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第四章  紅玉の瞳

「デミトリ様……到着致しました」
 魔王の城についたデミトリはカミーユを伴って馬車から降りた。後続の馬車から供の者達も次々に、降りる。
 馬車、と言っても馬ではなく立派な角を持つ歴とした魔界獣だ。
 魔王の後継者の姿が、主だった貴族の前に披露される日が来たのである。他の貴族の馬車も次々に到着しつつあった。
 デミトリは、魔王の城を見上げて、その歴史を思った。
 彼の城とは違う古風な建築方式と装飾。デミトリの城は華麗でやや装飾過剰だったが、この城は重厚な雰囲気を漂わせていた。色あせた石の柱が、かえって犯し難い気品を感じさせる。
 それが立つ崖に彫られた巨大な魔物の顔に目をやって、見るものを威圧する城だな……とデミトリは思った。
 この古く巨大な城は長くアーンスランド家が、魔界の支配者であることを示していた。
 だが、いずれ……デミトリは心ひそかに思うと、名を告げて門をくぐった。

 パーティー会場は魔王の宮殿の大広間だった。
 傍らにカミーユを伴い、数々の貴族と談笑しながら、デミトリはこの宴の主役の登場を待ち侘びていた。
 彼なりに色々調べたが、結局養女となるはずの女に関して詳しいことはわからなかった。「モリガンという名で、種族はサキュバス。性格は気まぐれで、容姿は美しい」ということだけが確実な情報だったが、それだけでは何もわからないに等しい。魔王が選ぶからにはおそらく魔力も相当なものだとは思うが、サキュバスではたかがしれているという気もする。
 ……どんな女なのだ。モリガンという女は。
 この疑問は客のほとんどに共通するものだった。
 強いのか。美しいのか。魔王との関係は。
 すでにモリガンに会っているジェダは、他の貴族の品のない憶測をうんざりしながら聞いていた。
「サキュバスでは魔力もたいしたことあるまい。どうせ色香だけがとりえの愚かな女さ」
 などと低い声で貴族たちが話しているのを聞きながら、ジェダは内心で「愚かなのはおまえたちの方だ」とつぶやいた。先入観でばかり語り、確かさを求めない。こういう連中が魔界を支配しているかと思うと頭が痛くなる。
 その時、広間にラッパが響き渡った。
「魔王ベリオール陛下並びに、モリガン様のご登場である…!」
 客の目がいっせいにそちらを向いた。
 ひとりの女が魔王に伴われて立っていた。
 デミトリは目を見開いた。見覚えのある女だったからである。
 それは、半年ほど前に闘った女だった。
 魔界の扉から人間界へと初めて視察に出た彼は、成り行きで彼女と闘う羽目になった。
 別れ際、夢魔は言った。
「私たちがそういう運命ならば、またどこかで出会えるわ」
 彼は名乗る代わりに指輪を渡した。
 それは、そのまま別れるには惜しい何かを感じさせる女だったからだが、別に彼女が彼の城を訪ねてくるようなこともなかった。
 だが、ここで会うことになるとはな……。
 モリガンはゆっくりと階段を降りて来た。
 彼女の華やかさと堂々たる態度はその場に集まった一同の瞳に、まるで真夜中の太陽のごとく輝いて見えた。
 豪華な衣装にモリガンは身を包んでいた。深みのある濃い緑のベルベットのイブニングドレスは、胸元や優雅な模様を金糸で刺繍され、全体にきらめくダイアモンドがちりばめられていた。
 だが、実は見るものの視線は衣装や装飾品ではなく、その肉体や物腰や表情に注がれていた。
 そのローブデコルテの大きく開いた胸元からは、豊かな胸のふくらみと優美な曲線を描く鎖骨が見えていた。
 腰はぐっと引き締まり、腕はすらっとして長かった。その場にいた男の多くは釣り鐘形のスカートに隠れた下半身を想像しただろう。上があんなにあるなら下の方も豊かに違いない、と。
