降りるようにしてのしかかり、首に右手をかけて締め上げる。と、同時に左手で思いっきり平手打ちする。
「うぐっ!」
 とデミトリの喉から苦しそうな声が漏れた。
「きゃああ!」
 しかし、次の瞬間悲鳴をあげたのはモリガンだった。鋭い魔物の爪がひと掻きで服を裂き、肉を抉ったのだった。
 デミトリはもう一方の手でモリガンの腕を掴み、それを首から外そうとしながら、続けてモリガンの左脇腹に再び爪を突き立てた。
「あうっ!」
 モリガンは左手でデミトリの腕を押さえようとしたが、その左腕の皮膚をデミトリの爪が裂いた。モリガンの腕から血が滴り落ちる。
 そしてデミトリは力ずくで、自分の首からモリガンの腕を引き剥がした。
「げほっ、げほっ!」
 デミトリの呼吸が整わないうちにと、モリガンが傷ついた左手の爪で、デミトリの目を狙う。が、デミトリが掴んだままのモリガンの右手を強く横に引いたので、モリガンは転倒し、デミトリの左肩に頬を強くぶつけた。そして、デミトリは右手でモリガンの二の腕を掴み、爪を食い込ませた。そのまま横に押しやるようにして、モリガンの体を床に落とし、転がってその体を自分の体の下に敷いた。
「いやっ!」
 モリガンが足をばたつかせるが、そのままのしかかられてしまう。
 デミトリは左手に力を込めた。
「うあっ!」
 モリガンの右手首に激痛が走った。
「たぶん、骨にヒビが入ったはずだ。このまま抵抗するなら、左腕も折る」
 デミトリが首を絞められたがための、しわがれた声で言う。
「う…」
 デミトリは呻くモリガンの右手首から手を離した。
 途端にモリガンはヒビの入った右手の指で、再びデミトリの目を突こうとした。
「小賢しい!」
 デミトリはその手を払いのけると、モリガンの左肩から鳩尾辺りまでの肌を爪で裂いた。そして、左腕にも爪を立て出血させた。止めに平手打ちを一発食らわせる。
「ついでに、足も血塗れにしてやろうかね」
「うぅっ」
 さすがに抵抗をあきらめたか、モリガンはおとなしくなった。
 モリガンの両肩辺りを押さえながら、デミトリは四つん這いに近い姿勢になった。
 そのまま見下ろすと、彼の目にモリガンの姿が敵ではなく、絵として映った。
 髪は乱れて床にうねり、目を閉じて苦痛にたえる表情はとても悩ましげで、服は胸元と脇腹の辺りを大きく裂かれて、乳房はむきだしになり、腰から臀部にかけてのくびれも露になっていた。何よりもデミトリをそそったのはいくつもの爪痕とそこから滲み出る血だった。
「このまま、ここで頂くことにしよう」
「何を……」
 怯えるモリガンの両脚の間にデミトリは自分の腰を割り込ませた。
「いやっ、いや…! 卑怯者!」
 モリガンはデミトリの肩を押しのけようとしたが、もはやささやかな抵抗でしかなかった。
「卑怯? 力で解決しようとしたのは君の方だろう。君は自分が勝ったら私をどうするつもりだったのだ? 力で挑んで負けたのなら、魔界の掟に従い大人しく食われるがいい」
 それはモリガンにとっても、絶対の掟だった。ただ、彼女はこれまで常に食う側だった。
 自分が恵まれし者であったことを、こういう形で実感するとは!
 押し黙るモリガンの傷口をデミトリの長い舌が嘗める。
 モリガンは絶望に眼を閉じた。

 ようやくことが終わり、デミトリは少し休んだ後で、軽く水浴びをした。
 乾いた布で体を拭いてから、戸棚の上の薬箱をとった。
 そして、泥の様に眠っているモリガンを浴室に抱えて行ったが、その傷痕は凄惨の一言だった。
 完璧な美しさを誇る肉体の背中、胸、脇腹に大きな爪痕が残り、白い肌のあちこちに咬み傷や引っ掻き傷があった。痣になっている所もあった。
 とりあえず、全身を冷たい水を含ませた布で拭いた。生傷のまわりにこびりついている血や唾液を拭う。だが、そのはずみでその傷からまた出血した。そっと布で押さえて血を吸い取らせる。
 太ももや尻に流れた体液も拭う。
 美女は愛でるものであって、傷つけたりするのはもってのほかだなどと語っていた男のやることではないな、と内心で自分のやったことを苦々しく思った。
 だが同時に、この自分によって満身創痍となった肉体こそ、愛でるに値するものかもしれないと女の無力を証しだてる傷を眺めて思った。
 そして、傷口は薬を垂らした綿で消毒した。
 薬が沁みたのか、モリガンは「う…」と呻いて薄目を開けたが、デミトリのしていることを見てまた目を閉じた。
 軟膏を擦り込むために肌と傷に触れると、再び蒼白い欲情の炎が身の内に灯るのを感じる。それは脚を開かせてこの場でもう一度、というものではなく、このまま血の流れ出す女の体を、丹念に撫で回したいというものだった。
 それが一度負かされたがゆえの復讐心からか、それとも支配欲や所有欲の変形したものかはわからなかったが、デミトリは薄く微笑んでモリガンの髪を手ですいた。
 どれほど痛かっただろうと想像して楽しみながら、さらに白い包帯を巻いていく。だが、それにも血の華が咲く。
 いい香りだ、と思う。血の匂い以上にデミトリを陶酔させる匂いなどない。このまま喉に牙を突き立てたら、どれほどの美味があじわえるのだろう。
 しかし、その誘惑をすんでの所で退ける。
 と同時に、彼は自分でも驚くほどに冷静になった。
 なぜ、このままこの喉に牙を突き立ててはいけない?
 もはや、自分とこの女の間に他の選択肢などないのではないか?
 自分が空から墜ちたモリガンを助けた時すでに、ふたりの運命は決定していたのではないか?
 魔界の扉のまわりでは、ジェダと自分が共にそれを用いての魔王への反逆の準備を進めている。
 そのことを知った魔王の養女をそのまま家に帰すことなど、どうしたって出来ない。
 ならば、自分が選ぶべき道は助けた時点ですでに2つしかない。
 自分の手で止めを指すか。自分に逆らわぬよう下僕とするか。
 殺さぬなら、道はひとつ。このままこの牢獄に閉じ込めていても、モリガンの精神が荒むだけである。それに独りで狭いところに閉じ込めれば二日で死ぬというサキュバスを二月、三月と閉じ込めるのは結局殺すことになる。
 一度力ずくで犯した以上、これ以降どうしたってこの女は自分に心を開くまい。
 ならば、片をつけるのは早い方がいい。その方がこの女も余計な苦しみや退屈を味わわずにすむ。
 悪く思うな……。
 デミトリはモリガンの上半身を抱え上げて、牙をむいた。

 次の日デミトリは彼の執務室で、不機嫌な表情で書類に目を通していた。
 モリガンに対する昨日の自分の行為について彼が感じているのは、いわゆる「罪悪感」ではなかった。
 吸血鬼である彼の一月の生は、十の女の棺桶の上になりたっている。
 閨の場合の話でも、女を嘘や金、権力などの強引な手段でものにしたことは、少なくはない。
 人間の場合にたとえれば、こんな話になるだろうか。ガチョウの丸焼きなどの鳥料理が大好きなくせに、きれいで珍しい鳥を何羽も飼っている金持ちが、ある日高い金を払って、色鮮やかで、鳴き声が特に美しいという鳥を買った。しかし何週間も気を使って世話をしたのに、鳴かない。あるとき腹を立てて鳥籠を思いっきりたたいたら、鳥籠は床に落ちて転がり、ショックで高価な鳥は死んでしまった……。
 デミトリは見終わった書類をぱさりと置いて、ほおづえをついた。
 こちらが手負いだったとはいえ、かつて自分を負かした女だ。手加減無しで闘うこと自体は当然のことだった。しかし、その後こともあろうに食堂で押し倒すという、理性のかけらもないような振る舞いに出たことについては、我ながら下品なことをしたと思う。
 そして昨日は結局気絶しているモリガンの喉に、牙を突き立てることが出来なかった。
 理性的に考えるなら、それが最善、いや唯一の選択だというのに、なぜ自分はためらったのだろう。あの女に惑わされたか? まさか。
 だが、手出しが出来なかったことに変わりはない。
 だから彼は今日は眠っているモリガンのベッドの側に、食事を乗せたワゴンを置いてそのまま逃げるように立ち去って来た。
 目が覚めたらあの女はどんな風に振る舞うだろうか。
 抵抗の無意味を知って自分に身を委ねるか。
 憎悪の目でこちらを見るか。
 絶望のあまり自殺するか。
 拒絶されて、その白い体を引き裂きたくなった時の凶暴な気分についてはよく覚えている。血の匂いを嗅いだ時の全身がぞくぞくするような甘い興奮も、肌の滑らかな感触がどんなに官能的だったかも、そして普段不敵な瞳に脅えの影を見て取った時の残忍な気分も。
 覚えている……というより忘れられない。
 苛立ちを感じて、トントンと指の先で机を叩く。
 落ち着かない。なぜか、落ち着かない。
「デミトリ様……お言い付けの通り、冷たいお水をお持ちしました」
 扉を半ば開いて、カミーユがグラスの乗ったトレイを手に立っていた。
「ここへ置いてくれ」
 机の上を指し示す。カミーユは静かにグラスを置いた。
 と、次の瞬間カミーユはデミトリに手首を掴まれて、抱きすくめられた。銀の盆が床に落ちて音を立てる。
「あ、デミトリ様……」
 いきなりの抱擁に戸惑ったカミーユの耳に、欲情に乱れた息が吹きかけられた。
「君はいつも可愛らしいな」
「……ここでなさるのですか?」
 カミーユが聞く。
「執務室ではさすがにな。さあ、寝室へ行こうか」
 机の引き出しから例の小瓶を取り出して片手に持ち、書類もそのままに女の肩を抱いて、デミトリは部屋から出た。

 その夜、死体置き場で蝙蝠、鴉、鼠の三者は柩の陰に隠れながら、城主の言動について語り合っていた。
「昨日、地下牢から帰ってくるのがやたらに遅かったし、今日は地下牢からすぐ帰ってきて、自室のベッドのカーテンの中に女を次々に引っ張り込んで出て来ないし、とうとう手を出しちゃったみたいだね。ふう。お気の毒なモリガン様」
 アデュースのおどけたような口調にそぐわず、その表情は暗かった。
「とうとう、あの旦那もサキュバスに取り憑かれてしまったんだねえ」
 アンナがうんうんという感じにうなずいて見せる。
「シカシ、ナゼ、モリガンデハナク、他ノ女ト寝ルノダ? オマエノイウ通リナラ、アノ男ハ夢魔ノ女トヤリタイハズダ。一度ヤレバイイノカ?」
 鴉のキースが首をくいと傾げる。
「わからないな。それは。昨日ベッドの上でどんなことが行われたか不明だからね。今日食事を運んで行ったということは、とりあえず生きてはいるということだけど。
 力ずくでやって、二度と来ないでといわれたから、ほかの女と寝ているのか、それとも、ケガをさせてしまって、これ以上無理をさせられないということなのか。それとも、モリガン様から誘って、デミトリ様に凄くいい思いをさせてしまったのか」
 アデュースは自分の主人の二面性を思った。正面切ってデミトリと闘い戦士の勝利を得ようとすることも、色香にものを言わせて誘惑して女の勝利を得ようとすることも、モリガンならありそうだった。
「ナゼダ? ヨカッタナラ、好キナダケヤレバヨカロウ」
 鴉の思考は他の二者に比べどうも単純らしい。
「あのねえ、鴉さん。それは男が女に骨抜きにされるってことなんだよ。ほら、女のことばかり考える男はだらしがないってね」
 鼠がおばさん特有の口調で言い聞かせる。
「ナラバ、コノママニシテオク方ガ、ジェダ様ノ利益ニナルノカ?」
「確かになるかもしれないね。しかし、デミトリ様も気の毒に。他の領主に女と何回やったかまで報告されちゃうんだものな。」
 アデュースはまたもため息をついた。
「領主タチノ色事ハ重要ナ情報ダ」
「そうだろうな。……ああいう状態になる男はこれまでにたくさん見たけどね。単に性欲が増すというより、性的な妄想が頭から離れなくなるらしいね。とりあえず、鴉はこのことを主人に報告した方がいいね。」
 こんなことがジェダに知られた場合、デミトリ様および彼に捕らわれているモリガン様の立場というのは、どうなるのだろうか、とアデュースは嫌な気分を拭い去れなかった。ジェダの出方によっては、モリガン様がいっそうの窮地に立つ可能性もある。しかし、ここで鴉を拒絶すれば救出の作戦が立てにくくなるのだ。
「夢魔に誘われたことをきっかけに、体調を崩したり、仕事ができなくなる男は多い。そして、その内にかき立てられた妄想と現実の差がどんどん露になっていって、もっともっとという飢えと焦りの中で、肉体と精神のバランスを崩す。…怖いね。」
 アデュースの声には百年以上もの長きにわたって夢魔の捕食に付き合って来た男の、男に対する絶望のようなものが滲み出ていた。
「そうだねえ。怖いけど、あたしもそのモリガン様とやらにお会いしたいねえ。どんな女か見てみたいよ。」
 アンナが恐れと興味の入り交じった表情で言う。
「その通り。何としてもモリガン様に再会しなくちゃいけない」
 蝙蝠は鼠と鴉を振り返って言った。両者はうなずいた。

第八章 オパールのブローチ

 デミトリはベッドの天蓋を見上げて息をついた。さっきまで寝ていた女はカミーユだったかマドレーヌだったか、などとぼんやり思いながら裸の上半身を起こす。
 女は帰され、今はベッドの上には彼だけだった。
 カーテンから手を差し出して、テーブルのガラスコップを取る。
 冷たい水で喉を潤すと、頭が少しはっきりしてくる。
 血の方がいいか、とも思ったがとりあえずグラスを干した。
 乱れて額に落ち掛かる髪をかきあげて、思い回らす。
 そして、そういえば、先程抱いた女たちの中に文字どおりの意味で「力ずく」で下僕にした者はいなかったな、ということに気づく。(金で買いとるのは彼にとって正当な手段だった)
 みんな彼に言い寄って来たか、彼の誘いに同意した者たちだ。
「闇の貴公子」と呼ばれる彼にとって、女は常に「苦労しないで手に入るもの」だった。
 もちろん、デミトリが「我が僕にならないか」と誘った全ての女が、彼の誘いに応じた訳ではない。
 夫がいるから、愛人じゃいや、吸血鬼の下僕は遠慮したいの、何となく気が乗らないわ、ごめんなさい好みじゃないの、などなどと断った女たちも多かった。
 そういう場合は、彼はあっさり引き下がって別の女を口説いた。
「しつこくしないのが御婦人に対する礼儀」というのが、彼の決まり文句だった。
 だが、実のところ、それは女に対する情熱がないだけの話だった。
 「いい女」など彼のまわりにはたくさんいる。それなのに、「この女でなければ」と思うような理由など彼にはなかったから、特定の女に執着などしなかった。
 カミーユの場合も彼女が「やはり婚約者を捨てられません」と言ったなら、「そうかね、それではお幸せに」とさっさと立ち去って、他の女の手を引いて踊っていただろう。
 いつから自分は「しつこい男」になったのだ? とモリガンのことを思い出して憮然とする。
 そういえば、と彼は思い出した。
 たった独りだけいたな。
 遥かな昔、彼がまだ少年の頃、「嫌」と言ったのに、血を吸われ、今もこの城で彼に仕えている女が。
 イザベラ。
 そう、彼女だ。
 かつて他の男の愛人だった、自分の片腕。
 デミトリは300年以上前の古い日々のことを回想した。

 デミトリには父親の記憶が無い。マキシモフ家当主の継承権をもってはいたが、幼い頃に近くのクロイツ家に人質に出され、彼が戻った時には父親は死んでいた。少年の頃、再び彼は兄の手によって人質に出された。今度はアーンスランド家。いわば、魔王が彼の師であった。
 強きものが己の一族にいないことを嘆いていた魔王は、一時期デミトリを養子にと思いもしたらしい。しかし、その話が固まらないうちにデミトリはマキシモフ家の当主となり、その後、彼に魔王の後継者はサキュバスの娘らしいという噂が伝わって来た。
 自分のものになったかもしれない玉座が、夢魔の小娘に投げ与えられたと聞いて、彼は内心で嫉妬した。
 しかし、彼はこうも思った。
 魔王の座を与えられなくても気にすることはない。いずれ実力で奪ってみせる。
 それは、「奪ったものこそが本当に自分のものだ」という吸血鬼特有の所有感覚によるものだろう。純血種の吸血鬼である彼にとっては、支配と被支配こそが最も理解しやすい関係であった。
 もちろん、デミトリの冷ややかさは、彼の生い立ちによる所も大きい。
 彼の母親は、反抗的な弟ではなく、落ち着きのある兄に期待をかけ、その兄を当主の座につけるべく奔走していた。
 しかし、その母親は恐らく彼の兄をも愛していなかった。
 そのことを今でもデミトリは確信していた。
 彼女の望みは権力だった。
 彼がそう信じる理由の中には、兄だけが愛されていたなどとはさすがの彼も考えたくはなく、また自分の母親なのだから、そうあって欲しい、というような彼自身の望みや恐れも多分にあった。
 実際には、人質生活の長かった彼はそう長い時間を母親と共には過ごしていない。
 そして彼の母親も、幼少の彼に露骨に冷たくあたるような女ではなかった。
 だから、今となっては彼が母親の真意を知る術はない。ただ、母親亡き後の周りの者の証言によって、彼女が二番目の息子を、いざとなったら切り捨てることのできるコマと考えていたらしいと推し量るのみだった。
 何しろ、母親が彼の兄にそう助言した結果として、デミトリは選りにもよって魔王ベリオールのもとへ、人質に行かされることになったのである。
 代々のマキシモフ家当主の隠された悲願は、魔王ベリオールを倒すことであるのに、だ。
 もし、兄かその息子がいつの日か、かねてからの願いどおりに魔王に反逆したら、自分は殺されるのだ。デミトリは己の一族の野心をよく知っていたから、人質に出された時点で死を覚悟した。
 魔王の城の城下町にデミトリの居場所と定められた館はあった。
 昔から使われてきた建物は、マキシモフ家当主の弟の住まいにしては質素だったが、必要な家具はちゃんと揃えられていた。
 まだ富や美や快楽というものに、さほど関心を抱いていなかった少年のデミトリには、高価な美術品が置いていないことや、豪華な家具がないこと、色気のある美女が住んでいないことは嘆くことではなかった。
 マキシモフ家に仕える数名の従者が、彼の世話をし、アーンスランド家に仕える数名の兵士が彼を監視していた。
 時々儀礼的に城での宴などにも招かれたが、よそよそしいアーンスランドの一族の顔など見たくもなかった。ただ、若いながらに彼は魔王ベリオールに対しては畏怖と敬意を抱いていた。反抗的な彼をして、さすがと思わせるだけのものが魔王にはあった。
 異郷で友人もいないデミトリは、日の多くの時間を読書と武芸の鍛練で過ごした。
 そしてアーンスランドの一族の者は、彼に対して反抗的で他者に馴染もうとしないという評価を下していた。

