大神主題考察

英雄が従者と地下の国に行く話は世界中にある。

そして英雄はその国の王に会い、難題を押しつけられ、姫や動物の助けで試練をクリアし、魔物を倒し宝を手に入れて、元の世界に帰ってくる。

「英雄の冒険」の典型的パターンだ。この正道をいったものが、『ドラゴンクエスト』だろう。
この『大神』というゲームの物語も、大筋はこのパターンに従っている。

日本神話にもこういう「地下世界の冒険」というタイプの話がある。
だいたいこんな話だ。

「神の血を引く者である主人公の大穴牟遅神(オホナムチノカミ)が、地上を追われ、地下の国に行った。
だが、地下の国の王である須佐之男(スサノオ)が、主人公にいくつかの試練を与える。
しかし、主人公に一目惚れした王の娘の須勢理毘売命(スセリビメノミコト)が、主人公を助けてくれる。
また、言葉を話す動物(ネズミ)が主人公を助けてくれる。
主人公は試練を突破し、宝物を手に入れ、助力してくれた姫を連れ、その国から逃げる。
逃げる主人公の後ろから、姫の父親が主人公を英雄と認めようといい、結婚を許してくれる。
その後主人公は地上の王になる。」

原典は、『古事記 (上)』の「(3)根國行き」のところである。

個人的には、アマテラスに魔物を倒して宝物をとってきて、というお願いをするアジミの役割が気になる。あれが、このゲーム世界での「地下世界の女王」なんだろうか。

日本神話には、他にも「地下の冒険」タイプの話がある

「死んだ妻(イザナミ)を追って、夫(イザナギ)が地下の死の国に行く。
妻は少し待っていて下さいと夫に行って、奧へと行く。
妻がそのまま戻らないので、夫は不審に思ってのぞいてみた。
すると、すでに妻は腐っていた。
夫は驚いて逃げたが、妻は見られたことに怒って、追いかけた。
夫は死の国と生の国の間に巨大な石を置き、道をふさいだ。
妻は呪ってこれから地上の人を1日に、500人殺してやろうと言った。
夫はそれでは1000人生まれるようにしようと言った。」

これはすごく単純化してしまえば、「暗いところで、女の化け物に追いかけられる」パターンの話である。ホラーの典型みたいな話だ。
あまり似た話を聞いたことがない、という方もいるかもしれないが、「おしいれのぼうけん」という絵本や、「口裂け女」の都市伝説や、「三枚のお札」などの昔話が、こういう感じだ。

洞窟に行って、魔物を倒したり、化け物に追いかけられた経験のある人なんか、ほとんどいないだろう。でもそんな話が世界中にあり、平和な日々を送る人々にも楽しまれているのは、どうしてだろう?

こういう襲ってくる化け物を、乳幼児期に見た母親像と見なし、洞窟の奧にあるものを過去の記憶や自分では意識しない心の部分とする見方が、心理学には存在する。
ユング心理学でいう「太母(グレートマザー)」だ。
子供は最初、母親と自分が一体であると思うが、やがて母親と自分は別々の存在ではないかという気持ちが生まれてくる。
そして、自立心が芽生えた子供には、母親は自分を飲み込む敵として、認識されるという。

地下の洞窟にいった男の子が、女の化け物に飲み込まれて帰ってこない、というのも失敗例として思い浮かぶだろう。
ツタ巻き遺跡で、梅太郎がジョロウグモに捕まる話は、失敗しかかった例だ。
このゲーム中で「慈母」と呼ばれる女神アマテラスが、梅太郎とコカリを救う。
それは、コカリという母親のいない男の子の自立をめぐる、象徴的な母殺しと女神による救済の物語である。

そのジョロウグモが、死ぬと花が咲く。
殺された女神を巡る神話に「女神の死体から穀物が生えた」というパターンがある。
これは『古事記』にもある。
「大気都比売神(おほげつのひめのかみ)という食物の神が、口や尻から食べ物を出すのを見て、そんなものを食べさせるのか、と怒った須佐之男(すさのお)が、彼女を殺してしまった。その後、彼女の死体から稲や麦などの種が生まれた。」

これと少し似た話として、『日本の昔話』の「瓜子姫」の話がある。
こういう話だ。
「留守番をしていた瓜子姫をあまのじゃくがだまして、彼女を木につるした。あまのじゃくは、瓜子姫の服を着ていた。姫の泣き声で、騙されたことに気付いた養父母は、あまのじゃくを殺してその死体を黍(きび)の畑に捨てた。
黍の茎が赤くなるのは、あまのじゃくの血で染まったからだという。」

この茎の赤さの原因を直接、血がかかったからと見るべきか、血を吸い上げたと見るべきかは、わからない。
しかし、死体は良い肥料ということは、昔から知られていたであろう。
死体の埋まる土から生える穀物で、殺した動物の死体で、生きている人間は、いのちをつなぐ。昔の人はそこに「死と再生」を見た。
死と再生の象徴が種子というのは農耕民族で、生け贄というのは狩猟民族だという。前者は日本民族の神話であり、後者はアイヌ民族の神話である。狩猟の時代が終わると、狩りの獲物を生け贄として神に捧げる信仰は薄れ、生け贄を要求する神を倒す、農耕民族の英雄が活躍する。生け贄を要求するヤマタノオロチが倒される話は、狩猟を辞めて農耕を中心にした日本民族の神話である。この『大神』というゲームの物語の基本は、農耕民族の神話である日本神話である。