 「サキュバス」という種族名や「ひどいおてんば」という前評判に反して、その身のこなしは上品でありその微笑みはとても優雅だった。
 魔王が彼女を後継者にすることを真剣に考えて教育したことが、その一事からも察せられるな、とジェダは観察しながら思った。
 モリガンはそこに居並ぶ男女が皆自分に視線を注いでいるのを感じると、広間を見渡して女王の微笑を浮かべた。
 その微笑みを見てデミトリは、ほう、さすがに大した女だ、と思った。自分の価値に絶大な自信を持っている。
 男たちに囲まれて微笑しているモリガンにデミトリは近づいた。マキシモフ家当主と知って、下位の貴族達が脇にのく。
 デミトリは近くによって初めてモリガンの指に、例のブラックオパールが輝いているのに気が付いた。
「お久しぶりです。モリガン様」
 微笑みを浮かべてあいさつする。
「あら、どなただったかしら」
 デミトリの期待に反して、モリガンの方はどうやら本当に忘れている様子だった。
「そのオパールの指輪を贈らせていただいた男ですが」
「あら。あの方」
 さすがに思い出した様子である。
 モリガンの瞳が悪戯っぽく輝いた。
「あの夜はなかなかに楽しかったわ。またご一緒したいと思っていたの」
「こちらも、あの夜以来あなたのことを忘れられず、またお会いしたいと願っていました。それでは、再会を祝して一曲いかがですか」
 デミトリはすっと右手をあげた。その手を胸元にあてて優雅な一礼をする。
「そうね。悪くないわ」
「それでは」
 彼の手は宙に滑らかに曲線を描いて、モリガンに差し伸べられた。
 モリガンは男の手に、ブラックオパールの指輪の代わりに、大粒のルビーの指輪がはめられているのを見た。
「今夜の貴方の指輪は紅玉なのね」
「私の瞳の色ですよ」
 その言葉にモリガンはデミトリと視線をあわせた。
 その瞳は吸血鬼特有の赤い色。血の色が透けているのだろうか。
「なんて鮮やかな赤かしら。ルビーとすれば最高級ね」
「モリガン様。貴方の瞳も実に美しいですね。ペリドットのような瞳です」
「あら、なぜエメラルドではないのかしら」
 ペリドットはエメラルドに比べ一般に色が薄く、格も落ちる。モリガンの瞳は淡い緑なので、形容としては落ち着きのあるエメラルドより、生き生きと明るいペリドットという方が正しいかもしれなかったが。
「一点の曇りもない瞳だと言いたかったのですよ」
 エメラルドは鉱物としての出来方の問題で、必ずと言っていいほど石の中に疵がある。それが本物の証しとされるくらいだ。
「ふふ、ありがとう」
 モリガンはその答えに満足したらしく、デミトリにつっと身を寄せて踊りの態勢をとった。
 ふたりが踊る様は、多くの者に「なんて優雅な」というような感じに受け止められたが、それ以上に「あのマキシモフ公が先手を打った」という意味あいをもって受け止められた。
 その場にいた貴族の中には、モリガンを口説こうと思っていた者も決して少なくない。彼らは揃ってデミトリをライバル視した。
 デミトリはそのような嫉妬の視線が自分に向けられているのを一瞥して見て取り、計算どおりだと内心でほくそ笑んだ。
 モリガンはそういう周囲の思いを、ただのゴタゴタとして面白がっていた。
 この男とスキャンダルになるのも悪くないかも、とアデュースあたりが知ったなら「軽率です〜」と泣きそうなことを考えていたのである。
 一曲踊り終わった後、デミトリは「ラストダンスもご一緒に」と耳打ちして去った。
 息もきらさずに、ワイングラスを手にしたデミトリに、冷ややかで礼儀正しい声がかけられた。それはドーマ家当主の声だった。
「久しぶりだね。デミトリ。相変わらず君のお手並みは鮮やかだ。二言三言で初めて出会った女性をダンスに誘うとはね」
「いや、今回は初めてでなかったから誘えたのだが」
 ジェダはデミトリの前からモリガンを知っているような口ぶりにはっとした。モリガンをデミトリはどの程度知っているのか?