 そんなある日、彼は魔王の城のロビーで美しい女性に会った。
 彼女は蜂蜜色の金髪に、澄んだ青い瞳をしていた。整った顔立ちで、背は高め、胸は豊かで、手の指は長かった。かなりの美人だったが、華やかさよりも、落ち着きのある女らしさを感じさせる女性だった。
「あら、あなたは噂のマキシモフ家のご子息ですね。私はイザベラ・レムですわ。あなたのことはこの前のパーティーでおみかけしましたの」
「その通り、私はデミトリ・マキシモフですが、『噂の』とはどういう意味ですか」
 不審そうに聞く彼に女は優雅に微笑んだ。
「ふふ。……知りたいでしょう? なら、今度私のうちにいらっしゃいな。私は最近退屈なのですから」
「ご遠慮します」
 デミトリは女からの気まぐれな誘いとみて断った。
 どうせどこかの貴族の有閑夫人だろう。あるいは愛人か。
「聞かなくていいのですか? 『あいつはいずれ背く』というような「貴い一族」のあなたに関する噂ですのよ」
 デミトリははっとした。
 この女は陰でアーンスランドの一族にどんなことを言われているかを、教えてやろうと言っているのだ。
 それは是非とも知りたかった。
「……聞かせていただきたい」
 その言葉にイザベラはふわりと笑った。

 イザベラは、「魔界哲学者」と呼ばれるギルマン家の分家のレム家に生まれた。
 いわば、下の方の「貴族」である。
 かつては、一睨みしただけで相手を呪うことのできる「邪眼」を持つ一族として名高かったが、代を重ねるごとに魔力が衰え、現在ではその目もたいした力を持たなかった。
 彼女の母親は政治に優れ、趣味人の父親の代わりにレム家を取り仕切っていた。
 そのため、彼女は娘に早くから政治等についての英才教育を施した。
 しかし、母親の死によって、全てが悪い方向へと向かっていった。
 政治には無能な父親は、家臣たちの利権争いに踊らされて、家の財政を破綻させた。
 その後始末はギルマン家が引き受けたが、代わりにレム家の領地というものはなくなった。一族は散り散りになり、あちこちの縁者を頼っていった。
 まだ少女の年だったイザベラは美貌と家柄のお陰で、アーンスランドの一族のマリウスの愛人となることが出来た。だが、その境遇は彼女の本意ではなく、愛人となった最初の頃は、イザベラは夜にひっそりと泣くことが多かった。
 マリウスは最初は容姿が好みだからという理由で、イザベラを囲った。だが、彼女が女としては最高水準の教育を受けていることがわかってくると、徐々に自分の家の事を彼女に任すようになった。
 イザベラも、床のお相手や連れ歩くためのお飾りよりは、女執事として力を発揮出来ることを好んだ。だから、ちょっとしたパーティーを開くための物資や人員の手配などは彼女が引き受けることが多かった。
 しかし、マリウスはいつまでたっても、イザベラに雑用以上の仕事をさせようとはしなかった。
 イザベラはある晩訪ねて来た愛人に、ベッドで「もう少し難しい仕事をさせて欲しい」と頼んだ。
「イザベラ、確かに君の母親は優秀だった。でも、君の父親はレム家をおしまいにした人物だからね。その娘に重要な仕事は任せられないよ」
 イザベラは、マリウスが帰った後、裸のままベッドで声を殺して泣いた。
 彼女がデミトリに気を引かれたのは、そんな頃の話だった。

 イザベラの家は、街の外れにあった。小さな館で、女主人の手で小ぎれいに整えられていた。
 デミトリは優雅なティーカップに注がれた紅茶を、落ち着かなそうにすすっていた。
「あまり女の家にはこないのね」
「それも噂になっているのですか」
「見ればわかるわ。でも、女よりも本や武芸に興味があるらしいという噂は、聞いたことがあるわ」
「そうですか」
「ていねいな言葉を使う必要はないわ。まだ女に興味はない? 」
「どうでもいいという気がするので」
 もちろん、彼はすでに童貞ではなかったが、その体験は「やったことがある」という以上のものではなかった。
「あら、まだ恋をしたことがないのね」
「子供扱いだね」
 実際この女の方が自分よりも年は上だろうと、女の年はよくわからないながらも見当をつける。
「ごめんなさいね。きっと貴方が恋を必要としていないだけのことなのだから、それで大人とか子供とかいうのも変かもしれないわね」
「その通り。別に女がいなくても不自由はしていない」
「ふふ」
 イザベラは楽しげに笑った。
「そもそも、君は誰の女なんだ」
「私はマリウス・アーンスランドの愛人よ。その彼は、貴方に反感を持っているわ」
「別に恨まれる覚えはないが」
「あなたが、武芸や学問に打ち込んでいるのが悪かったのね」
「なぜ?」
「評判の学者、ガーシュ教授が貴方の家庭教師になったでしょう」
「……そうだが、それで?」
「マリウスは彼を息子の家庭教師にと願っていたのだけど、叶えられなかったの。ベリオール様が、これまでの貴方の先生達からあなたの優秀さについて話を聞き、優秀な生徒に優秀な教師を、とガーシュ教授を貴方の教師にしたのね」
「かなり優れた教師だとは思っていたが、そんなに評価の高い人物だったのか」
「そう。武芸の先生やダンスの先生も超一流よ。そして、そのお金は大半アーンスランド家から出ているの。もちろん、貴方の家からもそれなりの生活費がアーンスランド家に送られて来ているのだけれど、魔王の支持で教育費がかなり上乗せされているのよ。だから、アーンスランド家の一族の中から、金の無駄だと反発が起こっている訳ね」
「確かに、人質として来ている他家の子息に金を出すのは、私だって無駄だと思うな。なぜ、そんなことをする。恩を売ったつもりか」
「魔王様には、才能のある者を身分や血のつながりを問わず、好まれるような所があるわ。そういう話を聞いて、私も魔王のお気に入りの少年吸血鬼とやらに会ってみたくなった訳」
「……しかし、アーンスランドの一族に、そういう疎まれ方をしていたとは思わなかった。その通りなら、私が教育費を辞退すればよいのかな」
「それはやめた方がいいわ。何しろ魔王様のご厚意だもの。また高い教育はその個人の財産よ」
「人質に学があっても、たいした意味をなさないだろう」
 勉強熱心な割には、そんなもの無意味だとデミトリは矛盾することを言った。
「本当に人質で終わるつもりなの? 貴方がそれを望んでも、やがて貴方はマキシモフ家に呼び戻される可能性があるのよ」
「それは、その通りだろうな……」
 デミトリは現在の自分の当主継承権の順序が、たったの二番であることを思った。
「だから、アーンスランドの一族は貴方について噂をしているの。『敵に回すとなかなか厄介そうな相手だ』『彼がマキシモフの後を継ぐことがなければ良いが』とね」
「たぶん、継がないだろう。安心しているがいい、という感じだ」
「投げやりなことをいうわね。この境遇じゃ仕方のないことかもしれないけど。でも私はアーンスランドの一族が恐れる貴方が帰国後、高い地位についたら面白いな、と思っているのよ」
 滅んだ一族の末裔、将来に望みのない女はくすっと少年貴族に笑いかけた。

 その後、たびたびデミトリはイザベラの家に招かれるようになった。
 ある日、イザベラは部屋着に乳白色の石のブローチをつけていた。それは台座の細工こそ豪華だったが、石自体はまるで透明度の低い水晶だった。
「その石は石英(水晶とははっきりとした結晶を示す石英である)なのか」
「いえ、オパールよ。かつては、ね」
 デミトリは虹色のきらめきの見えない石を、不審そうに眺めた。
「でも、石英で正解ね。オパールは水晶の一種なのだもの。オパールの輝きは、石の中の水分によるものなのよ」
「割ると中から水が出るのか」
「ふふっ。違うわよ。細かいひび割れがたくさんあって、そこに水分が入り込んでいるの。だから百年もたたないうちに、石は乾いて光を失ってしまうの。……これはまだ少女のころに、お母様にプレゼントされた思い出の品なのよ」
 イザベラは少し悲しそうな表情になって、指でもはや輝かないブローチをまさぐった。
「そうか……」
 何を言ったらいいのかわからず、デミトリは黙った。
「でも、それで貴方まで暗い顔をする必要はないのよ」
 イザベラは軽くデミトリの額にキスをした。
「キスなら、唇にして欲しいな」
 デミトリは答え、イザベラは笑ってその通りにした。
 その日から何回か彼らは会う度にキスをした。しかし、その先にはなかなか進まなかった。
 イザベラはアーンスランドの一族の愛人。そして、デミトリはマキシモフ家当主の弟。
 それが深い仲になったら、かなり問題だ。
 また、イザベラが「女友達」でありたがる姿勢を見せていたこともあった。
 デミトリは内心では「年下のおれを従兄弟か弟のように、思っていないか?」と不満もあった。しかし、この関係がスキャンダルになったら、とても鬱陶しいとも思ったので、あえて手を出さなかった。「いい体だな」とふとした時に、思わない訳ではなかったが。
 そんな関係が崩れたのは、デミトリが外出した帰りに、少し遠回りしてイザベラの家のそばを通った時のことだった。
 暗闇の中で、イザベラは玄関に立っていた。男と抱き合いながら。
 デミトリも顔は知っていた。マリウス・アーンスランド。
 イザベラの正当な主人である。
 あわてて物陰に身を隠すデミトリの前で、マリウスを載せた馬車は走り去って行った。
 デミトリはイザベラが彼に気づかず扉を閉めるのを見て、そのまま帰った。
 最初からわかっていたことなのに、彼女が他の男のものであると実感すると、悔しいのは何故だろう。その夜デミトリは眠れなかった。
 それから数日間、彼はイザベラからの招きを待った。
 こちらから訪ねては行けない。マリウスと鉢合わせする可能性があるからだ。
 何日かぶりに会った女といつものように話をした後、彼は少し気後れしながら、こう言った。
「その……君はきれいだ。抱かせて欲しい。……もし、迷惑でなければ。」
 迷惑でないはずがない。魔界一の名門貴族の愛人としての地位を、捨てるはめになるかもしれないのだから。
 デミトリは後年の彼からすると、とても気弱に思える言葉で頼み込んだ。
 イザベラは微笑んだままで表情を止め、デミトリを見た。その目は笑っていなかった。
「……いいわ。」
 沈黙の後、デミトリを安心させるように、イザベラは笑い、柔らかく彼を抱きしめた。

 他の男の愛人であるイザベラとの関係は、それ自体未来のないものだったが、自分の将来に絶望に近い思いを抱いていた、デミトリの慰めになった。
 愛人暮らしの長いイザベラは、男に心身両面で奉仕する術を知っていて、若いデミトリの自尊心と情欲を多いに満たしてくれた。
 だが深い仲になってからの彼らの関係は、長く続かなかった。
 ある日彼らが、半裸でベッドで抱き合っていた時、マリウスに合鍵を渡された、彼の部下のエリックが入って来たのだった。
「やはり、こういうことでしたか。」
「何者だ!」
 デミトリは慌てて服を整えながら言った。
「エリック!」
 イザベラは全てを理解して、青ざめた。
「知っているのか。」
 デミトリは聞いた。
「私は、マリウス様にお仕えしているものでございます。ここへは主人の命で参りました」
 軽装の鎧を身につけたエリックは、慇懃無礼に答えた。
「マリウスは、私の浮気を疑っていたのですか」
 イザベラは胸元をかきあわせて言った。
「いえ。怪しいと思っていたようですが、マリウス様はそういうことは大目に見る気でした。監視がついていたのは、男の方です」
 デミトリの眉間に悔しげなしわが寄る。
「人質に監視がつくのは当然でしょう。デミトリ殿。貴方を見張る役目の兵士たちが、貴方が何度も彼らをまいて何処かへ行くので、隠密行動のプロに行き先を突き止めて欲しいと、申し出たのですよ。もし、アーンスランド家に対して良からぬことをしているのなら、大変ですからね」
「そして、探ったらこういうことだとわかった、と」
 デミトリはエリックを睨んで言った。
「その通りです。違う意味で見過ごしにできない、アーンスランド家に対する裏切りでしたね。おふたりの処罰は、後程マリウス様ご自身が帰られてから決まります。イザベラ様の処分はマリウス様が決められますが、デミトリ殿のは他のアーンスランド一族の者とも相談して決めねばなりません。ですが、おそらくこれはかなり重い罪になるでしょう」
「アーンスランド一族は間男に厳しいのか」
 デミトリは皮肉に言った。
「もちろん、スパイ容疑です。イザベラ様。まさかこの男にマリウス様をはじめ、アーンスランドの一族の情報を、全く話さなかったとおっしゃりはしませんね。たとえそうでも、誰も信じませんよ」
 エリックが嫌みたっぷりに言う。その言葉が終わるか、終わらないかといううちにデミトリはその顎を思いっきり蹴り上げた。
 不意をつかれ、エリックがバランスを崩すのを逃さず、みぞおちに拳をたたき込む。
 エリックが壁に背中を打ち付ける。彼の鎧ががしゃんと音を立てた。
 エリックが、近づくデミトリを狙って拳を繰り出す。それをかわしざま、兜を被っていない無防備な頭の毛を引っつかんで、壁に後頭部から叩きつける。
 さらに顎にもう一発お見舞いして、デミトリはイザベラを振り返った。
「逃げるぞ!」
 イザベラは一瞬躊躇したが、彼に続いた。
 デミトリは、イザベラの手を引いて往来に飛び出した。近くで馬車を拾う。
 それで郊外の森の近くの宿場町までひとまず逃げ、そこに宿をとった。
 だが彼らに行くあてはなかった。人質であるデミトリが勝手にアーンスランドの領地を出て、マキシモフ領に帰るのは、アーンスランド、マキシモフ両家に対する裏切りにほかならない。もしマキシモフの領地に足を踏み入れれば、魔王を要する一族の怒りを恐れた、彼の血族に捕らえられることは確実だ。
 ではどこに? ドーマの領地にでも、さすらい者として?
 そもそも、アーンスランドの領地から出られるのか?
 実際彼らに悩む間などなかった。
 人質と一族の者の愛人に逃げられた、アーンスランドの一族の追求は厳しかった。
 一夜明けると共に、彼らの泊まっている宿にも追っ手が踏み込んで来た。馬車で一日で行けそうな町という町に、追っ手は放たれたようだった。
 人相書きを携えて、兵士たちが宿の主人に質問をしている。
 それを見て、デミトリはイザベラを連れて、窓から逃げた。逃げるしかなかった。
 町中をうろつく、兵士たちの目を必死に逃れて、デミトリ達は森へと入った。
 襲い来る魔界獣をあっさりなぎ払い、彼らは森の奥の粗末な小屋にたどり着いた。
 それはそこらの木を切り倒して作ったらしい、丸太小屋だった。風雪に色あせた外見の割に、中の作りは手が込んでいた。本棚に並んだ本は一昔前の名作で、背表紙の文字はかすれていた。それらのことから、教養ある世捨て人が住んでいたのだろうと、デミトリは思った。
 ともかく、今夜はここで過ごすほかなさそうだった。
 デミトリは、イザベラとともに質素なテーブルに座り、井戸水を白い陶器の椀で飲んだ。 かなりの間、ふたりはこれからどうするかと話し合ったが、事態の打開の方法は見いだせなかった。
 アーンスランド家は、魔界最強である魔王ベリオールを当主とする一族。
 デミトリはそれを身一つで敵に回しての、己の無力が悔しかった。
 敵には、強大な権力がある。自分たちがいる小屋の土地も含めて、この辺りの土地全てがアーンスランド家のもの。街道という街道を兵士に見張らせることも彼らは出来、実際そうしているのだ。
 自分には何もない。強い魔力に恵まれ、多少武芸を学んでいたところで、女ひとりを自分のものとして守りきることも出来ないのだ。
 無力感に苛まれる彼の目の前で、イザベラはため息をついた。
「帰りたいわ。このまま逃げても惨めな思いをするだけよ。いずれ捕まるわ」
 デミトリに対し、優しくなだめるような調子で、イザベラは言った。
「あなたもこのまま逃げても、それはマキシモフ家当主の弟という地位を、投げ捨てることでしかないわ」
「帰るしかないのか。あの男に頭を下げに。ひざまずいて許しを請うために」
「貴方には辛いでしょうけど、このまま逃げても自体を悪化させるだけよ」
「そうなると、君には二度と会えないのかな」
「それは仕方がないわ。私はマリウスのものだもの」
 女は静かに微笑んでみせたが、デミトリはその言葉に逆上した。
「あの男には渡さない!」
 デミトリはイザベラの手首をつかみ、飛びかかるようにして押し倒した。
 イザベラの座っていた椅子が大きな音を立てて倒れ、床に転がる。
「いや、いやあっ」
 耳障りな悲鳴をあげて、あらがう女の頭を押さえ付け、首筋に力を込めて牙を突き刺す。「ひ…やめ…」
 牙を抜くと血が傷から溢れ、木の床に小さな血溜まりを作る。
 そこに唇を押し当てて、血を啜る。
 焦っているので味はよくわからなかったが、デミトリは流れ出す血をひたすら飲んだ。
 やがて、イザベラの体は冷え、顔色は雪を固めたように白くなった。
 頃合いだと思って自分の血を与えようとしたデミトリは、自分の手を見て、自分の姿がその本来のものにいつの間にか戻っていることに気が付いて、愕然とした。
 部屋の隅のひび割れた鏡に目をやる。
 血まみれの口に鋭い牙。背中には爪の突き出た、大きな蝙蝠のものに似た翼。全身の肌は青黒く、目は真紅に燃えていた。
 上品とも優雅とも言われぬ、彼本来の姿がそこにあった。
 彼は一瞬言葉を失ったが、次の瞬間、自分の腕に牙を突き立てた。
 そこから流れる血を、鋭い爪の生えた指でこじ開けた、イザベラの口に滴らす。
 しばしの時が経ち、自分の血が止まると彼は、その傷痕を長い舌で嘗め、すでに意識のないイザベラの血塗られた唇に接吻した。
 下僕となることを拒んだ女を無理やりそうしたのは、それが最初で最後。
 一夜明け、デミトリの魔力に呪縛されたイザベラは彼の「この先どうしたらいいか」という問いに従順な調子で答えた。
「引き返すのが、あなたの将来のためにはよいと思うわ」
 変わらぬ答えではあったが、その言葉からは昨日までの男をあやすような調子は消えうせていた。少し青ざめた男の前でひとり安らかな笑みを浮かべ、イザベラは言った。
「でも、すべてはあなたの望みのままに。私はそれに従います」
 冷たい水のような孤独感が彼のうちに溢れた。
 彼は今、得ようとした女を失ったのだった。
 しばし沈黙した彼は、歪んだ笑みを浮かべて言った。
「それでは戻ろう。すべては我が野心のために」