そして、このゲームでは、アマノジャクが死ぬと、花が生える。
桜の樹の下に屍体が埋まっていると書いたのは、昭和の梶井基次郎だ。

死者が花から再生するというのは、仏教の「釈迦が蓮の花の中から、仏を出現させた」という逸話や「死者は極楽浄土に咲いている蓮の花から、あの世に生まれ変わる」という「蓮華化生」の信仰がルーツだろう。
更に遡るとヒンドゥー教の「ヴィシュヌからブラフマーが生まれた」話にいきつくようだ。
これは男の神の臍から咲いた蓮の花から、男の神が生まれた話である。
参考『
インド神話―マハーバーラタの神々

原始の女神というのは、「母なる大地」であるという神話は世界中にある。
生み育てる者は、母である、ということだろう。
ただ、この『大神』には、直接それに相当する存在は出てこないと思う。
サクヤは大地そのものというより、大地の娘である。

天照大神は日本の主神にあたる存在で、天皇の祖先とされている。
アマテラスはこのゲームでも、太陽神である。

多くの場合、男である天皇はその地上の権力の根拠を、遠く天にいる母親的存在に求めた。
女神に保護された英雄が、国を治めるというイメージなのだろう。

このゲームも、女神の愛情が英雄を保護するという物語である。

ヒミコ編の物語では、アマテラスの役割は女神と言うより、英雄である。

英雄を助けるヒミコは子供(民)のために死ぬ母親であり、清らかな巫女である。
古代に女の天皇が多かったのは、神の声を聞くシャーマンとしての能力を当時の社会が統治者に求めていたからだろう。
例えば、古事記には神宮皇后という皇后が神憑りになった話がある。アイヌでは女性は、全員神々に憑かれるシャーマンだった、とアイヌの研究をした言語学者の金田一京助は書いた。『大神』のピリカ(アイヌ語で「良い」という意味)が、巫女であるのはこういところからも来ているのだろう。
ツヅラオは男に仕えて子供を裏切る母であり、誘惑者である魔女だろう。

このゲームの宇宙船に乗り込んでの、最後の戦いの主題は、息子の母からの自立であろう。

イッスンは、ウシワカから言い渡されて、アマテラスから自立し、祖父の仕事を継ぐ決意をする。

母親と別れることに罪悪感を感じて家から出られない男性が、多く存在するのが、現代日本である。それはいざという時に、厳しく言うことのできる父親が減ったせいでもあるだろう。

だが昔の、農民の男性は「自立」なんかしなかった。
10代で結婚し、祖父母や両親のいる家で妻子と暮らし、一家総出で働く。
江戸時代、男性がマザコンであることは、社会問題にはなりようがなかった。
息子は一生母親の側にいて、母親と一緒に生活するのが普通だったから。

家から出て働くことが、当たり前になったこの時代では、大人になるのは昔よりも冒険だ。

アマテラスの最後の敵は、常闇ノ皇である。『大神繪草子 絆』によると、このルーツは干支の関連で空亡。0を意味し、虚無とも言われている。
この武装した胎児のような存在は、悪しき幼児性の象徴だろう。昔の数え方なら、0歳児とは胎児のことだ。
自分が王様であると思っている子供は、母親の敵である。

絵師として自立したイッスンが、アマテラスにしてあげられることは、自分の仕事をまっとうするということだった。
そして息子の愛情が、死にかけた母を救うのである。
別れによって母を捨てるのではなく、遠くから支える。
イッスンの働きによって、アマテラスが自分達を慈しんでくれたことを知った人たちも、母なる女神に感謝を込めて祈りを捧げる。
それがこの「女神の死と再生」の物語の、クライマックスだ。

この祈りで神が再生するというのは、古くから存在する信仰である。4世紀のインドの叙事詩『マハーバーラタ』では、神々の王インドラ(仏教では帝釈天)の再生を描いた場面がある。

(ナフシャという悪しき王を退治してくれと頼むために)ブリハスパティ(祈祷主神)は神々や聖仙や半神たちとともに出かけ、インドラの過去の業績を讃え、「神々ともろもろの世界とを守護をして下さい。力をとりもどしなさい。」と頼んだ。インドラは讃えられると、次第に本来の姿にもどり、力に満ちあふれていった。参考『インド神話―マハーバーラタの神々

アイヌ叙事詩『ユーカラ』の前書きで、アイヌの神々について、金田一京助はこう書く。

即ち、神と人とは、隣人同士のように、お互いに、相依って立つ存在で、神様は、人に崇められて始めて尊く、人は神様に護られて始めて栄える。人に崇められなかったら、神様はみじめな暮らしをするし、神に護られなかったら、人間の仕合わせということがない。(原文は旧かな使い)

『大神』のアマテラス復活の場面は、猫鳴き塔の元がカリン塔であるように、『ドラゴンボール』が元でもあろうが、このようなアイヌの自然崇拝を参考にしてもいるだろう。祈祷や儀式や祭りは神々に力を与え、地上に招くために行われる。同じくこの『大神』の話の元である、日本神話の天の岩戸の話も隠れた日の女神をこの世に呼び戻すために、アマノウズメというダンサー付きで、盛大な祭りを開く話である。

女神を復活させるために壮麗な儀式を行うのではなく、民草がそっと手を合わせて祈る。この『大神』の表現は、祭りが神を地上に招くものではなくなった現代にふさわしい表現であろう。


初出・2006.7.27 改訂・2006.10.29 文責・水沢晶