「あの少女を前からご存じか?」
「以前ちょっとしたことで、知り合ったのだがね。しかし、あの妖艶な女性に「少女」という形容はどうかな」
 そういうと彼は目を細めるようにして含みのある笑みを浮かべた。その言葉に、ジェダはデミトリがモリガンを「女」として見ているのを察し、「やれやれ」と思った。
 6000歳近いジェダにとっては、200歳のモリガンなど少女に過ぎない。
 デミトリはまだ400歳の若造のはずなので、別に構わないのだろうが。
 しかし……当然のことながらこの男もまた、モリガンをものにせんと狙っているのだ。野心と色欲から。そうでなければこうも「男」の笑いをしないだろう。
 油断はできない。表面上は和やかに世間話などをしつつ、ジェダはデミトリに対する警戒心を強めて行った。
「それでは、私は他の方々にも用があるので」
 とジェダはしばらく後、一礼してデミトリの側を離れた。
 デミトリも礼を返した。
 ジェダが察した通り、デミトリもまたモリガンを手に入れる気でいた。彼がモリガンという女が王位継承者になるという話を聞いてから、その決意をするまで5秒とかからなかったろう。
 しかし、その「モリガン」が「以前闘った夢魔」であると知り、彼の心には微妙な変化が生じていた。
 一言でいうなら、こういう感情だ。
 その地位抜きでも興味がある。
 そんなことを考えながら、デミトリはモリガンを見つめた。
 その時、彼の耳に憎しみに満ちた声が突き刺さった。
「デミトリ=マキシモフ公でいらっしゃいますな」
 振り返ってデミトリは先日パーティーで見た、カミーユの婚約者が立っているのに気づいた。
「おや君か。カミーユなら元気で、あそこにいるが」
 平然とカミーユの方を手で指し示す。
「あの尻軽女はもはやどうでもよい。それより貴様に用がある」
 その言いようにデミトリの眉が顰められる。
「何の用だね」
「貴様に決闘を申し込む」
「ほほう。これはこれは…。だが、君はまだ若い。命を大切にした方がいい」
 そのはなから馬鹿にした態度にジャービスはきれた。
「覚悟…!」
「おっと」
 デミトリが素早く後ろに下がったので、ジャービスの拳は近くのテーブルをぶち割った。
「きゃああ!」
 給仕をしていたメイドが悲鳴を上げる。近くの腕に覚えのある貴族達が数人がかりで、「早まるな」「陛下の前だぞ」などといってジャービスを押さえ付けた。
「この……」
 ざわめきの中、玉座を降りた魔王がその中心へと歩いて来た。
 悠然と進み出た魔王はこう問いかけた。
「ここで闘われては困るな。しかし、事情があることでもある」
 デミトリがジャービスの婚約者を横からかっさらったことは、当然魔王の耳にも入っていた。
 ジャービスの目にはまだ憎悪があったが、彼は冷静さを取り戻しつつあった。そして、その前に立つデミトリは、最初から冷静だった。
 魔王は対照的な二人の顔を眺めて言った。
「両者とも決闘を望むか?」
「もちろんです。この男を許すことはできません」
「はい。私としても身に降りかかる火の粉は、払わねばなりませんのでね」
「ならば明日の黄昏時、我が闘技場をお前達のために貸してやろう」
 その寛大な申し出に一同がざわめいた。
「はっ、喜んでそうさせていただきます」
 と意気込んでジャービスはひざまずいた。
「陛下のありがたき心遣い感謝致します」
 と落ち着き払ってデミトリもひざをついた。

 その騒ぎを遠くから眺めていたモリガンは、パーティーが終わった後、自室でアデュースに「何があったの?」と聞いた。
 アデュースはまずモリガンにパーティーでデミトリが連れていた女性を見たか、と聞いた。モリガンはうなずいた。
「あの女性はあの暴れた男性の婚約者だったんです。ですが、その婚約パーティーに招かれた折り、デミトリ様が見初めて自分の愛人にならないかともちかけて、そのままつれ去ったんです」
「あら、手が早いわね。女は嫌がらなかったの?」
「彼女はデミトリ様に一目惚れだったようです」