 森を出たところで、彼らが何者かを問わぬ怪しげな馬車を拾い、デミトリはイザベラとともに、魔王の城の城下町の外門を目指した。
 そこで門番に名乗ったデミトリを、兵を引き連れたマリウスが迎えた。
「待ち兼ねたぞ。この放蕩者が。さあ、私のお気に入りを返してもらおう」
「それは無理だな」
 デミトリは冷笑して、イザベラの喉を示した。
「この……貴族の子息だからといい気になって! 他の男のものに手を出したらどうなるかわからせてくれる」
 マリウスは無理やりイザベラをデミトリから引き離した。
「そいつを閉じ込めろ」
 デミトリは城の一室に監禁された。
 しかし、彼は妙に平静だった。人質である自分を殺すことは出来ない。ただ、この事件の結果、彼の兄が後始末に追われ、自分はマキシモフ家の名誉に傷をつけた好色な若者ということになるのだろうとは思った。
 だが、敵を作ることはもはや怖くなかった。周囲は敵だらけ。当然のことだ。
 その中で生き残るには……力だ。
 強くなりたい。
 彼は心の底からそう思った。
 一週間後、彼は外に出された。
 連れられて行った所は、なんと魔王の応接間だった。
 魔界中の贅沢品を集めたと思われるような、その調度の見事さに、彼はここには「力」があると感じた。
 ベリオールは何を考えているのか掴めない笑みを浮かべていた。
 その場にはベリオールの他に彼の「懐刀」たるアーミッシュとマリウス、そしてイザベラがすでに控えていた。
「少しは反省したかね」
「はい、私が愚かでした」
 自分の無力も顧みず女のために大騒ぎをして、と内心で彼は続けた。
「マリウス、彼もこのように反省している。若気の至りとして許してやる気はないか」
「魔王様のお言葉でしたら……しかし、私も大いに名誉を傷つけられたのですから、その償いはマキシモフ家当主殿にしていただかないと」
 デミトリは兄が自分について好意を抱いているという期待は持っていなかった。しかし、兄とてベリオールの一族の者を怒らせたくはないだろう。だから、何らかの賠償をすることはするだろう……。
 そんなデミトリの考えを魔王の一言が破った。
「デミトリよ。お前の兄は死んだ。戦場でな。母も毒殺された。寝室でな」
 はっ、と彼は顔をあげた。
 魔王は告げた。
「すんなりとはことは運ばないだろうが、今やお前こそがマキシモフ家の当主の座を一番に継承する権利を持つ者だ」
「私が……それでは?」
「そう。さすがにお前を人質として、このままこの城にとどめる訳にもいかない。すぐ帰れ。そして当主の座につけ。このことは先にマリウスとも話してある。イザベラは連れて行くがよい。もはやこの女の主はお前以外にない。その代わり当主としてちゃんとマリウスに償うのだ」
「はっ、かしこまりました。それでは私は帰らせていただきます。ご厚意感謝致します」
 その時、デミトリの胸の野心は冷たいものから、熱くたぎるようなものへと変じた。
 彼は続けた。
「もちろん、私としては当主の座に着いてからも、アーンスランド家に対して臣下として親密な関係を持ちたいと願っております。ですから、誠に申し訳ないのですが、私が無事に領地へ帰り、当主の座につけるようお力添えを願いたいと思っております。まずは、少しばかりの兵をお貸しいただきたいのですが」
 ベリオールはほほうという感じに笑った。
 彼は何かいいたげなマリウスを制し、こう言った。
「わかった。我が力を貸そう。吸血鬼の長として名を馳せるがよい」
「光栄に存じます」
 デミトリは深く頭を下げた。
 そして彼はイザベラを伴って領地に帰り、当主の座に着いた。
 数年もたたないうちに彼は冷酷で狡猾な領主として、周囲の貴族達に恐れられるようになる。
 権力の座に付くとともに彼の元には、彼の寵愛を得ようとする女達が群がった。
 彼はその中から選りすぐって、自分のまわりにはべらしていたが、300年の年齢の割に彼の愛人の人数は少なかった。短期間関係をもった女達の数は相当数にのぼるが、しもべとされた女の数は意外な程少ないのだ。彼はある貴族の男にこう語っている。
「一度吸血鬼にしたら、戻すことはできないのだよ」
 彼の「下僕にしたら、その後ずっと面倒を見る」という姿勢は、非常に女の受けがよく、彼のしもべとして一生を安楽に暮らしたいという女、一時期でもよいから彼の寵愛を受けたいという女は後をたたず、「私は無理に女を従わせている訳ではない。女達が喜んで私に喉を差し出し、体を開くのだ」というデミトリの言葉は、多くの者に真実として受け入れられていた。
 また彼は貴族の女を食用にすることはなかったので、身分ある女達は賞賛の意を込めて彼を「闇の貴公子」と呼んだ。
 そのような状況があったので、デミトリはモリガンに対しても、「大切にしてやろう」と囁いていた。
 が、「あなたのいう『大切にする』の前提は独占。そんなのごめんだわ」と断られ続けたのである。
 今の今まで、礼儀正しくしていたのは自信があったからだ。しかし、夢魔たるモリガンはおそらく男など愛さないだろう。
 ならば、力の行使あるのみ。
 デミトリはぐっと拳を握り締めた。
 彼自身は気づいていなかった。ずっと彼がモリガンに無理に牙を突き立てようとしなかったのは、少年時代にイザベラに対してそうした時に感じた、あの孤独感と喪失感がまだ記憶に残っているからだった。
 ……すべてはあなたのお望みのままに。

                   

第九章  ダイアモンド・リング

 デミトリは鉄のワゴンを注意深く押しながら、地下牢への通路を下りて行った。
 その途中の段差があったり、階段になっているところは、人並み外れた力でひょいとワゴンを宙に持ち上げ、それが帽子の箱でもあるかのような軽い足取りで降りていく。二段になったワゴンには、食事と大きな水瓶、箱型トイレの替えと下着を含む衣服の入ったカゴが乗っていた。
 牢の前につき、強固な扉と複雑な錠を次々に開けて行く。すでに慣れたことだった。
 デミトリは食堂と玄関の間のカーテンを開けた。食堂にはモリガンはいなかった。
 錠をしっかりと降ろし、ワゴンを押して寝室に行く。
 ベッドのカーテンは厚く降りていた。
 静かに声をかける。
「起きたまえ、モリガン。食事の時間だ」
「……いらないわ」
「飢え死にする気かね。ならば、そうするがいい。私としては君が死んでもよいのだ。魔界の扉は何としても手に入れる」
「……」
「ここで私の野望の犠牲になって、死ぬというならそれもいいだろう。だが、死んだら君にとって全てが終わりだ」
 モリガンは黙って、カーテンを引いた。
 包帯で巻かれた腕をのばし、デミトリからスープの皿とスプーンを受け取る。危なっかしい手つきだった。
 一日食事抜きだったため、モリガンは黙々と食べて残さなかった。
 何も言わず食器を返して、ベッドに横になって、デミトリに背を向ける。
「お行儀が悪いね、モリガン。こういう時は『ごちそうさま』だろう」
「……」
 ぱちん、と頬を打つ音が高く響き渡った。
「あっ!」
 モリガンが頬に手をあててデミトリを睨む。
「忘れてはいけないな。ここにいる限り、私が君の主人だ」
「……ごちそうさま」
 小さな声で言う。
「それでいい」
 満足そうに言って、すっとベッドに座ったままのモリガンを抱き寄せた。
 モリガンは反射的に身をこわばらせたが、逆らわなかった。ここで抵抗しても傷が増えるだけだ。
 デミトリは唇を重ね、舌を差し入れた。医師の言葉を思い出したが、自分が欲情して悪いことはないと思い、そのまま舌をからめた。長いキスの後、まだ身を固くしたままのモリガンの耳元で囁く。
「恐れる必要はない。抗わなければ、傷つけない」
 そう言って寝間着と下着を手早く脱がせる。まだ傷の癒えていない肌と包帯が露になる。
 モリガンは顔を背けて、されるがままになっている。
「私の顔を見ろ。これは命令だ」
 デミトリが強く言うと、ひどく無感動な目が向けられた。女の凍りついた瞳は、男を拒絶していた。
 彼女の感情としては当然ながら、デミトリはむっとした。唇の両端を吊り上げ牙を剥き出し、首筋をつかんで宣告する。
「もはや、君の命も君の体も私のものだ。心だけは自分のものと思ってはいけない。この牙でそんなものはいつでも奪える。ただ気まぐれで君に預けているだけのことだ」
 無言のモリガンに彼は命じた。
「わかりました。デミトリ様、と言いたまえ」
「わかりました。デミトリ様」
 その声は、ちょっと聞いたところ愛に満ち溢れているかのように甘かったが、デミトリの鋭い耳はその中に殺意に近いほどの怒りを聞き取った。
「……わかった。ならば見せかけの情愛や口先だけの服従などなくてもいい。こっちも勝手にやらせて貰う」
 言い捨てて、彼はモリガンの腰に手を回した。
「どうせ淫魔の君は抱かれれば感じるのだろう? 」
 その皮肉に、女は男の唇に人差し指を当てて言った。
「一緒に楽しみたいというのなら、その意地悪な口を閉じて頂戴」
「ほう。言葉でいたぶられるのには、慣れていないのかね」
「私は、ベッドの上ではあまり侮辱されないの」
 男の優位に立つことに慣れた美女は、ふっと笑った。
「なるほどな。ならば、ほめてやろうか」
 デミトリはくっくと笑った。嫌みを承知で甘く囁く。
「君は美しい。肌も滑らかで、寝床での声もいい、実に素晴らしい女性だ」
「そんな女を、モノにしている自分はさらに素晴らしい……といいたいのでしょう」
 モリガンの辛辣さに軽く眉を顰める男の胸に、女はしなだれかかった。
「言葉はいらないの」
 たくましい背中に長い腕をまわす。その指は優雅にそして淫らに彼の肌をはった。
「何も言わずに、して」
 目を閉じて、頬を冷たい肌につけてささやく。
 その挑発を文字通りに受け取って、デミトリはものも言わずにモリガンを押し倒した。

 銀髪を乱したまま、傍らに寝そべっているモリガンに彼は言った。
「望むなら、もう一度抱いてやろう。私が欲しいだろう?」
 モリガンはその声に、初めて自分を抱いていた男が誰だったかを思い出したように、デミトリを見た。
 物憂げに上半身を起こして答える。
「別にあなたが欲しいんじゃないの。でも、男の体は欲しいかもしれないわね」
 その言い方は、デミトリの甘い気分に水をかけた。
「男なら、誰でもいいのかね」
 皮肉に言う。
「最低最悪の男しかいないのでも、男がいないよりはいいわ」
 モリガンは、ふっという感じに微笑んでデミトリを見る。
「肉体欲しさかね。それに私がろくでもない男だと?」
 軽くモリガンを睨む。
「体目当てはお互い様よ。そして少なくともあなたは、他にたくさんの男がいるときには、私に選ばれなかった。それだからこそ、私をここに閉じ込めたんでしょ」
 冷ややかな笑みと手厳しい言葉。デミトリはカッとなったが、ここでひっぱたくのも、女の指摘の正しさを認めるようなものだと思って抑えた。
「君を閉じ込めたのは、君が余計なことを知ってしまったからだよ。しかしその冷めた調子からすると、『もう一回』はいらないな」
「そうね。それじゃ、さよなら。また次の食事の時にお会いしましょう。デミトリ様」
 モリガンはもうお互い用はないでしょうとばかりに微笑んで、デミトリを自分のベッドから降りさせた。

 その次の日の晩のモリガンの食事が終わった後、デミトリはさっさとモリガンを寝室に連れていこうとした。だが、「食後すぐはさすがにいや。食べたものを吐きそう」と言われてしまった。
 食堂での会話が弾まなかったので彼は、居間でピアノを弾いてモリガンに聞かせた。
 曲は甘い感じの夜想曲。
 手の大きい彼が爪先で軽く触れるだけで、ピアノは美しい音を奏でた。
「昔、教養として習ったにしては、上手いわね」
 さして感心したとも思えぬ口調で彼女は言った。
「お褒めいただき、恐縮だ」
「あら、そのダイアの指輪は新調したの?」
 デミトリの右手薬指には、大粒のダイアモンドの指輪が輝いていた。
「魔王陛下からの賜り物だ」
 モリガン争奪戦の残念賞のダイアである。
「ダイアがお好きなのかしら」
「好きだな。昔から戦士の護りとされた石だ。硬く、他の石では傷つけられないことから、『征服されざるもの(アダマス)』という言葉を名の語源にしている。これは君も承知だろう」
「ええ。でもあなたの指輪の石なら、アダマスより婆娑羅という名の方がふさわしいわね」
「バサラ?」
「人間界の『東洋』に行った時に知った言葉よ。元は仏教用語だったみたいね」
 モリガンはふふと笑った。
「ダイアモンドの名のひとつでもあるけれど、『一方的で強引』を意味する言葉でもあるわ。他に砕かれず、他を砕く。そのことからね」
「なるほどな……」
 デミトリは少しだけ唇を歪めて、笑って見せた。
「でも、ベッドの上では石のついた指輪は外してよ」
「中指ならともかく、薬指ではたいした危険もあるまい」
 といいつつ、指輪を外す。モリガンは「ちょっと見せて」と手を差し出した。
 その手に指輪を転がす。指にはめてみてモリガンは「やっぱりデミトリ、指太いわね」と言った。
「でも、このダイア、本当に上質ね。石自体が光を放っているよう」
「もらったダイアはほかにもある。おそろいの指輪を作ってやろうか」
「いいわ」と、モリガンはデミトリに指輪を返した。
「そのダイアはあなたが、その思い出と共に大切になさったら」
 魔王から賜ったダイアの思い出とは、モリガンに打ち砕かれた記憶である。デミトリは指輪を上着の内ポケットに入れながら、少し不機嫌な顔になった。「そうだな」と答えて、モリガンをぐっと抱き寄せる。
「もう、いいだろう」
「……いいわ」
 モリガンがうなずくと、デミトリはそのままモリガンを抱え上げ、ベッドへと運んだ。

 デミトリがモリガンと連日性交渉を持つようになってから、五日程が過ぎた。
 デミトリと激しく体を重ねた後、いつもモリガンは「終わったんなら、さっさと帰って」といわんばかりの冷ややかな態度をとった。
 だから、彼の方も、
「楽しかったよ。では、私は忙しいので、これで失礼する」
 とか言って、一度の交渉で寝室を出るのだが、その日彼女はこう言った。
「あら、もうお帰り?」
「忙しくてね」
「仕事? 他の女? そんなの忘れて、一日中いいことしましょうよ」
 寝乱れた姿のまま女は微笑んだ。
「…………断る」
「どうして? 気持ちいいじゃない?」
 とモリガンはすっと彼の方へ手をのばしたが、彼は後退りしてかわした。
「君は私を操ろうとでも考えているのかね」
「別に。独りでこの部屋にいるのが、つまらないだけ。あなたと一緒にいたいわ」
「その手で何百の男を堕とした? とにかく、今日は帰らせて貰う」
「あら、淋しいわ」
 デミトリはモリガンを振り返って、ちょっと言いよどんだ後、
「また、来る」
 とだけ言い残して去った。

 彼自身の執務室に帰ったデミトリは、書類に目を通しながら苛々としていた。
 書類は多く、彼がなさねばならぬことは山のようにあった。
 ガルナンが死んでからデミトリの仕事は、二倍以上に増えた。
 ベリオールを倒すためには、誰と協力し、誰を打ち負かし、どこの土地をとり、どんな物資や人員を確保すべきなのか。
 最終的判断をくだす者は彼以外にいない。
 なのに、ここしばらくは、彼が普段より長く女と時を過ごしているため、仕事は滞りがちで、その分イザベラや参謀のキーツたちが必死で働いていた。
 報告書を手にしたまま、ほおづえをついて考える。
 先ほどのモリガンの誘いは、どういうことだったのだろうと。
 冷静に考えれば、「淫魔の誘惑」以外の何物でもあるまい。
 地下牢に閉じ込められているモリガンにとっては、自分を手なずけたり、騙す以外に、そこから出るチャンスはない。なら、今モリガンが「貴方が好き」と言ったところで、それは寝首をかこうとしているのだと思うのが正しいだろう。
 しかし、「つまらないの」という彼女の言葉にも真実味はある。
 ならば、もう一回ぐらい体を重ねた所で、悪くはなかったのではないか。
「……などと、考える男はすでに、サキュバスに惑わされている……」
 と、デミトリはつぶやいて、自嘲の笑みを浮かべた。
 そうしながらも、つい先ほどのことであるモリガンとの行為を思い出してしまう。やはり、あの肉体はいい。彼女自身の具合のよさもさることながら、あの態度がそそりにそそる。
 モリガンは相変わらず彼との時に言葉を発しなかった。だから彼も言葉は使わない。
 闇の中で互いの肉体だけが睦み合う。聞こえるのは互いの喘ぎと、肉体のこすれ合いや打ち合いによって立つ音。
 話している時の冷ややかさと絡み合っている時の激しさの落差が、余計に彼を駆り立てていた。それでもう最近はほとんど会話もしないで、さっさと始めてしまっていた。女もそれを望んでいるようだった。
 ことの最中だけは、互いに求め合い、それぞれの存在を喜び合っているような気がする。いや、肉体面に限ればそれは事実だ。
 だが……。
 彼は舌打ちして、イザベラを呼びつけ、寝室にカミーユとマドレーヌを待たせて置くようにと言った。
 イザベラは何かいいたげだったが、彼女らを呼びに出て行った。

「デミトリ様……」
 寝床の中でカミーユが彼の名を呼んだ。
「どうした? 」
 滑らかな肩に指を這わしながら聞き返す。
 カミーユは彼の愛撫を受けながら、ひどく真剣な目で彼を見て囁いた。
「もしかすると、地下牢に閉じ込められている女性というのは、モリガン様ではありませんか」
「な…!」
 デミトリは驚いてカミーユを見た。
 そのことを知る者は、この城には彼以外いないはずであった。
 いかに彼の下僕たちが口が固いといえど、情報というのは何処から漏れるか解らない。だから閉じ込められている女の名は、側近にも伏せられていた。
「なぜそれを知った」
「匂いです。この前も同じ匂いがデミトリ様からしました」
「……鼻がいいな。マドレーヌ、部屋へ戻れ」
 デミトリは彼の背中に胸を擦り寄せていた女に命じて下がらせた。
 モリガンを抱いた後、体を洗わずに他の女をベッドに連れ込むようなまねをしたのは、自分の油断だったとデミトリは思い、勘の鋭さで知られる一族の女を見た。
「詳しくそう思った理由を話したまえ」
「私があの方の匂いをかいだことがあるのは、あの舞踏会ですれ違った時位のことですが、よく覚えています。その特徴はまず、香水です。今流行っているのは百合の花の香水ですが、あの方は薔薇の花でした」
「その香水をつけている女は他にいるのではないかね。そもそも、私が焚いている香も薔薇の香りがするが」
「あの香水、『薔薇のまどろみ』は最高級品で個性があります。それから、あの方の夢魔独特の体臭は、他の種族の女のものではありません。それを嗅いだものを陶酔の境地に引き込む、動物的で甘ったるい匂いは、どんな調香師もこれまで合成できなかったと言います」
 カミーユはそこで一旦目を伏せた。
「それにそう考えれば、デミトリ様の最近の言動の揺れも納得が行くような気がして……」「言動の揺れ?」
「機嫌がよくなったり悪くなったり、苛立ったり。特に地下牢から帰った後に。そして……ここしばらく、変に盛んでいらして……」
「よくわかった。カミーユ、君の勘の鋭さには脱帽する。その通りあの牢にはモリガンがいる。そしてこのことは絶対に秘密だ」
「仰せのとおりに」
 忠実そうに答えるカミーユをデミトリは、もう話は終わったとばかりに押し倒した。「他の女の匂いのする男に抱かれるのは嫌かもしれないがね」
「……いえ、デミトリ様。喜んで」
 女は一瞬切なげな目をしたが、求められるままに主人に体を開いた。