「そんなにいい男かしら」
 モリガンは小首をかしげていった。
「少なくともカミーユ様にとっては。おふたりが連れ立っている姿をお見かけしましたが、カミーユ様は満ち足りたご様子でデミトリ様の傍らで微笑んでおられました」
「あら、そうなの。気づかなかったわ」
「もう少し、他者を観察なさった方がよろしいですよ。モリガン様。そして、カミーユ様の両親は驚かれましたが、すぐさまデミトリ様から使者が送られて来ました。
 デミトリ様は金と外交上の便宜を図ることをお約束なさいました。
 両親の方々は彼の勢力をもお考えになり、それで納得しましたが、おさまらないのは婚約者です。
 これで兵さえ整えば彼の国にすぐ攻め込んでいたかもしれない、という位のお腹立ちだったようです。
 おそらく、デミトリ様がカミーユ様を己の愛人としてこの宴に堂々と連れて来ているのを見てついに怒り心頭に達したのでしょう」
 モリガンは浮き浮きした様子でその話を聞いていた。
「面白い話ね。明日の決闘が楽しみだわ」
「決闘自体はすぐ終わると思います」
 アデュースは事務的に答えた。
「デミトリの方が強すぎるから?」
 モリガンは微笑し、アデュースの目をのぞき込んで聞いた。
「ええ。さすが、よく見抜かれましたね」
 アデュースもにっこりと微笑み返した。

 その頃、自室に戻ったベリオールに従者が話しかけていた。
「魔王様、よいのですか? 大事な宴を台なしにしたあの者たちをお許しになられて」
「宴の見世物がひとつ増えただけと思えばよい。たいして面白いカードでもないだろうが、他人の情事の噂話と殺し合いの見物は暇な貴族達の最も好む所だ」
 魔王はなにもかもを、面白半分で見ているような物言いをした。

 魔王の闘技場は城の地下にあった。巨大な天然の洞窟を利用し、大理石作りの舞台と客席がしつらえてある。
 舞台の幅は50メートルほど。観客席は300ほどであまり大きくはない。限られた招待客達のための場所で、残酷な闘いや秘密の儀式、エロティックな見世物などがその舞台の上で行われていた。
 その日の黄昏時、闘技場には一杯の見物人が集まった。
 ほとんど全ての者が「デミトリの勝利」と信じていた。だからといってジャービスに同情するわけでもなく、大半の者の見解は「馬鹿だねえ」の一言につきた。
 といってデミトリを応援するでもない。むしろ、彼のこれまでのスキャンダルをひそひそと語っている連中が多かった。「あの男はちょっといい女と思うとすぐ……」「ですけれど、この前ある人妻からの誘いを……」「遊び好きな女も相手になさるが、やはり処女が……」等々。
 上品な方々が下品な会話をしている中で、ジェダは冷ややかにその手の話題を無視していた。
 彼の興味はこの闘いで示されるデミトリの強さにあった。その一端でも目にすれば、後々あの男と闘うはめになったとき参考になるというものだ。
 定められた時刻になり、ジャービスが緊張した面持ちで闘技場に出て来る。
 それに続いてデミトリが登場したが、こちらは緊張とは程遠く、悠然としていた。
 最も眺めの良い席に座った魔王が、立ち上がって言った。
「準備はよろしいかな。それでは、両者共に力の限り闘うが良い」
 そして、審判役が声高く叫ぶ。
「始め!」
 デミトリが踏み込んで、ジャービスの顔を目がけて拳を突き出す。
 ジャービスがとっさにガードし、ジャンプして後ろに下がる。
 彼の両手の人差し指が長く伸び、鞭状に変化した。
 ひゅっ、ひゅっと空を切る音がする。
 彼はリーチのあるそれを振り回して、デミトリを牽制した。
 デミトリは一旦下がって相手の攻撃パターンを読もうとしていた。
 割合単純だな、と見切ると「ファイア!」とコウモリで牽制し、そのまま前進した。
 コウモリをガードしたジャービスの目の前に突然デミトリは現れた。
 す…とジャービスに薔薇の花が差し出される。
「カモン ベィビィ……」
 デミトリは低く、甘い声で言うと彼に花を投げた。
 次の瞬間白煙が立ちのぼり、ジャービスの姿は寝間着姿の茶色の髪の女性に変化していた。
 女の首筋に魔物の鉤爪がかけられる。それは肌を切り裂き、がっちりと首をつかんだ。
身動きも出来ないまま宙に腕一本で吊り上げられる。
 ジャービスは本性を現したデミトリの姿を見て、ぞくっとした。
 青黒い肌。赤く輝く眼。長く鋭い牙。
 ジャービスの首から滴り落ちる血は、その魔物の唇に吸い込まれて行った。
「ぅん…」
 本人もぞっとするような呻きをジャービスは漏らした。
 吸血はほんの一瞬の出来事で、デミトリは血に濡れた唇を長い舌でぺろりとなめると、その手のひらから魔力を放出した。
 魔力の炎が一瞬ジャービスの体を包む。
 吸血鬼はそこで手を放し、女の体は地に落ちた。
 そのままデミトリは人間に似た姿に戻って、すう…と後ろへ下がる。
「お似合いだな」
 穏やかな声に嘲りの響き、止めに手慣れた投げキッス。
 観客席から驚きと畏怖の声に交じって、くすくす笑いが聞こえた。
 ジャービスは手をついて起き上がろうとした。肉体は男に戻っていたが、火傷が痛んだ。
 立ち上がろうとして、そのまま転倒する。
「無理は止したまえ」
 慈悲さえ感じさせるような優越感に満ちた声を聞きながら、彼は気を失った。
「勝負はあった。勝者はマキシモフ家当主である」
 審判役を魔王から仰せつかった貴族が声を張り上げた。
 闘技場の観客たちは鮮やかな闘い振りを見せた勝者に、惜しみ無く拍手と歓声を送った。デミトリに花を投げる貴婦人もいた。
 ジェダはそれを聞きながら、こういう所が魔界貴族連中の不可解なところだ、と思った。
 この場にいる者の中で、デミトリに好意的な者など少ないはずだ。なのに、勝てば喜ぶ。いや、別に憎んでいなくても悪口をいい、噂話のネタにするのがこの連中なのか。それとも勝者なら誰でもいいのか。礼儀だから、で拍手しているならそれはそれで裏表があって油断できないが。
 だがおそらく、面白いから噂をし、楽しかったから闘いに拍手したというのが、彼らの行動パターンから察する真相なのだろう。
 実に下らない。
 どうしてこう目の前のことだけしか考えられないのか。
 これだから、魔界には争いが絶えないのだ。
 ジェダは盛り上がった雰囲気の闘技場で、独り冷ややかにデミトリを見つめた。

 モリガンは特別席で闘いを見物した後、控えの間にデミトリを訪ねて行った。
「今日の貴方、なかなか素敵だったわ」
「モリガン嬢にそうおっしゃって頂けるとは。身に余る光栄でございます」
「明日の夜、貴方のお部屋にお邪魔してもいいかしら。ごゆっくりお話ししたいの」
 モリガンは上目使いに見上げて唇に笑みを浮かべた。
 それはとても妖艶な微笑み。狙った獲物は逃さない魔性の者の笑みだった。
「もちろん、歓迎致します。私の部屋は東の棟の2階の階段から左に4番目です。扉にファイアドラゴンの彫刻のある部屋なのでお間違えなく……フフ、今晩でも構いませんよ」
 こちらも耳元にそっとささやきかける。女は気持ち良さそうにしていた。
「今夜はお疲れでしょう。それでは、明日の夜に」
「それでは、後程お会いしましょう」
 デミトリは優雅に一礼をした。

 約束の夜、デミトリは話がうますぎると思いながら、自室として割り当てられた客室で、紅茶をすすりながら待っていた。
 だいぶ夜も遅く、からかわれたのかもしれない、と思い始めたころ扉をノックする音が響いた。扉を開けると、以前人間界で出会ったときのような格好のモリガンが、悪戯っぽい笑みを浮かべてたっていた。
「遅くなって、ごめんなさいね。なかなかこっそり抜け出すチャンスがなかったの」
「いや、君を待つ時間は楽しかったよ。さあ、部屋の中へ入りたまえ」
「いえ……実はお願いがあるの。外へ行きましょう」
「外へ? わかった」
 デミトリはモリガンと共に、物陰に隠れるようにしながら廊下を歩いた。
 モリガンの案内で使用人用の出入り口から、こっそりと城を出る。
 あたりを見回す彼らの頭上で、三日月が輝いていた。