「まったくもう。デミトリ様も変に意地になって」
 その晩アデュースは地下道を探りながら、人間の姿で肩の闇鼠の話を聞いていた。
 地下道も下の方となると石組みの通路ではなく、天然の洞窟に手を加えたようなものになってくる。ひんやりと湿った空気が両者の頬を撫でる。蝙蝠の住処にふさわしいような場所だったが、元人間のアデュースには今ひとつこの静けさが好きになれなかった。
 闇鼠はベッドの下で盗み聞きしていた、デミトリとカミーユの話を彼に聞かせた。その中の「機嫌がよくなったり悪くなったり」という件を鼠から聞いて彼はため息をついた。
「どんなに手を尽くしたって、あのモリガン様が『あなたには負けたわ。本当に強いのね』とか『あなたを愛しているわ。ずっと一緒にいたいの』とか『あなたって凄くセクシーね。もう離れたくない』とか言い出す訳がないんだから、さっさとあきらめればいいのに」
「確かにその方がお互いのためかもねえ」
 とアンナが応じる。
「だいたい、始終サキュバスの体臭なんて嗅いでいたら、精神のバランスが崩れて当然なんだし。……でもこの場合あきらめるというのは、モリガン様に止めを刺すとか言うことになってしまうんだろうね。ふぅ」
 再びため息をついたアデュースの耳に、微かなピアノの音が聞こえた。曲はかつて自分がモリガンに教えた曲のひとつ。
 立ち止まったアデュースに、アンナが不審そうな顔をする。
「もしかしたら、デミトリ様はピアノ付きの牢獄にモリガン様を閉じ込めているのかな? ……優雅な男だね」
 独り言のようにつぶやき、アデュースは音のする方へと、耳を澄ましながら進んだ。

第十章 血赤珊瑚の首飾り

 ある日いつものように食事の後、少しだけ会話をして、デミトリはモリガンを寝室に連れて行った。
 さあ、とばかりにモリガンを押し倒そうとすると、彼女は「待って」と言った。
「もういいの。私の血をあげるわ」
 暗く、だが妙になまめかしい声だった。
「なぜ?」
「もうこんな生活は嫌よ。ここから出たいの」
 ねだるようなその声には、絶望の響きがあった。
 デミトリはその言葉に、閉じ込められたモリガンの辛さを思った。どことなく意外な気がしたのはここ一週間の彼にとってのモリガンは「自分に抱かれて喜ぶ女」だったからだった。
 しかし考えてみれば、彼女は望んでここにいた訳でも、抱かれていた訳ではなかった。それは当然のことだったが、行為中の態度でなんとなくそうではないように思っていたのである。
「退屈な牢獄から出る方法は、死体になるか、貴方の僕になるしかないというのなら」
 モリガンは憂鬱な声で言った。
「死ぬのは嫌。だから……貴方のモノになるわ」
「そうか。誇り高い死よりも、甘美な奴隷の日々を選ぶか」
 くい、とデミトリはモリガンのあごに指をかけて持ち上げた。女の瞳はひたと男を見つめた。諸悪の根源であるあんたに、卑怯者なんて言われたくないわ。それは、ひとかけらの誇りを示すようにデミトリには思えた。静かに微笑む。
「なに、悲しむことはない。一度我がものとなれば大きな安らぎと快楽を与えてやろう」
 そう言ってモリガンをベッドに寝かせる。
 仰向けに寝ているモリガンの、露になった首筋を撫でる。血の脈を感じる。ここに、頸動脈がある。
 次の瞬間彼の姿が変貌する。血に飢えた魔物本来の姿へと。
 舌舐りをして唇を濡らし、喉に押し付ける。舌で探り、狙いを定め、牙を深く突き立てる。
「あっ」
 苦痛にモリガンの体がはねる。だが、牙は外れない。唇を押し当てたまま、デミトリはそれをくっと抜いた。
 血が傷口から、デミトリの口の中へと溢れる。喉を鳴らしてそれを飲み干し、流れ出続ける血を唇で吸う。
 ……だいぶ喉が潤ってから、彼は自分の体がざわめくのを感じた。
 もちろん吸血の時は彼にとって最も興奮する時間だったが、何か違うものが意識に入りこんでくる。
 満たされていく心地よさではなく、体の奥から飢えが迫り上がってくるような、よく覚えのある感覚。 
 欲情している。
 デミトリは自分に驚いた。これは始終この女を抱いていたせいか?
 だがこの欲情の仕方は、かなり唐突で不自然だ。
 催淫剤でも飲んだような……まさか!
 デミトリは医師の「一番の催淫剤は、サキュバスの体液や分泌液」の言葉を、はっきりと思い出した。
 あの時はなんとなく、体液や分泌液とは汗や唾液、そしてあそこから溢れるあの液などのことかと思っていたが、考えて見れば血液も体液のうちなのだ。
 まずい、と感じた彼はとっさに指を、自分の喉の奥に突っ込んだ。
「おうっ」
 自ら飲んだ血をシーツの上に吐く。
 だが、すでにかなりの量が体中に回っているらしい。体の火照りはますますひどくなっていく。
「このデミトリを罠にかけるつもりで、喉を差し出したのか、モリガン!」
 モリガンは不気味に微笑んだ。それが答えだった。
 彼が血を吐き出している間に、モリガンはするりとベッドから降りた。
「最初、吸血鬼のあなたにも、夢魔の血が効くかは解らなかったの。でも、この前私の傷からの血を嘗めたあなたは、柄にもなく興奮していたわね。随分、乱暴してくれたじゃない」
「あれは君の血のせいか…!」
 デミトリは、呻くように言う。
「それだけでもないという気はするけどね」
 モリガンは距離を置いて、自分を睨むデミトリを見つめながら言った。
「あなたのお人形さんたちはともかく、血の熱い女は裏切るものよ。覚えておきなさいな、貴公子様」
 挑発的に微笑むモリガンを見て、デミトリは己を呪った。
 彼はここしばらくモリガンが誇り高く、頭のいい女だというのを忘れ、抱き心地のいい女だというようなことばかり考えていた。デミトリは自分が淫魔の術中にはまっていたことに気が付き、唇を噛んだ。
 モリガンはデミトリのそんな胸中を察して、嘲りの笑みを浮かべた。
「おとなしく抱かれていたのは、怪我がなおるまでの時間稼ぎだったのよ」
 ばさりと服を脱いで、白い裸身をさらす。
 下着は着けておらず、黒いハイヒールだけが残り、妙に淫靡な印象だった。
 そしてそのまま、デミトリの脇腹に蹴り込む。
 裸に気をとられてデミトリの反応が一瞬遅れる。
「うぐっ」
 かわし損ねてよろめくデミトリにモリガンが平手打ちを食らわす。 
 デミトリが拳を突き出すと、モリガンは素早くよけた。
「どこを見ているのかしら」
 モリガンの声が挑発的に響く。その声にデミトリは自分が闘いの最中だというのに、相手の揺れる乳房や、下腹の茂み、太ももなどに目を奪われていることに気が付いた。
「遅いわね」
 モリガンがいいざま、延髄に拳を打ち込む。
 デミトリはぐらっとした。
 彼は自分でも自分の体の反応が遅いのがわかっていた。ともかく闘いに集中出来ず、体も思うように動かない。
 だが負ける訳にはいかないとばかりに、右脚を蹴り上げる。モリガンは難無くかわした。
「えいっ!」
 モリガンはデミトリの右腕をつかんで、思いっきり投げ飛ばした。
 肩を押さえながら、素早くデミトリは立ち上がった。
 モリガンがもう一回投げようと近づく。逆にデミトリに鎖骨の下辺りをしたたか殴られた。
「痛いわねっ。」
 怒りに任せてモリガンはデミトリに、もう一度平手打ちをかました。
 見事にあたり、高い音が響いた。モリガンはもう一発とばかりに手を引いた。
 デミトリは次のモリガンの攻撃を警戒して、防御の姿勢をとった。
 それを見たモリガンは、とっさにしゃがみこんで、デミトリに足払いをかけて転倒させた。
 うつ伏せに倒れたデミトリに、モリガンは容赦なく蹴りを入れた。
 膝で、靴の爪先で、靴の踵で、すねで、足の甲で、腹や胸を集中的に攻撃する。
 苦痛に呻くデミトリの背中をヒールで踏む。動けなくなったのを見計らって、左足首をひねって足をくじかせる。
「ううっ。」
「勝負あったわね。」
 モリガンは勝ち誇った笑みを目元に浮かべて、デミトリを見下ろした。
 デミトリは屈辱感に苛まれながら、「そうだな」とつぶやいた。
「さあまずあなたには、全ての扉を開いて貰うわ。」
 モリガンは床にはいつくばったままのデミトリに言った。
「いやだ、と言ったら私を殺すのか? だが、私を殺せばどのみち出られない。君もここで死ぬ。」
「そうね。でも、このまま吸血鬼の花嫁になるよりも、私はあなたとの無理心中を選ぶつもりよ。」
「扉を開いた後で、君に殺される可能性もある。逃げられて殺される位なら、私も無理心中を選ぶな。」
 この期に及んでの冷静な判断にモリガンは、少しだけさすがと思った。
「私が約束を守って、あなたを殺さないという一縷の望みに賭けるのね。」
「実に信用出来ないが、それしか無さそうだな。」
 言い捨てて、足を引きずりながら次々に扉を開ける。
 その間にモリガンはもう一度部屋着を着直した。
 扉をすべて開け放つとデミトリは人間に似た姿に戻り、モリガンの肩に手をかけようとした。
「あら、何をするつもりなの。」
 モリガンはするりとかわして微笑んだ。
 デミトリはどうせこの女の血のせいだとばかりに露骨に言った。
「体が欲しい。」
「自分でなさったら?」
「君の血のせいだろう。」
「ふふっ。もっと飲む? 意識不明になれるわよ。」
「いっそ、最初からそうなっていれば、錠を開けることも出来なかったのにな。だが、今はそんなことより……。」
 と再びモリガンの腰の辺りを抱こうとする。
 モリガンは、またもかわしてこう言った。
「忘れたの? 今はあなたの方が立場は弱いの。私を抱きたいなら、そこの床にひざまずきなさいよ。」
 はらわたが煮え繰り返るような気がしたが、彼は膝をついた。   
 モリガンはベッドに腰掛けて、靴を脱ぎ、男の方へ足を伸ばした。
「さあ、私の足に口づけして頂戴。」
 デミトリはモリガンを刺すような目で見た。
「嫌だと言ったら?」
「この場で止めを刺してあげるわ。」
「扉を開けたのにかね?」
「ふふ。キスすれば殺さないわ。あなたの私に対する数々の無礼を、足を嘗めるだけで許してあげようというのよ。優しいと思わない? それとも、ここで死にたい? なら、あなたの野心もここで終わりね。」
「……。」
 デミトリは黙ってモリガンの足を手にとった。
 柔らかな足は彼の手にすっぽり収まった。軽く握ると弾力があり、撫でると軽石と化粧油でよく手入れされたその感触が、今の彼にはたまらないほど官能的だった。丁寧に紅を塗られたその爪先に口づける。
「これで満足かね。」
 足を握ったまま唇を離して、問う。
「ええ。」
 モリガンはデミトリの肩に腕を回して抱き寄せた。
「あなたの傷ついた顔、かわいいわ。本当にそそるわね。」
「なら、いいのだな。」
 デミトリはぐっとモリガンの肩をつかんだ。
「ええ。私を満足させて頂戴。乱暴にはしないでね。」
 その言葉が終わらないうちに、デミトリはモリガンの服を引きはいだ。
 そのまま後ろから抱いて、胸をぐっとつかむ。
「あっ……なに、がっついてるのよ。いかにもやらせろって感じじゃない。」
「不満かね。」
「もちろんよ。あなたは自分の欲望を満たすことより、私の快楽に奉仕することを優先すべきなのよ。」
 美しい勝者は男の方を向いて座り、その表情を目を細めて眺めながら、整った指で男の顔や首を撫でた。
「まずは淫らな口づけでうっとりさせて。その次に体のあらゆる部分を、その長い指と舌で愛撫して。白い肌のあちこちに、唇で紅の跡をつけて、そして・・・ふふ。続きはその時にいうわ。」
「細かい注文だな」男は苛ただしげに言った。
「あなたの前戯の技術を、高く評価しているのよ。」
「私をいじめて楽しいかね。」
「ふふ。もしこれまでに私が、あなたに愛に似たものを感じた時があるとするならば、それは満員の闘技場であなたに勝った時よ。私の目の前で負けたあなたが悔しそうにひざを折っている姿を見て、『結構、可愛いかも』って思ったの。」
「…………ふん。」
 デミトリはモリガンの背中に腕をまわし、指を唇にあてた。

 
 続けざまに三度激しく交わった後、デミトリは唇を横一文字に結んだまま、覆いかぶさるようにして、モリガンの唇に口づけようとした。唇を半開きにしてそれを迎えようとした瞬間、モリガンの直観が危険を知らせた。ぱしん、とデミトリの頬をひっぱたく。
 ごほごほっ、とむせてデミトリはシーツに血を吐いた。今の平手打ちでの出血にしては多い量だった。
「口を閉じてキスするなんて変だと思ったけど、こういうことだったのね。」
「……何のことだね。」
 デミトリは口ではしらばっくれたが、その瞳は失敗した悔しさを隠しきれなかった。
「とぼけないで。吸血鬼が他者を下僕とする儀式は、主となる者が、己が血を相手に飲ませることで完成する……。自分の舌の端か頬の内側を噛んで、その血を私に口移しする気だったのね。」
 モリガンは真正面から男の目を見て、言った。
「ごまかしても無駄のようだね。さすが、サキュバス。こんな時でも、いや、こんな時だからこそ男の表情の観察は怠らないということか。」
 デミトリは暗く笑った。そして、そのままモリガンの反応をまつ。企みが露見した以上殺されるだろうと思って。
「まあ、いいわ。途中だし。ともかく続けましょう。」
 モリガンはそう言って、意外そうな顔をするデミトリの頭を抱いた。
「その代わり、口はゆすいでちょうだい。そのままじゃ軽いキスさえ出来ないわ。」
 デミトリは言われるままに、差し出されたコップの水でうがいをした。
 するとモリガンはデミトリの顔を上に向けさせるようにして、唇を重ね、大量の唾液を男の口の中に流し込んだ。
「飲んで。」
 デミトリは、ぎょっとした顔になり、モリガンに不審の眼差しを向けたが、
「もっと楽しみましょうよ。」
 と言われ、そのまま飲み込んだ。
 するとモリガンは再び唇を重ねた。
「また飲んで。」
 仕方ないと言った顔で、喉を微かにならしたデミトリのまぶたをそっと夢魔が撫でた。
「お休みなさい。続きはあなたの夢の中でしましょうね。」
 デミトリは眠るまいとして一、二度瞬きをしたが、効果はなかった。
 続けざまの興奮と快楽のせいで、肉体よりも精神が疲労していた。
 そのままデミトリは眠りの闇に落ちた。
 そして、モリガンはぐったりしているデミトリの唇に指で触れた。
「ふふっ。美味しそう。ずっと食べたかったのよね。」
 彼女は紅の唇を男の唇にそっと重ねた。
 モリガンはデミトリの夢の中に、するりと自分の心を忍び込ませた。


 最初にモリガンが潜り込んだのは、濃厚な欲動の闇。
 ここはちょっと深すぎるわね、と周囲を満たす「飢え」を感じて思う。原初的であるがゆえに強い欲動に同調しないように、意識を引き締める。
 辺りに立ち込めるのは、ただただ「触れる」ことを求める気配。
 触れて気持ちよくなりたい。
 そこには、「手で」とか「舌で」とか「性器で」とかいう自分の肉体の「どこで」という意識もなく、「唇に」とか「乳首に」とか「性器に」とかいう相手の肉体の「どこに」という意識もない。
 もちろん、「掴む」とか「嘗める」とか「入れる」という「どうやって」もなく、「優しく」とか「荒々しく」とか「激しく」とかいう「どんなふうに」もない。
 この深さの欲望には「認識」というものが決定的に欠けているため、混沌たる闇としてしかモリガンには感じられない。
 だがどろどろと渦巻く言葉にならない飢えは、モリガンの心の奥にある同じ闇を揺さぶる。
 長居したら、自分が誰かを忘れそうだ。
 モリガンは「上」を目指して、ゆっくりと心の海を泳いだ。
 やがて欲望の闇が生々しく蠢く辺りに到達する。
 その辺りに漂うイメージの断片を見やって(映像として受け取って)、随分いやらしい光景ね、とモリガンは心の中でつぶやく(デミトリの精神世界にその言葉が情報として伝わらないようにしつつ言葉で考える)。実はそんなもの(精神世界における様々な性的空想)は見慣れたものなのだが。
 もしこの言い草をデミトリ(の自我)が耳にしたら、「勝手に他者の精神の中に入り込んで、わざわざ性的な部分を覗き見して、『いやらしい男ね』とは侮辱も極まる」と言うだろう。
 でも、この際あなた(デミトリ)の優れて上品な部分や、磨かれた美意識などには興味はないわ。……サキュバスの特殊能力は男の「いやらしさ」を前提にしているのだもの。
 それは、肉食獣が獲物の柔らかいお腹を狙って、鋭い爪で内蔵を引きずり出すようなものだ。
 相手の心の最も脆い壁を壊して、その傷口から溢れる精神力をいただく。彼女ら夢魔が淫魔であるのは、多くの者の弱みはそこであるからだ。心の隙につけ込みそのリビドーを自らの力とする時こそは、モリガンが自分の種族を心から楽しむ瞬間。
 この種族の女として、長いこと暮らしていると、本当、「愛」も「恋」も遠くなっちゃうわね。
 と、モリガンは(モリガンの)心の中で(モリガンのイメージする)デミトリに語りかけた。
 モリガンはあえて自分の身を小さくして(意識を探索のみに専念して)あちこち(精神世界内の情報や仕組み)を調べまわった。
 自分のセクシュアリティを、そんな風にして調査されたことをデミトリが知ったら、激怒するに違いない。
 だが……自分の調べていることの下世話さに、自分でも苦笑しながらモリガンは思った。秘密にして置きたいことだからこそ、その秘密を暴くことが相手に対する攻撃になる。
 さあ、デミトリ、その心の中のもっとも柔らかく、繊細な部分にまでメスを入れてあげるわ。夢を通じて心を引き裂く魔物−サキュバスのみが味わえる残酷な喜びに胸をときめかせながら、モリガンは普通の女性が知ったら一夜で男性不信になりそうなデミトリの記憶や白日夢を調べ上げてゆく。
 これまでの経験だともう少し横にずれると、性的な事柄に関する記憶が集積されている場所に行けるはず。けど、この際それはいいわ。
 デミトリの記憶を調べて、デミトリの愛人たちの顔を見るのも面白いかもしれないけど。あ、いっそのこと四百年位前の古い記憶を検索して、初体験というのがどんなものだったか調べて、後で「やっぱり最初は下手だったのね」といじめてあげようかしら。
 でも、デミトリの記憶の中でも、自分(モリガン)に関する所はしっかり把握して置かないとね。
 そう思いつつ、精神の中での場所を移動し、デミトリの記憶の中で自分(モリガン)に関するものを引きずり出す。
 この場合に重要なのは「何をしたか」ではない。「何を考え、感じていたか」である。
 こんな能力を持たぬ普通の女にとっては、「男が何を考え、感じて自分を抱いていたか」は永遠の謎である。男はたいてい語らぬものだし、よしんば「教えて」と迫った所で本心は明かさない。そもそも言葉で正確に表現出来るものではない。
 体を重ねようとも、互いの心の中は闇なのだ。
 しかしモリガンは「男にとっての自分の胸の感触」というようなある意味不気味な記憶まで、探り出すことができる。
 モリガンはしばしその作業に没頭した。
 悪意、所有欲、憎悪、欲情、独占欲、執着、征服欲、屈辱感……。特に最近のデミトリの記憶には必ずと言っていいほど「モリガン」の名にダークな感情がからまる。
 慣れたこととはいえ、こういう感情が自分に向けられていることを実感するのは気持ちのよいものではない。
「はあ。ロマンティックな恋がしたいわね。」
 つい、愚痴る。デミトリの視点からの記憶なので、だんだん自分がとても美しいが、高慢で淫乱で身勝手な女に思えてくる。
「モリガンって酷い女ね。」
 モリガンはつぶやいた。その独り言にデミトリの記憶の中のデミトリが、「全くその通りだ」とうなずく。モリガンはデミトリ(の意識の一部)と意図せざるコミュニケーションをとってしまいそうな「独り言」はやめよう、と思った。
 しかしモリガンはとうとう「どこかにあるはず」と思っていたものを探り当てた。
 その「想い」を自分のものとすると(共感し、記憶すると)モリガンはくすりと笑った。それは、男の心を狙う妖しい夢魔の笑みだった。
 モリガンはそこでひとまず記憶を探るのを止め、イメージの海を泳いだ。