 彼女はデミトリを、城の近くの洞窟に連れて行った。
 その洞窟の入り口には特殊な魔法がかけられていて、外からはそこに洞窟があると気づけないようになっていた。
「ここは君のお気に入りの場所なのかね」
 デミトリは暗い洞窟を眺めて言った。その洞窟は入り口からすぐの所が割合広くなっていて、天井からはクリーム色の鍾乳石が無数に下がっていた。
「そうよ。よく、ここにきているの」
 デミトリは、入り口の右脇の石作りの水路と池を眺めた。魔物の彫刻が抱える土管から紫の濁った水が流れ出している。地下水が洞窟内を水浸しにしないために作られたものだろうか。
「あの服は?」
 デミトリは左脇の細い洞窟に置いてある、ドレスを指して聞いた。
「こっそり遊びに行くときの着替えよ。服の側においてある柩には、小物類が入っているわ」
「城での暮らしは、そんなにも退屈なのかね」
「もちろんよ。それでデミトリ……」
「何だね、モリガン」
 デミトリはこんな所まで自分を連れて来た理由は、秘密の話があるか、色っぽい誘いかだろうと思っていたので、甘い声で名を呼んだ。
「実は私、あなたともう一度闘いたいと思っていたの。お手合わせ願えるかしら」
「……喜んで」
 彼は失望を気取られないように、穏やかな声で答えた。
「それでは……」
 とデミトリが身構えた瞬間、モリガンの表情が一変した。彼女らがいる広間から、二股に分かれる洞窟の左側の方の奥に向かって叫ぶ。
「誰かいるの? 出ていらっしゃい!」
「よくお気づきになられましたね。お待ちしておりました」
 そこから、武装した男たちが次々に現れ、すばやく出入り口を塞ぐように並んだ。
 リーダーと思われる男は顔を夜会用の仮面で隠していた。
「モリガン・ファルですな」
 モリガンはその名にぴくっと反応した。
「あなたたち何者?」
「答える義務はございませんな」
 ずざさっと男たちがモリガン達のまわりを半円形に取り囲む。
 その数は十三。デミトリは相手の魔力を推し量って、かなり強いが難しい相手ではないな、と思った。
 リーダーらしき男は落ち着き払って、モリガンの傍らのデミトリに言った。
「巻き込まれた君には気の毒だが、ここで死んでもらう」
「私を誰だと思っているのかね」
「この女の餌か玩具だろう?」
 当たり前のことと言わんばかりに答える。
 デミトリはその言い草に眼光を鋭くした。
「私に対する無礼は、死をもって償ってもらおう」
 かつん、と足音を立てて一歩前に出る。
「腕に覚えがあると見える……どこかの貴族に仕える、そこそこ地位のある戦士と言ったところかな」
 デミトリの服装と体格からそう判断を下す。デミトリは内心で「もっと上だ!」と思ったが、サキュバスが戯れる相手としてはそんなところだろうということも思った。
「モリガン、この男たちは全て殺すつもりかね」
「できれば、一匹か二匹残して。一応尋問するから」
 その会話を無視してリーダーの男は、前を向いたまま部下たちに言った。
「我が精鋭達よ、油断するな。仮にもアーンスランドの後継者候補だ。まず男の方から片付けろ」
「弱そうなやつから倒せ……戦術的に正しい判断だが、私が弱いという判断の間違いを思い知らせてやろう」
「ふふっ、さすがね。デミトリ」
 モリガンが楽しげに微笑む。
「マキシモフ家当主、まさか!」
「なるほど……我が名は知るとも顔は知らず、か。昨日の決闘を見物しなかったのかね」
「私たちは昨日ここへ……」
 男はそこで口をつぐんだ。
「遠くから来たばかりなのかね。それにその微かな訛り。貴様は、ここから北にある地方の士官だな。田舎者が。自分の不運を呪うがいい」
 男は一瞬ぎくっとした様子だった。しかし、身構えて部下たちに叫んだ。
「両者とも殺せ! 油断するな!」
 デミトリはすぐさま後ろに跳んだ。地に降りると同時に「ファイア!」と炎をまとったコウモリを放つ。それは避けようとした男の喉笛に噛みついた。
 モリガンはふわりと天井に舞った。次の瞬間翼が変じた無数の針が、男たちを突き刺した。