 蒼白となったデミトリの唇から、モリガンはゆっくりと唇を離した。
「いい夢だったでしょう? 約束通り、命まではとらないであげる。ただ、しばらくベッドから動けないかもね」
 深すぎる眠りの中にいる男に囁きかける。
 それからモリガンは、デミトリから貰った服の中から、逃亡用に地味なドレスを選び出した。さらに資金としていくらかのアクセサリーをドレッサーの引き出しから持ち出す。単純に資金としてではなく、気に入ったものもいただいていこうとモリガンは思った。たとえば、赤と紅のアーブル模様の珠を連ねた血赤珊瑚の首飾り。彼の望みがよくわかる品だが、モリガンは好きだった。
「モリガン様……お支度は済みましたか。」
 少し前から控えていたアデュースが声をかける。
 彼は数日前にモリガンの部屋を見つけだし、扉を開けられないながらも、大声をあげてモリガンと連絡をとっていた。今回の逃亡は彼との相談の結果でもあった。
「済んだわ。逃げるわよ。」
 そう答えて、モリガンはベッドの下から大きさの割に軽い袋を取り出して、アデュースに投げた。
「それも、持っていって。」
「何ですか? これ。」
「私の血のついた包帯。」
 アデュースは一瞬ぎょっとしたが、こういった。
「サキュバスの血ですか。役に立つかもしれませんね。」
 最後にベッドで眠り込むデミトリを振り向き、
「さよなら。結構楽しかったわよ。」
 と言い残して、7枚の扉をモリガンはくぐった。

 アデュースの案内で、城の外へと通じる道を彼女はたどった。城壁のすぐ外側に、ジェダの部下のからすの用意する馬車が待っているはずだった。モリガンはろうそくを一本直接握り、石の道を右へ左へと曲がりながら進んだ。
 と、いきなり何者かが天井から落ちるようにモリガンに飛びかかって来た。
 不意をつかれたモリガンは、辛うじてかわしたものの、ろうそくを湿った岩に落とした。
「ここは、通さないわ。。」
 カミーユがそこに立っていた。彼女は背筋をピンとのばし、闇でも見える目を真っすぐモリガンに向けていた。
 カミーユはデミトリがモリガンのことばかり考えているので気になって、せめてその牢獄だけでも見ようと思って地下に降り、当のモリガンに出会ってしまったのだった。
「あら? あなたは誰だったかしら?」
「カミーユ様ですね。まずあなたでは、モリガン様にはかないません。お引き取り下さい。」
 アデュースはそう告げて蝋燭を拾い上げた。
「カミーユ? ああ、デミトリの女のひとりね。どきなさい。」
 モリガン・アーンスランドの迫力の前に、カミーユは我知らず一歩下がった。
「どくわけにはまいりません。貴方様を逃がしては、デミトリ様が悲しまれますもの」
「悲しむ? 悔しがるだけでしょ。どうせあの男は、自尊心と肉欲だけで私を欲しがっているんだから。」
 モリガンのいいようにカミーユは一瞬怯んだ。
「さあ、どきなさいな。力づくで通るわよ。」
 モリガンがかつんと音を立てて前に出たその時、カミーユは素早く動くと共に大きく翼を広げた。
「あら、なかなか立派な羽根ね。それがあの男に忠誠を誓った証しという訳ね。」
 モリガンは笑みを浮かべたままさらに前に進んだ。そのモリガンをカミーユの右の翼が襲う。狭い洞窟内ではかわせず、モリガンはその翼を手で受けた。翼をつかんだ手に激痛が走る。
 モリガンはその翼を両手で握りしめたまま、ぐっと右後ろにひく。カミーユが右側によろめく。と同時に彼女のもう一方の翼がモリガンを襲った。モリガンは、翼を離さず、身をかがめてそれをかわし、しゃがんだままキックをカミーユの足元にお見舞いした。
 そのまま、転倒するカミーユの翼を持ったまま、モリガンは背中を踏み付けた。
「あうっ……。」
 背中から降りて、一発脇腹をけり飛ばして、モリガンはカミーユの体を踏み越えて、洞窟の出口に向かった。アデュースがそれに続く。
 だが、角を曲がろうとした時、モリガンの後ろから彼女の頭の大きさの二倍はあるような岩が飛んで来た。
 とっさにかわして振り向く。
 カミーユが片膝をついた姿勢で、こっちを見ていた。
「やはり、あたらないわね。」
 そうつぶやく女吸血鬼の瞳は悲しげだった。
 モリガンは笑みを消した。
「殺されたいの?」
「いえ、ただ……。」
 モリガンは落ちた岩を拾い上げて、構えた。
 そのポーズは十分過ぎる威嚇でカミーユは震えた。
「別にあなたのご主人様が、あなたに今闘えと命じた訳じゃないわ。あなたは余計なことをしないで、自分の体を大切にしていればいいのよ。」
 モリガンは岩を片手で持ったまま、カミーユの方に進んだ。
 モリガンの唇の両端が、くいっと吊り上がる。
「ふふ、あなたはデミトリのお気に入りの、おもちゃのひとつなんだから。」
 ぽんと岩をカミーユに投げてよこす。
 慌ててそれを受け止め、両手のふさがったカミーユの、肩の辺りをヒールでけり飛ばす。
 石の重さにバランスを崩して、カミーユが冷たい洞窟の床に、伏せるように倒れる。
 モリガンはそのカミーユを、ヒールのかかとでざくと踏んでから、胸倉をつかんでびしばしと往復ビンタをかました。
「弱い者はおとなしくしてなさい。」
 そう言い捨てて、モリガンは再びその場を立ち去った。モリガンとアデュースが角を曲がってしばらくしたとき、護身用の呼び子の音が高く響き渡った。


 モリガンはヒールの高い靴を両手に握った。アデュースは蝙蝠の姿へと変じた。
 カミーユの吹いた呼び子の音は、おそらく警備の者の耳に届いただろう。
 ぐずぐずしてはいられない。せっかく逃げ出したのに、捕まってはたまらない。
 両者は城の外壁へと通じているはずの、洞窟の通路を駆け降りた。
 その外壁の脇には、ジェダの手下たる鴉が馬車を止めているはずだった。
 だが、もう少しで洞窟から出られるという時に、脇の道の奥からどやどやと大勢の声がした。
「見つかりましたね。」
 アデュースは小さな声で言った。
 しかし、モリガンはかまわず進んだ。
 もはや引き返せないのだ。

 きいん、と高い音がした。モリガンを狙った追手の剣は洞窟の壁を削った。
 武器がなかったので、モリガンは近くに落ちていた鍾乳石をひっつかんで、男の喉元に突き刺した。
 倒れた男の手から剣を奪い取ろうとかがみこんだその時、男のもう一方の手が、モリガンの喉をつかんだ。
 そうか、こいつらも吸血鬼!
 モリガンは男の手を思いっきりもぎ離して、剣を奪い、男の両手をひじの辺りで切断した。
 一歩離れて、様子をうかがう。男たちの防具は軽装だったが、肩と胸−特に心臓のあたり−と頭、腰と腹、そしてひじ、ひざは守られている。
 これは、ケガをさせて戦闘不能にする位がせきの山ね。
 デミトリの精気をたっぷり吸った後とはいえ、貧血から完全に回復したわけではない。
 モリガンは、アデュースを振り返った。
「持って来たアレ、燃やして」
 モリガンは、剣を構えた。
「さあ、いらっしゃい」
 アデュースは洞窟の天井近くのくぼんだ所に、持って来た袋の中身をあけた。
 それは、モリガンの血の染みた包帯だった。かなりの量がある。火をつけると乾いていた包帯は一気に燃え上がった。
 モリガンは火を流し目で確認して、近くの男と剣を打ち合わせた。
「何をする気だ。この洞窟を煙で満たして。めくらましのつもりか」
 と男は怒鳴った。
 一二度剣を打ち合わす。その間にモリガンを取り囲むように、男たちが集まって来た。
「えいっ!」
 モリガンは剣を鋭く突き出して、鎧の肩の継ぎ目辺りを狙った。
 その時、別の男が後ろから、彼女の頭上に剣を振り下ろした。
 とっさに交わしたが、その剣は彼女のスカートを大きく裂いた。
「あら、いやらしいわね」
 モリガンは脇にとびのいて、艶やかな笑みを浮かべた。
 だが、飛びのいた先にも別の男がいて、モリガンにつかみ掛かって来た。
 それを剣で振り払うが、囲まれた状態では時間稼ぎにしかならない。
 ついにモリガンは地面に引き倒され、喉元に剣を突き付けられた。
 モリガンは、アデュースの煙が、辺りに立ち込めていることを確認して言った。
「いやよ、殺さないで」
「そういうわけにはいかない」
「あら、あなたたちの主人は私を殺せと言った? 私を勝手に殺したら、デミトリが怒るんじゃない?」
 男たちは顔を見合わせた。確かに殺せとまでは言われていない、というより主人たるデミトリはモリガンのおかげでいまだ意識不明だった。そして、呼び子を吹いたカミーユが警備兵たちに告げた言葉が正しいならば、この女はモリガン・アーンスランド。こともあろうに魔王の養女に、あっさり止めをさしていいものだろうか。
 彼らが戸惑っている間に異変が起きた。
 男たちはその手から剣を落とし、次々に倒れた。
 倒れた男たちを見回して、モリガンはゆらりと立ち上がった。同時にドレスの胸元を引き上げて、アデュースを見上げた。
「全部使っちゃった?」
「仕方ないですよ。この広さですから」
 サキュバスの血液には催淫作用がある。だから、唾液などと共に、その血を染み込ませた布や香も催淫剤として使われることがある。そして、その煙の濃度が一定以上に達すると、血液に含まれる脳の理性的な部分を麻痺させる成分が、脳のもっと広い領域を侵し始め、やがて煙を吸った者を意識不明にするのだ。
 当然ながら、夢魔本人と、アデュースのように長年夢魔と行動を共にしている者には効かない。
 モリガンは、デミトリに使おうと思って、自分の血のついた包帯をこっそりためていたのだった。
「さあ、逃げるわよ」
「何か、また別の追っ手が来そうで嫌ですね」
「来るに決まっているじゃない」
 モリガンは明るいとさえ言えるほどの声で言い切った。

 追手をかわしつつ、ようやくモリガン達は城の外壁の、二本の木に隠された扉から出た。
 鴉が用意しているはずの馬車を探して辺りを見回すと、連絡通り金色の房飾りを屋根の端から下げた馬車が停まっていた。
 しかしその馬車は、すでに不審な車両として尋問を受けていた。
 モリガンたちは出るに出られず、木の陰から見守った。
 そのジェダの部下は弁舌巧みだったらしく、警備兵は一旦引き返したが、それほど遠くない辺りで警備を続けていた。
「そっと近寄るしかないわね」
 モリガンはつぶやき、アデュースに蝙蝠の姿になるようにいった。
 彼が変じると、モリガンは小さくなった彼を服の胸元に隠した。
 そして、モリガンは素早く、馬車に乗り込んだ。
「すぐに出して」
 モリガンの言葉を待たずに馬車は走りだした。
 デミトリの城を振り返り、モリガンはこの馬車の「代金」のことを思った。
 今回の逃亡に手を貸す代わりに、ジェダが交換条件として持ち出したのは、「扉」のことを話さないことと、家に帰った後、魔王にデミトリに誘拐、監禁されたことを訴えることだった。
 モリガンとしは、何もなかったことにしたいような気もしたが、
「それによって、あの男が困った立場に追い込まれるなら、喜んで逃亡に協力しましょう。あなたとしても、彼には恨みがあるはずです」
 というジェダの言葉を部下経由で伝えられ、そうすると約束したのだった。
「帰ってからが、厄介だわね」
 その言葉は服に隠れている蝙蝠に向けてつぶやかれたものだったが、一緒に乗っているジェダの部下たち−御者を入れて4体だった−は独り言に聞いた。

 
「全く、失礼しちゃうわ」
 派手な安物の服に着替えた、モリガンはつぶやいた。
 ジェダの部下たちは不審な車両として呼び止められるたびに、
「乗っておられる婦人は、近くにあるAという、金持ちの所を訪れて、次は少し離れたBという貴族の所へおいでになる、高級娼婦でございます」
 という言い訳をするのだった。
 本当かと思って馬車を除く警備兵たちも、いかにも娼婦という化粧をして扇で口元を隠しながら、男に慣れた感じに目で微笑むモリガン見て、納得した。
「そこら辺にもぐりこんでいるうちの手の者にとっては、好色な貴族や富豪の名なんて簡単に知れますよ。実名だからこそ、皆騙されるんです」
 とドーマ家の配下の者はモリガンに少し得意げに言った。
 確かに上手い嘘だとは思ったが、モリガンは娼婦扱いに少し気を悪くしていた。
 しかし、そのおかげで結構難無く、モリガンの馬車はデミトリの城のことが出来た。
 デミトリの側もまさか、「地下牢から、モリガン・アーンスランドが逃げた」とも言えず、「家出した美貌の貴族の姫君を探せ」としか下っ端たちは言われていなかった。
 そのことが、モリガンの逃亡に多いに有利に働いたのだった。

 デミトリの城を離れて半日。
 馬車はマキシモフ家の領地の端辺りまでたどり着いた。
「ここは、ドーマ領とアーンスランド領、マキシモフ領が接する辺りね」
「よくお解りですね」
 隣に座っている男が答える。
 馬車は森の脇を通る道を走っていた。モリガンは時々鳥の飛び出してくる、遠くには大木も多い森を見つめていた。
 ふと座り直した彼女は、頭がくらくらするのに気が付いた。
 何か、空気がおかしい。
「窓を開けてくれないかしら」
 モリガンは隣の男に言った。
「この窓ははめ込み式です。開きませんよ」
「そう。気分が悪いの。どこかで止まって、扉を開けられないかしら」
「止まることは出来ません。追っ手が来ますから」
「わかったわ」
 モリガンは疑念を抱きながら、一応そう答えた。
 彼女は手をくっと握ってみた。だが、手に力が入らない。
 くんくんと空気の匂いを嗅ぐ。馬車の片隅においてある蓋を開けた小瓶を見る。それは、ドーマ家領名産のアロマオイルのラベルが貼ってあった。天然のグラシルの果実の皮からとるオイルだ。そのツンとする香りに交じって、妙な薬の匂いがする。
「止めて!」
 モリガンは叫び、馬車の扉に体当たりした。
 けれど扉は動かず、モリガンはジェダの部下に思いっきり頬を殴られた。
「気が付いたか」
「私も似た手を使ったばかりなのよ。麻痺ガスをどこからか、出しているわね」
「その通りだ」と、いいざまに、もう一発反対の頬をひっぱたく。
 モリガンはもう一度扉をたたいた。ガラスだけが割れた。
「力がはいらないだろう」
 とその男はさらにモリガンのみぞおちに拳を入れた。
「あぐっ」
 モリガンも殴り返したが、意に反してそのこぶしは軽かった。
 絶体絶命。勝つことは出来ない。扉も開かない。
 モリガンは胸元から、蝙蝠をつかみだした。ガラスの割れ目から、力いっぱい空へと投げる。
「逃げて、アデュース!」
 少しガスを吸ってふらついていたが、蝙蝠は空高く舞い上がり、小さくなっていった。
 どうやら、ジェダが用意した部下の中に、空を飛べる者はいなかったらしく、アデュースに向かっては御者の手から炎が放たれた。
 そのうちの炎のひとつが蝙蝠の翼にあたり、アデュースは森へと落下した。
「アデュース!」
 その時、男がモリガンの首を押さえ、後頭部を思いっきり殴った。薬のせいもあって、彼女はそのまま気を失った。

第十一章 黄金の結婚指輪

 デミトリは追いつめられていた。
 敵は魔王ベリオール。
 魔界最強の男。
 辺りは濃厚な闇の気配が満ち、デミトリは彼本来の姿でその中を羽ばたいていた。うかつに近づけないので、遠くから隙をみて召還した蝙蝠を放つ。
 だがたいがいは、魔王の魔力の防御壁によって防がれ、その肌に届くものは少ない。
 例え届いたとしても、効いているのだろうか。
 蚊に刺されて貧血になる人間がいないように、彼が攻撃を続けても深刻なダメージは与えられないのではないか、疲れのみえはじめた彼の脳裏をそんな思いがよぎる。
 狼も自分の3倍もの大きさがある動物には挑まないという。
 デミトリとベリオールの体格の差は数十倍はあるだろうか。
 だが、自分は挑んだ。それは無謀な挑戦でしかなかったのか?
 ベリオールは未だ彼の4本の腕のうち、2本を組んだままだった。
 自分を相手にするには、いわば「片腕だけで十分だ」ということか。
 デミトリの口元が歪む。
 自分を空中の蝿でも捕まえようとするかのようにたたき落とそうと伸ばされる魔王の巨大な腕をかいくぐる。
 実際魔王の小山のような巨体を前にしては、彼の姿は人のまわりをひらひら飛ぶ蛾程度にしか見えないだろう。
 魔王の顔辺りを狙って身構えた彼は魔王の手元で何かが光ったのに気がついた。
 あわてて翼をたたみ、数メートル落下した後で、右へと逃げる。
 そのすぐ上の空間をまぶしく輝く光の矢が突き抜けていく。
 スケイルフォトン。
 魔王の必殺技だ。
 魔力の塊を矢の形にして、高速で放つ。
 その威力は絶大で、ジェダやガルナンのような三大貴族の当主でもまともに食らえば、即死するといわれている。
 しかし、その矢自体から感じられる魔力の波動は魔王から放たれている強大な気配に比べて、小さなものだった。
 威嚇射撃か。
 魔王に弄ばれているのを実感する。
 だが、ここまできて負けることはすなわち、死を意味する。
「ファイア!」
 彼はベリオールに向けて蝙蝠を飛ばしたが、その蝙蝠は魔力の矢にあっさりと串刺しにされ、消滅した。
 そして魔王は数十本の矢を次々にデミトリめがけて放った。
 続けざまに多くの矢が放たれたため、そのひとつひとつの威力は小さかったが、到底かわしきれるものではない。
 その内の一つに翼の膜の部分を射抜かれ、デミトリは失速した。墜ちる途中で必死に羽ばたき、地への激突を免れる。
「くっ!」
 ベリオールを見上げた彼の目に眩しい光が満ちた。
 魔力の矢は彼の心臓を貫き、彼は深い闇へと墜ちていった。

 恐怖のあまり目が覚めた、彼の赤い瞳を緑の瞳が覗き込む。
「どうしたの? 随分うなされていたみたいだったけど。」
 心配そうに声をかけてきたのは、彼のこよなく美しい妻だった。
 金糸で刺繍された黒い寝間着を身にまとい、胸元まで銀髪を垂らしている。「いや、何でもない。」
「そう? それならいいのだけれど。」
 そういって彼の妻は彼を抱き寄せ、その頭を自分のひざにのせて優しく、彼の髪を撫でた。その左手の薬指には彼とお揃いの金の結婚指輪がはめられている。
 その家事というものに縁のない手は、柔らかく滑らかで、彼の心は慰められた。
「何も、恐れることはないのよ。私がついているわ。」
「ありがとう。」
 彼の妻は彼の唇にそっとキスをした。全ての不安をぬぐい去るような口づけ。
「今日のパーティは楽しかったわね、デミトリ。」
「そうだな、モリガン。」
 その言葉に彼は遠い過去を回想した。

 百年前、ガルナンが死んだ頃、モリガンに襲われたデミトリは精神と肉体の極度の衰弱から、しばらく自分の城に引きこもった。淫魔の小娘にしてやられたという事実は、彼の野心を挫くにたる事実だった。だが、彼が城にこもっていた一年の間に魔界の歴史は大きく動いた。
 冥王ジェダが「魔界の扉」を開き、魔王ベリオールに反逆を試みた。ジェダはベリオールをあと一歩の所まで追い詰めたが、結局殺された。
 その夜、デミトリは密かに祝杯をあげた。
 こうして、戦いに背を向けたデミトリはジェダが死んだ後、魔界でベリオールに継ぐ地位を得たのだった。
 そして、ベリオールはジェダとの戦いの傷が元で急死し、後はモリガンが継いだ。
 多くの魔界貴族が好機と見て、反逆を企てたが、戦い好きで優れた戦士である新たな魔王によってすべて潰された。
 あの女とは二度と戦いたくない、それがモリガンと戦って命を残された男達に共通する本音だった。
 デミトリも同じであったので、彼は魔王に挑戦すること無しに、自らの魔界貴族としての地位の安定につとめた。
 そんなある日のこと、楽士のピアノに耳を傾けながら、カミーユの酌でブランデーを楽しんでいた彼に青ざめた顔で、イザベラが告げた。
「デミトリ様、魔王陛下がおいでになられました。」
「……! そんな約束はしていないはずだが。」どうせ気まぐれだろうが、魔王にいきなり来られたのではかなわない。
「はい。どういたしましょう。」
「会うしかあるまい。」
 久しぶりに魔界一の美貌を見られることに対する甘い期待と、かつて彼女から受けた仕打ちによる苦い屈辱感が同時に彼の胸に湧き起こってくる。
 魔王陛下のご訪問ともあらば、当主自ら出迎えねばなるまい。
 軽い溜息をついて彼は杯を干した。
 応接間のソファに座っていたのは、以前より更に輝きをました様に見える美女。
 儀礼的な挨拶をかわした後、デミトリは不審げな顔で切り出した。
「いまさら私めに何の御用であられますかね。魔王陛下。」
「あら、いい話を持ってきたのよ。マキシモフ公。……別に敬語はいいわ。私と貴方の仲じゃない。」どんな仲だと内心で毒づく。
「それでは失礼して……。いい話は君にとってだろう。」
「どうかしら。ベリオール様が死んでしばらくたつわ。でも、私には魔王の地位なんてうざったいだけだし。それであなたにそれをプレゼントしようと思って。」
「どういう意味だね。君が魔王の地位を放棄すると宣言したところで、魔王の正当な後継者は君以外にいないと、皆信じているが。」
「でも、たったひとつだけ誰もが納得する魔王の座の譲り方があるわ。」
「……何かね。」
 嫌な予感がする。思い出したくもない過去を思い出す。
「私と貴方が結婚すればいいのよ。」やっぱり……。
「かつて、私の求愛をあれ程までに手痛くはねつけた君が、そんな事をいうのかね。」
「状況の変化のせいよ。そうすれば、貴方は魔王の座を手に入れられるし、私はややこしいことを全て貴方に任せて遊び回っていられるわ。」
「自分が楽をするためなら、どんな手でも使うか。実に賢い姫君だ。」
「ふふっ。」モリガンは悪戯っぽく笑った。
「他に条件は? あるのだろう。」
「寝室は別にしたいわ。」
「では、断る。」
「そんなこといわないでよ。気が向いたら、貴方の寝室を訪ねてあげるから。」
「逆はありかね。」
「なしよ。」
「ほおほお。では、君が私の部屋に来たときに、私が君の誘いを断る権利は。」
「ないわ。」
 要は、モリガンは好きなときにデミトリの肉体を楽しむ事が出来るが、デミトリは待つしかないし、求められたら断れないという女性優位の極みのような条件である。だいたいそれでは気が向かなかったら、百年間デミトリをほったらかしにすることも出来るではないか。
「それは逆ではないかね。」さすがに憮然としてデミトリが返す。
「そうかもね。でも、そうでなければいや。」
「それと、マキシモフの姓は捨ててもらうわ。デミトリ・アーンスランドと名乗って頂戴。」
 デミトリは男としての誇りと魔王の座を天秤にかけて、深刻に苦悩した。
 しかし、結局「いくら家庭内で妻の尻に敷かれようとも、それで魔界最高の地位が手に入るなら」という選択を彼はするのである。
 そして長い歳月が流れた。
「遅くなって、ごめんなさい。すぐ支度するから」
 窓から飛び込んで来たモリガンは、デミトリの前でばっと羽根役の蝙蝠を散らした。
 そこは魔王の城の一室だった。窓辺の花瓶では、白い薔薇が淡い光を放っている。
「どこへ行っていたのかね。」
「ちょっと人間界まで遊びに行っていたの。」
「またかね。今夜は君が主役の重要なパーティーなのだ。間に合わなかったらどうするつもりだね。」
「ふふっ。」
 モリガンは花のように笑ってごまかした。
「それに、デミトリ。主役は私じゃなくて、私とあなたのふたりでしょう?」
「ほう。なんのパーティーかは覚えていたようだな。」
「もちろんよ。私とあなたの百回目の結婚記念日よね。」
「その通りだ。」
「待ってて、すぐに着替えて来るわ。」
 デミトリの頬に軽いキスをして、モリガンは走り去った。百年前と変わらぬ美しさで。

「落ちついた?」
 寝巻姿のモリガンの声が彼を回想から引き戻す。
「ああ。君と出会ってから百年か。早いものだな。会ったときには、まさか百年添い遂げようとは思っていなかったが。」
「そうね。でもね、デミトリ。私はあなたが夫でよかったと思っているの。」
 モリガンが甘えた仕草で彼の胸に頬を擦り寄せる。結婚したての頃はろくに寝室も訪ねてくれなかったのに、さすがに長年の生活の中で情がわいたのか、近頃の彼女はすっかり彼を慕っているようだった。
「私のかわいいひと……。」
 厚い胸に柔らかな唇がつけられる。
「抱いて。あなたが欲しいわ。」
 彼の心のどこかで微かに警鐘が鳴った。何かがひどくおかしい。
 デミトリのわずかなためらいを見抜いたように、モリガンがするりと背中に腕をまわす。抱き寄せられ、豊かな胸に顔を埋めた彼を原始的な安心感が包む。
「愛しているわ。」
 その言葉はこの上なく甘く、優しく、彼の心をとろけさせていく。
「私も愛しているよ。」
 そう答えて、デミトリは官能的な香りのするモリガンの肉体を抱きしめた。

 目が覚めるとモリガンは、ついたてで囲まれた中にいた。
 手には手錠がはめられ、足にも重りがついていた。
 側には見張りが二体。そのうちの一体がモリガンの手錠につながった鎖を握っている。細身の、しかし不気味な力を感じさせる者たちだった。
 天井を見上げる。かなり高い。天井は青みを帯びた黒っぽい灰色の石で、鏡のように磨かれていた。
 その豪華な造りから、ここは立派な城の大広間であろうと検討をつける。床に目を落とす。自分の横たわっていた、毛並みのよい深紫のじゅうたんは、玉座に続いているものではなかろうか。
 もう一度、天井を見上げる。灰色の中に小さく自分が映っている。前の方を見ると……玉座に座っている者の、頭とひざが見えた。
 ジェダ。
 目覚めたときから、予想はしていた。だが、小さくとも姿を目にすると、確信は怒りに変わった。
「ジェダ。そこにいるのね。姿が見えているわよ。」
 モリガンは声をはりあげた。
 ジェダは一瞬まわりを見回してから、ああ、という感じに天井を見上げた。モリガンと視線が合う。そして彼は玉座から降り、すすっとモリガンの視界から消えた。
「お目覚めかね。」
 ジェダは玉座から、少し離れた所にいるようだった。
 声の感じからそう判断する。
 視線を合わそうとしないのは、罪悪感からではなく、誘惑を警戒してのことだろう。
 その姿を見ないことは、淫魔と冷静に話をする上での鉄則である。
 デミトリの二の舞いは踏むまじってことね、賢明な判断には違いないわ。
 モリガンは下唇を噛んだ。
「よくも欺いてくれたわね。」
 ついたての向こうに声を投げる。
「君には悪いことをしたね。デミトリが扉付近で私の邪魔さえしなければ、最初の交換条件で、無事に家まで送り届けても良かったのだがね。」
「なぜ、デミトリが邪魔したから私が捕まるの。デミトリと私の間に、どういう関係があるのよ。」
「肉体関係が。」
 冥王は無機質なほどさらりとその言葉を言ってのけた。
「私を人質にしたって、彼は『扉』をあきらめたりはしないわよ。」
「もちろん、彼は君を渡して欲しければ、この先ずっと『扉』の近くに寄るな、と言われても承知しないだろう。しかし、例えば……二週間だけ近寄るなと言われたらどうかな? その二週間の間にかなりの遅れをとるかもしれないと思いつつも、同意するかもしれないだろう?」
「なるほどね……少しばかり優位に立つための交渉の道具には十分ってことね。」
 ついたての向こうを睨み据えてモリガンは言った。
「そういうことだ。自分の立場がおわかりかな。」
「それじゃ、私の未来はデミトリ次第なのね。」
「その通り。彼が君欲しさに私の言うことを聞けば、多分、命は助かるだろう。下僕か玩具か、その先は私の知ったことではないね。もっとも、彼なら自分の手で止めを刺すために君をよこせと言うかもしれないが。」
「もし、彼が断れば?」
「私はすぐさま君の魂を救済してあげよう。光栄に思いたまえ。」
 モリガンはその意味を考え、皮肉に言い返した。
「あら、有り難い話ね。魔王に対する人質とかいうのは考えなかったの?」
「もちろん考えたが、部下たちから話を聞いて、長く閉じ込めて置くには危険な女と判断した。君にしてやられたデミトリは欠点の多い男だが、いわゆる莫迦とか無能とか言うのとは違うのだからね。」
「欠点だらけよ。それじゃ、私の立場は逃げ出す前より悪化したのかしら。」
「そういうことだ。そもそも、君は私の結界にひっかかった時点で、墜落死している筈の身だ。今日まで生きられただけ、幸運と思うべきではないかな。」
「あなたの結界ですって?」モリガンは驚いて聞き返した。
「おや? 知らなかったのかね。デミトリは君に自分が君の命の恩人だと言わなかったのか? 彼らしいね。彼が君を助けたおかげで、こちらは部下を三体ほど殺され、闇鴉の報告を受けるまで落ちつけなかったよ。」
 モリガンは手首の鎖を見つめて沈黙した。
 デミトリは一言もそんな事は言わなかった。それは「私ではなくジェダがやったのだ」と言った所で証拠もなく、モリガンに信用されずに、見苦しく思われるだけだと考えたからか。それとも、モリガンに「恩着せがましい男」と思われるのは本意でなかったからか。どちらにしろ、その真実を明かさないことこそが彼の矜持だったのだろう。
 自分は彼を誤解していた……というよりは彼に騙されていたのだが、モリガンは少しだけデミトリにすまないと思った。だったら、もうちょっと優しくしてあげてもよかったかもしれないわ。
 黙り込むモリガンにジェダは声をかけた。
「話はこれでおわりだ。それでは、君は部屋に帰って寝ていたまえ」
 ジェダのいる辺りから、小柄な足音が走って来て、モリガンのいるついたてをずらして入って来た。
 上品な青の服に身を包んだ、小鬼だった。
 その従者は、すばやくモリガンの鎖を握る者のうち一体に指文字で何かを告げると、さっとカーテンの向こうに消えた。
 外に連れて行け、と告げたに違いないと思うと同時に目隠しをされ、手の鎖が引かれた。そのまま、モリガンは玉座の間の外に連れ出された。

 デミトリは、モリガンが去ったあと、カミーユ達によって発見された。
 彼は一日目を覚まさず、側近や女達を心配させた。
 精気を吸い取られた体は石のように重く、身動きすらままならなかった。だが、医師は「挫いた足の他に外傷らしい外傷はないので、一週間も寝ていれば大丈夫ですよ」
 と告げた。
 医師が退出した後、やつれたデミトリがイザベラに最初に聞いたことは、
「モリガンはどうした」だった。
「お逃げになりました。行方はわかっておりません。また、アーンスランド家からも何も言って来てはおりません」
「……わかった。後で状況を詳しく報告するように。その際に責任者の処罰も決定する」
「かしこまりました」
「喉が渇いたな。」
「すぐに用意致します。生き血でございますか。」
「水……いや血を。」
 正直食欲など皆無だったが、衰えた体力を回復するためにはいやでも飲まねばなるまい。
 イザベラは退出した。
 デミトリは独り、ベッドの天蓋を眺めた。
 そしてモリガンに見せられた「甘い悪夢」を回想した。
 思い出すだけで胸が酸に灼かれるような、決して他者に語れない夢。
 普通にいうような意味で淫靡なのでも、凄惨なのでもないが、デミトリにとっては淫蕩で残忍な夢の方がむしろ自分を恥じることがなかったに違いない。
 彼はあの夢の中での交わりに至福を感じた自分が、どうしても許せなかった。
 この私が少しでもあの様な望みを抱いていると言うのか……!
 甘い、まさに甘いその夢が終わる間際に、夢の中で見た、モリガンの姿が、声が心から去らない。
彼女は慈悲さえ感じさせるほどの眼差しで、この上なく彼を追いつめる言葉を残した。
「あなたは恐れているの。ジェダを。ベリオール様を。
 そして、自分の死を。
 あなたが望むのは逃走。
 あなたが求めているのは、安らぎ。
 ふふ。野心なんて捨ててしまいなさい。
 その方が楽よ、ねえ。」
 ただ、単に口でそういわれたのであれば、彼は「莫迦な」と笑って聞き流したろうが、夢として明確に見せられると、自分は本当は甘く臆病な男なのではないかという疑念が焼けた火箸のように心をかき回す。
 我知らず、シーツに爪を立てる。
「あの女……!」
 しかしモリガンはどうしただろうか。捕まらなかったということは魔王ベリオールの城に帰り着いたか。彼女は告げるだろうか、自分のしたことを。
 そうなったら、万事休すだ。
 とはいえ、逃げた彼女に対して今更何が出来る?
 デミトリは深い溜息をついて、枕に片頬をつけた。
 このまま、一生ふて寝をしていようかなどと、普段なら決して考えないようなことを考える。
 だが、それではあの夢を現実にしてしまう。それは本当にサキュバスの支配に屈することだ。それだけは、それだけは絶対にあってはならない。
「デミトリ様。食事をご用意しました」
 イライザが告げ、彼のベッドのそばに薬で眠らされた若い女が運ばれて来た。
 イライザは召し使いに命じて、デミトリのベッドに女を寝かせた。
「さあ、どうぞ。デミトリ様」
 デミトリは目の前にいるのが「おいしそうな女」だというのはわかったが、「おいしそう」とは感じなかった。しかし、彼はベッドのカーテンを引き、渋々女の喉に口をつけた。
「いかがですか」
 食事の後、イライザがたずねると、デミトリは「眠るための柩」を持って来いとだけ言った。
「とりあえず、三日ほど私は眠るので、誰も起こさないように。」
 という言葉を彼は残し、柩にもぐりこんで寝息もたてずに眠り込んだ。実に無責任なせりふだったが、書類を読むのさえ目がかすんで難しいという体調では他に仕方もなかったろう。
 イザベラはため息をついたが、すぐさま毅然とした表情になって、三日間の間になすべきことを考えた。

 ドーマ家当主の城に捕らえられて一週間、モリガンは
「デミトリの時の方が優雅な監禁って気がしたわね」
 と不満を漏らした。
 貴族の姫君の部屋らしく、豪華に調度を整えた牢獄の方が、変と言えば変なのだが、この部屋は実に牢獄らしく、殺風景だった。
 部屋は狭くて一つしかなかった。その隅に穴に近いトイレと体を拭くための布と水桶が置いてある。天井も、壁も冷たい石作りで、これまた頑丈そうな扉は鉄だった。
 鉄格子のはまった窓は、モリガンを閉じ込める際に鉄板でふさがれ、ススで汚れたランプだけが明かりだった。
 ベッドは堅い木の寝台で、古い木らしく節穴が抜けていた。シーツと毛布は一応洗ったばかりのものではあったが、シーツは黄ばみ、毛布は色あせていた。枕は小麦粉の麻袋にぼろきれをつめたもので、端が破けていた。
 モリガンの服装はさすがに囚人服ではなく、二日に一枚ずつ支給される白い綿の飾りのない下着と同じく白のワンピースを着ていた。
 逃げるときに持ち出した、高価な宝石類や香水、化粧品は取り上げられたので、クシと石鹸、小さな手鏡だけが、「絶世の」と言われた美貌を磨くための道具と言えた。それを飾るのは、若いオリーブの雫の瞳と咲きかけの薔薇の唇のみ。
 素顔で、銀髪を白い服に垂らしただけの姿でも、その仕草や微笑みから色気や気品が失われることはなく、殺風景な牢獄の中で、モリガンは美しかった。
 食事は三日に一回、薬で眠らされた男がドアの下の、高さ三十センチほどの小さな扉から押し込まれてくる。
 男の精気が吸えるのはデミトリの時よりいい待遇と言えたが、モリガンは多いに不満だった。
 男の質が悪い。
 これまでに与えられた三匹は食用奴隷や犯罪者だった。
 腹の出た中年から、痩せっぽちの少年まで、男なら誰でもいいだろうと言わんばかりである。
「ああ、もう。なんでみんなこんなに不細工で、下品で、馬鹿で、下手で、弱くて、話がつまんないのかしら!」
 淫魔の餌として投げ与えられる男が、美貌だったり、上品だったり、賢明だったり、床上手だったり、力強かったり、話術が巧みだったりというような長所を持ち合わせるはずがないのは、モリガンにも理屈としてよくわかった。が、あまりにも「私の舌は肥えているのよ!」という事実を無視されていて、モリガンは憤懣やる方なかった。
「本当に生きてても、役に立ちそうにない連中ばっかりね!」
 脳みそについては、むしろ意図的に頭の悪い者たちを寄越しているのではないか、とも思えた。ドーマ家の内部情報が漏れるのを防ぐために。
「有り得るわね。みんな、奴隷や犯罪者とは言え、あまりにもここの事情に疎いもの」
 すでに一月にはなろうという監禁生活で、独り言を言うのに慣れてしまったモリガンはつぶやいた。
 新しい餌が来て、その日はその餌と話したりするのだが、奴隷の過去など面白いものではない。
「やっぱり、強引でさえなければ、デミトリっていい男の部類に入れてもいいわよね」
 食べかすをドアの下の扉から押し出して独りになった後、モリガンは考え込んだ。 
 逃亡の際に、ジェダの手を借りたのは、確かに失敗だった。
 しかし、金も無く、女独りでは途中で怪しまれて捕まった可能性も高い。
 やむをえない選択だったと、言えないこともないのだが……。
「本当に男って信用出来ないわね」
 かび臭い石牢で、モリガンはふうとため息をついた。
 この牢から逃れる手段は無さそうだった。
 牢屋の扉自体は前回ほど鍵が厳重ではないが、小さな扉から出し入れされる「餌」を除いて、出入りする者はいない。だから、扉が開いた隙に出ることは出来ない。
 「餌」用の扉から出るためには、一瞬にしてはいずり出るという、蛇女のような芸当が出来なくてはならない。もぞもぞとはい出ようとしたら、上半身が出たところで胴体を真っ二つにされるのが落ちだ。
 もちろん、見張りもいる。その見張りに「おなかが痛いの。お医者さん呼んで」とか嘘をついても、デミトリの城から逃げる時のように、スパイ役のアデュースがいないので、この牢屋から出ても、城の中で道に迷う可能性が高い。
 もちろん、前回のように城の外の道案内はいない。
 それに、デミトリの城の時は「私を殺せとは言われていないはず」と警備兵たちに言って、時間稼ぎが出来たが、ジェダは間違いなく、警備兵たちに「逃げようとしたら殺せ」と命じているだろう。
 たった独り、警戒厳重な冥王の城から抜け出せるか。徒歩で自分の城まで逃げられるか。
 その方法はありそうになかった。
「……デミトリ。私の生死はあの男次第……。」
 では、デミトリに自分が引き渡された場合、どうなるか。
 デミトリは今度こそ、容赦などするまい。
 すぐさま、モリガンの手足を鎖で縛るなどしたうえで、吸血するだろう。
 いや、それでもましな方かもしれない。
 散々虚仮にされた復讐のために、日夜拷問した上で、残忍な手段で処刑するということもありうる。
 となると、ジェダから再びデミトリの手に引き渡されたら、さらに事態が悪化するとみていい。
「随分彼を虐めちゃったものね。でも、吸血鬼の虜になる位なら、今ここで自殺した方がましね」
 闇の中で銀髪をかきあげつつ、粗末な手鏡の中の自分に向かって宣言する。
 逃げるチャンスがあるとすれば、自分の身柄がジェダから、デミトリに引き渡されるその時だ。
 モリガンは陰気な石牢で深いため息をついた。
 結局、自分に今出来ることは待つことしかないのだ。

 デミトリが柩から起き上がったのと同じ日に、ジェダからの隠密の使者が到着した。
 モリガンの身柄は預かっている。渡して欲しくば、これから十日間、ギラ=ギララ山には近づくな。
 要約するとそういう内容だった。
 証拠として、モリガンの髪の毛一房と、彼がモリガンに与えた首飾りが同封されていた。
 デミトリは、モリガンが魔王のもとへと逃れたのではなく、ジェダの虜囚となっていることを知り、驚いた。
 だが、彼は悩んだすえ、ジェダの言うことに従うことにした。自分が拒否すれば、ジェダはモリガンを殺すだろう。たぶん、彼の力なら、それが可能だ。自分以外の者の手によってモリガンが殺されるというのは、彼にはあってはならないことのように思えた。例え、それが関係性に対する妄執であろうと、譲れはしない。
 参謀のキーツは「わざわざ近づくなというということは、その間に重大な計画を進めるつもりに違いありません。お気持ちはわかりますが、ここで冥王様に遅れをとる訳にはいかないのですよ」と言ったが、デミトリは首を縦に振らなかった。
「だが、何もしないで待つというのもなんだな。扉の使用方法についての研究はどうなっている?」
「そのことでございますが、例えば冥王様などとちがい、当主様は一度に上限なく魔力を吸収できるような能力を残念ながらお持ちあわせではございません。ですから、戦闘中に少しづつ魔力を得ることが出来るかどうかが勝利の鍵でございます。」
「なるほど、それで?」
「なんらかの手段で、空間をゆがめ当主様と魔界の扉を繋がなくてはいけません。それには、かなり大がかりな魔術の装置が必要になります。ですから、それはこの城の地下に設置いたしましょう。この装置の力で特殊な力場を発生させ、それを中継地点として当主様に直接魂を送ります。」
「ふむ。それなら、ベリオールに挑むことが出来よう。しかし、その前に現在事実上その扉を管理している、ジェダをなんとかせねばな。」
 デミトリの憔悴した顔の中で、目だけが炭火の様に燃えていた。
 当主様はまだ野心をお忘れではない。
 その安心感は彼の様子を見守っていた側近たちの胸に、細波のように広がっていった。

 一匹の蝙蝠が、デミトリの城の塔の軒にぶら下がっていた。
 アデュースだった。彼は、近くのアーンスランド家の領地の、モリガンの別荘にたどり着き、そこにいた予備の蝙蝠部隊を集め、必要な金銭などを手に入れて、再び、デミトリの城に入り込んだのだった。
 この城は、もはや彼には「勝手知ったる」という感じで、廊下で迷ったりなどはしなかった。だが、モリガンの逃亡後、ひたすら警備は厳しく、これで警戒心の強い城主が床に伏せっていなければ、とても入り込めたものではなかっただろう。
 アデュースは、アンナからモリガンの逃亡後、何が起こったかを聞き出した。
 ジェダがモリガンの身柄と引き換えに、しばらく魔界の扉に近寄るなと言ったことを知ったアデュースは「そうか、そういうやり方もあったか。だけど、本当に扉を巡る争いは大詰めという感じだね」とつぶやいた。
 そして様子を伺っていたある日、デミトリが領主にしては少数で、旅の支度を始めた。
 アデュースは、行く先は「扉」と直感し、蝙蝠部隊を引き連れて、なるべくアーンスランド領を通りながら、ギララ山に向かった。

 ある日、牢のモリガンに小窓から、一通の手紙が差し入れられた。
 筆致流麗な手紙にはこういう意味の事が書かれていた。
「数日後に君を牢から出す。そして、ギララ山の頂に連れていき、そこでデミトリに引き渡す」
 要は、モリガンを餌にデミトリをギララ山までおびき寄せ、罠にはめようと言うのだ。
 しかし、デミトリは来ないだろう、モリガンはそう思った。自分が彼の精神につけた傷は深いはずだ。サキュバスに悪夢を見せられて後も、それまでの生き方を貫ける男などまずいないはずである。潔癖な男は淫蕩に、努力家の男は怠惰に、誇り高き男は卑劣に……自分に対する疑念から男達はそれぞれ身を堕としていく。
サキュバスが「夢を奪う魔物」といわれるのは、そういうことでもある。彼女らは襲われた者の夢や野心を戯れに捻り潰す。
 彼が、ジェダの元に独りで赴くなど、命がけどころの騒ぎではない。
 デミトリが来なければ自分は殺されるのだ。だが……仕方がない。
 体調も万全ではなく、心に傷を負った状態では来れたところで、彼はあっさりとジェダの手にかかるだろう。それを考えるとむしろ来ないで欲しかった。デミトリが敗れたとしたら、自分はたぶんジェダに殺される。大人しく殺されてやる気はもちろんないが、勝てそうな相手ではない。
 どっちにしろ、自分を生かして返す気など冥王にはないということか。
 モリガンはジェダの線の細い知的な顔を思い浮かべて、唇を軽く噛んだ。
 
 
 ギララ山の麓で人間の姿に戻ったアデュースは山麓の森から空を見上げた。
「デミトリ様はもう着いているのかな。ここまで来て逃げたり……するかも知れないな。お嬢様に襲われて一月足らずだもの。随分とあの悪夢が堪えてるだろうし。でも、とりあえずこの八千キロ以上もある山を登って様子を見るしかないか。やれやれ、大変そうだな。警戒も厳しそうだし。まったくもう、モリガン様があの日人間界に遊びに行こうとさえしなければ、今頃は優雅にフルートでも吹いていられたのに。」
 彼は、周囲を飛び回っている他の蝙蝠たちに、これからのことをそう説明した。半分は愚痴だったが。
 その時後ろの森から、はっと誰かが息を呑む気配が伝わってきた。
 アデュースがさっと振り向くと、逃げようとしているのは、淡い金髪に白磁の肌の美女。
「捕まえろ!」
 隊長アデュースの命で蝙蝠達は、ばさささと飛び立った。
 彼らは生ける黒雲の様に淡い緑のドレスの彼女を取り囲む。そして彼らは細い皮ベルトの様に瞬時に変形し、その体を戒めようとする。
 美女も綺麗に塗られた爪の生えた手で、蝙蝠達を次々たたき落とすがいかんせん数が多い。
 ついに美女は足を蝙蝠の変形したベルトに巻き付かれて、転倒した。
 急いで上半身を起こした彼女のまえに、アデュースは片膝をついて顔を覗き込んだ。
「あなたは……確か、モリガン様の……」
 美女はアデュースを見てうめくようにいった。
「良く憶えていらっしゃいましたね。あなたはカミーユ様ですね。」
 カミーユ達デミトリの供はここ、麓で待つようにと言われていたのだった。
「とりあえず、一緒に来てもらいましょう。私たちが来ていることを誰にも知られたくありませんので。もちろん、あなたの御主人様にも。」
「……。」
 デミトリ様はすでに山頂に向かわれたわ、カミーユは心の中でそうつぶやいた。 しかし彼女にはそれを口に出す事は許されていなかった。

第十二章 瑠璃色のマント

 ギララ山の山頂は強い風が吹いていた。そこは雲の海に突き立てられた石の剣の様な場所。魔界で最も天に近い地。
 白木の十字架に鎖で磔にされているモリガンは、風の音を聞きながら、青ざめて目を閉じていた。
 だが、ある気配を感じてモリガンは目を見開いた。
 その薄緑の瞳に映ったのは、虚空に巨大な蝙蝠の翼を広げた背の高い男。筋骨隆々たる体躯をサファイアブルーの燕尾服に包み、険しくも彫り深く端整な顔立ちの下で、純白のレースのスカーフをなびかせている。血の気なく滑らかな象牙の肌に、濃い琥珀色の逆立てられた髪、月光を浴びた紅玉の色の瞳。デミトリは足音も立てずに、山頂に舞い降りた。すぐさま二枚の翼が一枚のラピスブルーのマントに変わる。渦巻く風に、彼は裏地が鳩血色のマントをはためかせた。
 まさか来るとは思っていなかっただけに、モリガンは心底驚いた。
 ワインを満たした硝子の杯を大理石の床に投げつけるようにして、自分は彼の誇りを打ち砕いた筈。なのに、モリガンを見つめて不敵な笑みを浮かべるその姿は紛れもなく、彼女がよく見慣れた彼だった。
 虚勢? 違う。
 周囲を圧する強大な魔力の気配、またその尊大な表情や仕草から、そして何よりも燃えるように赤く輝く瞳から、彼の自信と闘志が疑える。
「あら、デミトリ。お元気そうね」
 単なる皮肉ではなしに、そう声をかける。彼のその様子に彼女は少しの悔しさと安堵を感じていた。
「君も無事で何よりだ」モリガンに散々翻弄されたことなど忘れたように、デミトリは優雅に微笑する。
「自ら罠に飛び込んでくるなんて、命知らずにもほどがあるわ」
 モリガンはいたわるような表情で言った。
 デミトリは厚い胸を張り、豪然と答えた。
「もちろん、私とて死ぬのは怖い。しかし、戦わぬ私など私ではない。私はここで闘い、勝利せねばならぬ。魔界の覇者となるために。」
 その凄絶なまでの誇りの高さに、モリガンは絶句した。
 自分に食われてなお、戦士としての矜持を保てる男がいるとは!
 心痛を振り切り、退廃を拒絶し、デミトリは前よりも力強く、闇の貴公子として再生していた。
「強いわね」
 モリガンは彼女にとって、最高の賛辞を口にした。
「有り難う」
 デミトリは美しく一礼した。
「感動の再会は終わったかね。」
 岩場の陰から現れたジェダが冷ややかに言った。
「随分と悪趣味な舞台を選んでくれたものだな。私としては、彼女との再会は風光明媚な地で行いたかったのだが。」
 デミトリは答えた。
「それは残念だな。だが、か弱き者を拒絶するここは魔界で最も美しい場所のひとつではないかね。しかし、契約は契約だからね。君はこの十日ここに近づかなかった。その代金として、彼女を連れ帰りたまえ。」
 デミトリは意外そうな顔でジェダを見た。
「君も知っての通り、魔界の扉は二週間ごとに開く。今宵がその夜だ。そして私はこの二週間、部下のオゾムに命じてこの扉を狭める封印を壊させていた。わかるかね?」
「事は済んだ、ということか。」
 デミトリの語調が険しくなる。」
「その通り。彼女を連れて君がここから去った直後、私は扉の魔力を全て吸収し、この魔界でもっとも強き者となる。その後、君たちを消し去ってあげよう。」
 理知的な口調でさらりと言ってのける。
「さあ、逃げたまえ。残されたわずかな時を楽しむといい。」
 デミトリはジェダに向き直ると身構えた。
「おや、何をする気かな。彼女を助ける方が先ではないのかね。」
 デミトリはためらうように、磔にされているモリガンを一瞥した。
「貴様を倒すのが先だ。扉が開くまで後一時間もなかろう。」
「その通りだ。さすがによく調べているね。」
 ジェダも自らの翼を大鎌に変えて、構えた。
「では……行くぞ!」
 ジェダはデミトリの飛び込みを予想して、鎌をふるった。
 しかし、それは空を切り、デミトリの姿は消えた。
 と、次の瞬間デミトリはジェダの目前に現れ、その肩をひっつかんだ。
 翼を用いての高いジャンプ、そしてジェダを頭からたたき落とす。
 デミトリは後ろにさっと離れ、ジェダの起きあがりを待った。
 起きあがったジェダは牽制のためか、デミトリに刃を投げた。
 デミトリは翼で軽く舞い、それを飛び越すと、ジェダを蹴り倒そうとした。
 だが、読まれていた。
「ちっ!」
 空中に残されたジェダの爪痕。それを伝って、ジェダの体液が空を走り、球状になってデミトリを包む。
 宙で溺れ、もがく彼の肌にジェダの爪が突き立てられる。
 デミトリは地に落とされた。立ち上がるのと同時に、翼を回転させて、ジェダの脇腹に切りつけた。
 かわしそこねたジェダの傷から赤いものが滴る。
 しかし、たちまち服の裂け目は消えた。彼にとっても服は魔力を実体化させた触れる幻影に過ぎない。
 しゃがみ込んでデミトリの拳をかわしざま、自らの体液を服から流しだして、デミトリにたたきつける。
 よろめくデミトリにジェダが爪を伸ばす。
 だが、彼はそれは防いだ。
「おや、荒淫のために力が落ちているかと思ったが、なかなかやるね。」
 からかうようにいいながら、少し下がって隙なく大鎌を構える。それは命を刈り取るための鎌。
「ふん、貴様などには負けはせん。」
 戦いは今の所、ジェダがわずかに有利だった。それを悟った冥王は氷の笑みを浮かべた。
「あの時は手加減していたのだよ。ガルナンの死が近いと知ってね。モリガンには利用価値はないと判断したのだ。ベリオールと闘うのにその養女など邪魔なだけだからね。」
 どうだか、とデミトリは思った。引き分けた後に譲った所を見ると、そうとれなくもないが、魔王と闘う気ならば手に入れておきたい駒でもあったはずだ。
 デミトリに小さな鎌を投げつけ、ジェダは頭からつっこむように滑空した。迎え打とうとしたデミトリの攻撃を防ぎ、デミトリが次の攻撃に移る間も与えずに両手の爪で両肩を裂く。
 デミトリの目の前に降り立ち、その肉体を掴もうとした瞬間、それが変貌した。彼本来の肉体へと。目を見開いたその時、逆にジェダがその腕に捕らえられた。
 ジェダの喉を噛み裂かんとデミトリが深く牙を立てる。皮膚を破られた所から体液がほとばしり、デミトリの肌を濡らす。
「不味い血だな!」
 いいざまにデミトリは自らの喉をおさえるジェダを殴り、渾身の力を込めて蹴り飛ばした。
 形勢は逆転した。
 デミトリは機に乗じて、ジェダに跳びかかった。
 しかし、それを読んでいたジェダの鎌で、右脚のふくらはぎ辺りに深い傷を負わせられる。
 デミトリは岩場に転倒した。
 顔についた土を手で拭いながら起きあがり、ジェダの方を見る。その目が見開かれた。
「動くな。」
 ジェダの声が響いた。
 彼は磔にされたモリガンの喉元に大鎌を突き付けていた。
 デミトリの目が険しくなる。
「この女を私に殺されたくなければな。」
 デミトリはジェダを睨みつけて、聞く者の魂を凍らせるような声で言った。
「殺したければ、殺せ。私はその女より自分が大事だ。」
「そうか。フフ、好きだのなんだのと口説いて、夜ごと体を重ねようとも、結局それが本音か。冷たい男だな。」
 モリガンは自分を凝視するデミトリをちらと見て、ジェダを見つめた。
 その瞳に恐怖はなく、冷たい誇りだけがあった。
「では、モリガン嬢には我が糧となって貰おう。」
 ジェダはデミトリから目を離さずに、モリガンの前に寄って、こう言った。
「悲しむことはない。君の魂は私の一部として安らぎを得るだろう。そして滅びに向かうこの魔界を救う、大いなる計画のために役立つのだよ。」
 モリガンは冷ややかに答えた。
「あなたは『救った』と思うことで、自分が救われたいだけ。全てのものは滅んで当然なのよ。でも、あなたは自分が滅ぶことが怖いのね。こんなのは結局、この残酷な世界で独り生きることにも、やがて死ぬことにも耐えられない、かよわい男の茶番だわ。」
 その言葉にジェダは怯んだ。
 しかし彼は短い沈黙の後、哀れむような目をした。
「所詮君には私の高邁な理想を、理解することなどできないのだね。それでは、さよならだ。」
 ジェダは長い爪を構え、モリガンの体を引き裂き、魂をつかみ出そうとした。
「……!」
 その瞬間、一匹のコウモリが両者の間に飛び込んで来た。
 そのコウモリは一瞬に女の姿へと変じた。カミーユだった。
 ジェダの爪は彼女の胸を深く貫いた。
 驚いた彼は魂をつかみださず、そのままその手を引き抜いた。
 次の瞬間モリガンをつなぎ止めていた鎖が弾け飛んだ。アデュースが小型の斧に変形させた翼で錠の部分を叩きこわしたのだった。会話の間にアデュース率いる蝙蝠部隊が、ジェダとモリガンのすぐ後ろの岩陰にまで忍び寄っていた。
 一瞬の出来事に驚いたジェダは、気配に気づいて振り返り、慌てて飛びのいた。デミトリが放った蝙蝠がすぐ目の前に迫っていたからだった。目標を外れた蝙蝠は、磔の板にあたってそれをたたき割った。
 自由になったモリガンはとりあえずカミーユの右腕を引っつかんで、ジェダと反対の方へ跳んだ。
 しかし、カミーユはすでに虫の息だった。モリガンはその耳に問うた。
「なぜ、私を助けたの…?」
「デミトリ様はあなたが欲しい……から…」
 胸を血に染めて、彼女はそれだけを告げた。
「あきれた…! そのために死ぬの? ねえ、それで死ぬことはないわよ!」
 モリガンはゆすったが、カミーユはすでに事切れていた。その遺体が崩れ灰と化して行く。
「部下を連れてくるなと言ったはずだが。」
 ジェダはカミーユの死を目前にして、さすがに悔しげなデミトリに告げた。
「私たちはモリガン様の部下で、その女性は私たちの連れです。デミトリ様の援軍ではありませんよ。」
「いえ。」
 モリガンがきっぱりとアデュースの言葉を否定した。
「デミトリ、この子に免じて力を貸すわ。」
 モリガンのまわりをアデュース達蝙蝠が取り巻く。それらは見る間に翼に変じた。モリガンはデミトリの傍らへと風を貫くように一直線に飛び、ジェダに対して身構えた。
「せっかくだが、君の手を借りるつもりはない。これは私の闘いだ。」
 デミトリは毅然とその申し出を撥ねつけた。
「散々巻き込んでおいて、そんなことをいうの?」
 そのとき、ジェダが柔らかく語りかけた。
「君が恨むべきなのは、私よりもその男の方ではないかね。彼の方が監禁期間も長く、監禁中の君に対する態度も君にとって屈辱的だったと思うが。私は別に君の体に触れるようなまねはしていない。君はその男をこそ、殺すべきだ。」
「もちろん、それについては許せないと思っているわよ。でも、少なくともこの男は、私を殺そうとはしなかったわ。」
「……。」
 今、モリガンを殺そうとしたばかりのジェダは、返事に詰まった。
「私はどんなに手段が間違っていても、私を欲する者には少しだけ優しいの。」
 そして、ジェダの方を向いたまま、デミトリに流し目をして宣言する。
「あなたに私と手を組む気がなくても、私は彼と闘うわ。いいわね。これは私自身のお返しでもあるの。」
「好きにするがいい。」
 デミトリは複雑な顔で言い捨てると、彼もまたジェダに向き直った。
「ソウルフィスト!」
「ファイア!」
 モリガンが空中から、デミトリが地上から、それぞれ光弾を放つ。
 横へ避けるようにしてかわしたジェダを、飛んで近寄ったモリガンの蹴りが襲う。
 それを防ぎ反撃を試みようとした、冥王を斜め後ろからデミトリが蹴飛ばす。
 だが、さらに攻撃をくわえようとした彼の胸をジェダが爪で切り裂いた。
 傷は浅かったが、かなりの量の血が流され、緋色のベストをガーネットの赤に濡らす。よろめきつつ後ずさりしたデミトリに向けてジェダが鎌を構える。
 しかし宙からモリガンが迫っていた。
 翼を変形させて襲いかかろうとする夢魔。鎌の柄でその胸を突き、宙から落とす。
 起きあがりかけのモリガンの頭をがっちりと捕まえて宙づりにしたジェダの背後から、デミトリはジェダを思いっきり殴りつけた。
 ジェダの手がモリガンの頭から外れる。
 その手から逃れたモリガンはデミトリに微笑んで見せた。
 デミトリはそれを流し目で一瞥した。
「二対一ではさみ討ちか。実に卑怯な戦い方をするね。」
「他者に憎まれるような事をするからよ。」
 モリガンは笑みと共に答えた。デミトリは少し怒ったように鼻を鳴らした。
 ジェダはデミトリに向かって鎌を投げて牽制し、刃物の様な翼でつい……と滑空して、モリガンを狙った。しかし、彼はデミトリがすっと近づいてくる気配を感じて一瞬振り向いた。
「デモンクレイドル!」
 デミトリの翼から慌てて身をかばったジェダの隙を、モリガンは見逃さなかった。
「シャドウブレイド!
「うっ!」
 ジェダの背中をモリガンの翼が切り裂き、冥王は地に落ちた。
 ジェダは防戦一方となった。
 魔王ベリオールと彼自身をのぞけば、魔界最強と言える男女である。
 しかも、口で言っていることとは違い、彼らの攻撃は互いに相手のしていることを見た上での攻撃であり、かなり息があっていた。
 両者がそれぞれ好き勝手に攻撃を仕掛けてくるならば、まだあしらいようもあるのだが、彼らは本気で勝つつもりのようだった。
 それ故にジェダは自分からは打ちかからず、避ける事と防ぐことに専念した。
 そのあまりに消極的な態度はモリガンに不信感を抱かせた。
「デミトリ! 油断しないで。時間稼ぎをしているみたいよ。」
 モリガンは振り返って声をかけた。
 一瞬、デミトリはジェダが援軍となる部下でも近くに潜ませているのかと、考えた。
「扉か!」
 デミトリは叫んだ。もうすぐ扉が開く。モリガンも、瞬時にその意味を悟った。
 ジェダは扉から流れ込んでくる魔力でダメージを回復し、パワーアップをする気なのだ。
 その前に倒さねばならぬ、と両者は猛攻撃を開始した。
 拳を振るう、蹴りを放つ、翼を翻す、蝙蝠を放つ。
 しかし、守りに徹した冥王に隙らしい隙はなかった。
 翼を刃に変形させての、モリガンの攻撃を軽くかわし、さっと長い爪を横に走らせる。
 モリガンの脇腹あたりで、服へと変じた蝙蝠たちが切り裂かれて地に墜ちる。
 彼女はその傷をかばって後ろへと下がった。
 その隙に間合いをつめようとしたデミトリは、不気味な気配を感じて空を見上げた。
 空間が歪みつつあった。
「ちっ!」
 ジェダは焦ってとびかかったデミトリを突き飛ばすようにして退け、彼の方向に小さな鎌を投げる。
 デミトリは鎌をさけようと後ずさりして、ジェダの体液でできた池に踏み込んだ。そこから、無数の血の手が生えた。それらは関節のない腕の先に鋭い爪まで備えた手首がついているという不気味な代物だった。それは何十もの太い蔓のようにデミトリの手足にからみつき、鞭のように打ちかかり、また牙をむいてかみつく蛇のように、デミトリにつかみかかった。
 それは、深い河でピラニアの群に襲われた時のように、防ぎようのない攻撃。
 液状の肉体をもつジェダだからこそ、可能なこと。
 たちまち全身に傷を負って倒れる。
 その彼の頭上で扉が開いた。たちまち辺りが邪悪な気に満ちる。
「次は君の番だね。アーンスランドの姫君。」
 ジェダは片手に大鎌を持ちながら、片手で胸元を開き魔力に満ちた山頂の気を深呼吸するように吸い込んでいた。
 それを隙と見ることは出来ないと、気を引き締めつつモリガンは高く上昇し、地上のジェダに向けて蝙蝠型の光の弾を放つ。
 ジェダはそれを鎌の刃で弾いた。
 モリガンは宙を舞い、ジェダの後ろに回り込もうとした。
 だが、ジェダは地を滑るように後退し、モリガンと距離を置いた。やむなく、地上に降りようとした時、足下の異変に気がついた。
 そこにも赤い沼が待ちかまえていた。
「ああっ!」
 モリガンは脚を踏みならすようにしてあがいた。
「無駄だ。逃れられぬ。」
 ジェダが獲物を捕らえたと確信した瞬間、彼は肩を捕まれ、後ろから喉に突き立てられた。
 デミトリはすぐ口を離し、汚れを手の甲で拭うとジェダの体を脇へ放り投げた。
「大丈夫かね。」
「なんとかね。」
 満身創痍のはずなのに、力強い反撃。モリガンは意外に思ってデミトリを見た。彼の細かな傷はもうふさがりかけている。
「私だって悪しき魂から、魔力を得るくらいは出来る。」
「ほう。しかし、それは吸血鬼の君の得意技ではないはずだ。」
 身を起こしたジェダがいう。
 確かにそうだった。疲れを回復し、最高潮の状態で闘うことは出来ても、ジェダのようにパワーアップを重ねることは出来ない。
 だが、ジェダは暗黒の裂け目を背後に、凄まじく強大な魔物へと変貌しようとしていた。
「くっ。」
 不気味な気配に圧倒されて、デミトリとモリガンは後ろへと下がった。
「逃さぬ!」
 ジェダの手首からしたたりおちた深紅の体液が、巨大な手に変じ、デミトリを掴んだ。あがく間もなく、デミトリの体は岩場へたたきつけられた。
「デミトリ!」
 モリガンはその手を思いっきり蹴りあげた。朱のしぶきがあがり、デミトリは手の戒めから逃れた。
 封印が壊された結果だろう、「扉」からの魔力の流出はかつてないほど激しくなっていった。それは生ける闇が宙の裂け目から滝のように、この岩山へと落ち掛かり、すべてを押し流してしまうかのごとくだった。
 モリガンにとってその悪しき魂の流れは、腐敗した血の河のようにおぞましいものだった。それらが発する恨み、憎しみ、嫉み、渇き、飢えなどの暗い感情は、モリガンの心の肌にべったりとねばりつくようだった。
「嫌っ!」
 モリガンは自分の魔力をジェダに向けて放った。光る蝙蝠の形をしたそれは、ジェダの投げた小さな鎌ひとつで消された。
 デミトリも、宙へ飛び上がり、ジェダに斜め上からの鋭い蹴りをかまそうとしたが、大鎌の一振りで地に落とされた。起き上がりざまに、彼はジェダにつかみ掛かって、彼を頭から地にたたき落とした。
 相手の反撃を待たずデミトリはすっと後ろに下がり、そのまま逃げると見せかけて、追おうとしたジェダの手首を翼で叩き落とした。
「フフ…。」
 冷たく笑うジェダの足元におちた手首は泡立ちながら、赤い水のように溶けた。
 彼がすっと右腕をあげると、傷口からずるっと新しい手首がはえた。
「化けものめ。」
 デミトリは舌打ちをした。魔力が次々に供給されるこの場所ではどんなダメージを与えても、すぐに回復してしまうのだった。
「化け物はお互い様のはずだよ。吸血鬼の一族の長たるものよ。」
 ジェダは嘲るように言った。
 傍らのモリガンもその様子に顔色を白くした。
 どんな傷も回復する魔物が相手では、一瞬にして致命傷を与えるほかはない。
 しかし、今のジェダはデミトリとモリガンが同時に攻撃しても、たいした傷を負うまい。
 ジェダは薄い笑みと共に、両者の表情を眺めた。
「残念ながら私は例え、首を落とされても平気なのだよ。私のこの姿はただの見せかけに過ぎぬ。とはいえ、デミトリ。吸血鬼である君のように獣じみた『本当の姿』があるわけでもない。君も知っての通り、私の肉体は液状なのだからね。どんな刃でも水は切れぬ。」
 優越感に満ちた冥王の声が響き渡る。ジェダの気配は他の者を吹き飛ばす、物理的な風となり山頂に吹き荒れた。
 デミトリとモリガンは死を覚悟した。
 デミトリは半ば無意識のうちに近くにいたモリガンを、瑠璃色のマントでかばうように抱いた。
 モリガンは逆らわなかった。
「見るがいい。この魔界全てをひとつにすることによって、魔界を滅びから救う者、真の救世主の誕生を!」
 扉からの流れ出る魔力の濁流は渦巻き、ジェダの胸元に開いた不気味な赤い穴へと流れ込んだ。
「うおおあぁっ!」
 ジェダの口から世にも恐ろしい叫びが迸った。
 瞬時に吸収した膨大なエネルギーのために、ジェダの体液は沸騰した。
 体の表面に無数の裂け目が走り、真紅の体液と魔力がそこから吹き出す。
 自らの形を保てなくなったジェダは、そのまま内部から引き裂かれた。
 デミトリも真紅の飛沫を含んだ魔力の暴風に吹き飛ばされ、空中に放り出された。その腕にモリガンを抱いたまま。嵐の中で翼を開き、必死に羽ばたく。モリガンも翼を開き、両者は遠く離れた空から頂を見つめた。
 風が弱まるのを待って、彼らは再び頂きに戻った。
 山頂は形を変え、そこら中に緋色の池や河があった。
 ジェダの体液だった。
「ジェダのやつ……自滅したか。フッ、愚かな。」
 ジェダの気配はもはや痕跡以上のものとは感じられなかった。
 モリガンはその異臭と凄惨にさすがに眉をひそめたが、デミトリは足場の悪さもかまわずに山頂の中心まで歩き、「扉」を見上げた。
「ついに手に入れた。闇と魔を統べる力を!」
 膨大な魔力の残滓がまだ渦巻く頂で彼は宣言した。
 そして、傍らのモリガンを振り返った。
「さあ、モリガン。私の元に来たまえ。そして、この魔界を共に治めようではないか。」
 デミトリはモリガンの方に手を伸ばし、力強く招いた。
 彼にとって永遠に思える一瞬が過ぎた。
 モリガンは、ふっと優しい目になって微笑んだ。
「すばらしいプロポーズね。『君が欲しい』ではなく、『君と一緒に』と言ってくれるのね。」
「それでは、私と一緒に戦ってくれるのか。」
 だが、モリガンはデミトリの言葉に首を横にふった。
「別に私は魔界なんてことさら欲しくはないの。」
 デミトリの目を見つめて続ける。
「でも、強い男は好きよ。貴方が本当に誰よりも力あるものとなったら、その時、私は貴方の傍らへとゆくわ。」
 モリガンは微笑みを浮かべた。それは、甘い笑み。そしてこよなく危険な笑み。
「わかった。いずれ迎えに行く。」
 デミトリは高らかに笑った。
「それでは、またお会いしましょう。」
 モリガンは翼を広げて頂から去った。

 エピローグ


 青白い月の光が床を照らしていた。
 激痛に苛まれながら、デミトリは身を起こした。這いずるように城の窓辺に出て、そこが人間界であることを知る。
 ベリオールとの対決の後、一体どうなったのか……。
 半ば廃墟と化した彼の城はしんと静まり返って、彼以外の何者もいなかった。
「くっ、ベリオールめ……。」
 すんでのところで敗北した怒りに彼は思わず言った。
 そう、自分は負けたのだ。
 もう少しで魔界が、魔王の座が手に入ったものを……。
 得られなかったもののことを考えて、デミトリは悔しさに震えた。
 そして、彼自身の魔界貴族としての地位、領地と財産、権力と臣下、なにもかもが失われてしまった。魔界の扉へのルートとして使用した城と彼自身のほかは。
 失ったものを思い、デミトリはさすがに気落ちした。
 城にいた彼の従者や女達はおそらくすべてが、城が扉をくぐる時に次元の裂け目に飲まれて死んでしまっただろう。
 城の外にいた部下や愛人たちは、反逆者の一味として処刑されたり、自ら望んで、あるいは否応無しに、他の主人のものとなっただろう。
 昨日までは我がものとして手足のように使い、気の向くままに愛でていたお気に入りたち。今は彼の傷を手当する者さえいない。
 喪失感と孤独感が、重苦しく彼の胸を満たした。
 後悔はなかった。危険は承知の賭けだった。
 だが……。現実は彼に手痛かった。
「……命があるということは、最悪の結果になったわけではないということだな。」
 低く、デミトリはつぶやいた。
 自分はまだ生きている。ならば逆転の機会はある。
 この人間界で傷を癒し、力を蓄え、更なる強さを得よう。
 いずれ再びベリオールに挑み、魔界を、そしてあの女をものにして見せる。
 傷だらけのデミトリの唇に、不敵な笑みが浮かんだ。
 彼はよろけながら一歩一歩踏み締めるようにして、寝室に向かった。
 来るべき復活の日に備え、長い眠りにつくために。
 
 モリガンは自分の部屋で独り、デミトリから贈られた黒蛋白石の指輪を眺めていた。
 先ほど、アデュースから、彼の挑戦についての詳しい報告は受けた。
「まさか、あの男が魔王をあと一歩の所まで追い詰めるとはね。」
 そして、その鍵となったのが「扉」。
「あの扉を手にした者が、魔界を統べる」というのは、嘘でも誤解でもなかったのだ。
 誰よりも力ある者になったら、貴方の女になる、というのはモリガンにしてみれば、彼の求めを断るための口実に過ぎなかった。そんなことはできるはずがないと思っての言葉だ。
 しかし、彼の挑戦がそれを真に受けた結果でもあるのかもしれないと思うと少しかわいそうな気もした。だが、あの野心家にしてみれば「女ひとりのためなんかではない」というところだろう。
 でも、あの男ならいずれ自らが最強であることを現実にするかもしれないわ、モリガンは心の中でつぶやいた。
 報告の最後に、アデュースはこう告げた。
「ベリオール様はかなりの深手を負われています。どうか後でお見舞いに行かれるよう。」
「わかったわ。」
 モリガンは答えた。そして、アデュースに質問した。
「ベリオール様は人間界まで追っ手を差し向けて、重傷のあの男に止めをさそうとはしないのかしら。」
 彼の返事は、
「魔王様はデミトリ様の闘い振りを認め、あの方に対する処罰は魔界における全ての領地と財産の没収並びに、魔界貴族の地位の剥奪に止めるとの仰せです。」
 というものだった。
 それは十二分に苛酷な処罰だと思えたが、彼の行いを思えば、命が残されただけで奇跡と呼ぶに値する。よりにもよって、魔王に反逆したのだから。
 そして、彼自身は最悪の結果をも予測していたはずである。
 この世の全てを手に入れるか、自分の全てを失うか。
 それは血沸き肉躍るような最高の賭け。
 その日、その日を楽しく暮らせばよいと考えるモリガンには、強く望むものなどなかった。その意味でデミトリの生は自分とは異なる意味で、充実しているような気がして少し羨ましかった。少なくとも退屈しそうにはない。
「思っていたよりもいい男だったみたいね……。一緒に反逆すれば良かったかしら。」
 何げないモリガンの言葉に、退出しようとしていたアデュースは愕然として振り向いた。
「ベリオール様に反逆、ですか?」
「ふたりがかりなら、勝てたかもしれないじゃない。ふふ、それにそれなら私にも『魔王のお気に入りの娘』以外の生き方ができたのに……。」
 生まれ落ちるとともに魔王に「後継者」として選ばれ、望みもしない重荷を負わされたサキュバスは、何かに憧れるような目をしていた。
 「魔王の後継者」という地位を投げ捨てる最も確実な手段は、魔王及びアーンスランド家への反逆である。そうでもしない限り、彼女はこのまま魔王とアーンスランドの家につなぎ止められるのだ。もっとも、反逆した後そのまま魔界最強の者となってしまえば、同じ事の様な気もするが、自分が選んだ道という実感は持てそうだった。
 アデュースが去った後、モリガンの唇から憂いを含んで甘い溜息が漏れた。「戦わぬ私は私ではない……それには賛成だわ。」
 彼女は燭台の光に指輪をかざした。
 百年の寿命の石は、黒の中に虹色の炎をきらめかす。まるで心の闇に閉じ込められた恋心のようだ、と思った。
「このブラックオパールが輝きを失わないうちに、また闘えるかしら。あの男と。」
 モリガンは宝石箱の内に張られたベルベットの上に指輪を置き、静かに蓋をしめた。

                          End


挿し絵は黒沢かじか氏のものです。どうもありがとうございました。


作者 水沢晶 

URL http://www.yuzuriha.sakura.ne.jp/~akikan/GATE.html

最終修正日 2000年7月5日