 デミトリに男の一人が飛びかかる。デミトリも跳び、空中で相手をつかんで、頭から地上に叩き落とした。
 モリガンがしゃがみこんで近くの男に足払いをくらわし、ヒールで踏み付ける。
 蹴る、殴る、投げる。しばらくすると襲われた側の方が素早く、判断も的確だということに襲った側にも明らかになってきた。ともかく暗殺者の側の攻撃がまともに当たらないのに比して、一対の男女の攻撃は確実に相手にダメージを与えていた。
 傷、打撲、骨折。モリガンの肌から血を飛び散らせた男は、次の瞬間心臓をモリガンのドリルと変じた手によって貫かれていた。
「私の肉体に傷をつけるなんてばかな男ね」
 モリガンは頬に飛び散った返り血を、優雅な指で拭った。
 その脇でデミトリは、目の前の男のあごを拳で砕いていた。
 その有り様に残る暗殺者達に脅えが走る。たかがサキュバス一匹、そう思って来たのだが、彼女自身の強さもさることながら、「闇の貴公子」として有名なデミトリの強さは、こんな力ある戦士と闘うなんて話は聞いていない! と叫びたくなるようなものだった。
 無意識のうちに後ろに下がる暗殺者に、デミトリが跳び蹴りを食らわし、相手がのけぞると同時に翼で斬りつける。
 もう一体が後ろから、デミトリに殴り掛かるのを、彼はしゃがんでかわすと同時に足払いをかけ、倒れた相手の腹を容赦なく踏み付けた。
「次は誰だね」
 再びマントへと変じた翼の端から血を滴らせ、楽しげに言う。
 その笑みを見て、前に進もうとする者はいなかった。
「来ないならこっちから行くぞ」
 低い声で言うと、恐怖で硬直した男の喉に指を突き立てて、溢れる血に濡れた爪を嘗める。その男の体を寄って来た別の男に投げ付ける。ぐっと手の甲で口を拭う。太い牙を見せて笑う。
「悪くない。もっと血が欲しいものだな」
 ひっ、という悲鳴が挙がる。やはり「喰われる」ことは単に「殺される」こと以上に恐ろしい。
 少し離れた所では、モリガンが、
「おととい、いらっしゃい」
 と男をブーツで蹴り上げていた。
 暗殺者たちがすべて地に倒れふすまでに、そう長い時間はかからなかった。


「拷問で吐く可能性は低そうね」
 ひとりだけ生き残らされた、リーダーらしき男を3、4回けり飛ばして、モリガンは言った。
「もちろん、城に戻れば最新かつ最高の拷問設備が整っているし、それも楽しいんだけれど、謎を解く手段としては無意味だわ」
 デミトリはにっと牙を見せて不気味に笑った。
「手段はある。その代わりこの後、この男を証人として公式の場に出すことは出来なくなるが」
「それでいいわ」
 モリガンは霜の降りたような声で言った。
「それでは」
 デミトリは男の胸倉をがっちりと掴むと、後頭部をドンとたたいた。
 気絶した男のあごががっくりとのけぞる。デミトリはそのケープを外し、上着の上の方のボタンを外して、男の首筋を露出させた。
「なるほどね……」
 モリガンが納得したようにつぶやく。
「あまり女性には見せたくない姿なので、後ろを向いてくれないか」
 モリガンは相手の美意識に、敬意を払った。
 次の瞬間デミトリの姿が変貌した。まとっていた燕尾服が陽炎のように揺らめいて消える。青黒く肌の色が変色する。炭火のように赤く目は光り、広げられた皮の翼は不吉に黒い。
 尖った牙を剥き出し、喉に突き立てる。牙が肌を破る瞬間、男は空気を切るような短い悲鳴をあげた。だが、すぐに眼を見開いたままぐったりとしてしまう。それは恍惚の表情にも見えた。血を啜る音が洞窟内に響く。
 やがて、デミトリは満足したという表情を浮かべて、身を離した。
 見る間に彼の姿が元の貴公子然としたものに戻る。
「もうこちらを向いてよい」
 彼はモリガンに言った。
 デミトリは爪で自分の人差し指の第一関節あたりを切った。
 僅かな血が滴り落ちる。
 それを半開きになった男の唇に押し込む。そして、
「嘗めろ」
 とだけ言う。男は最初嫌がっているようにも見えたが、しばらくして引き抜かれたデミトリの指に赤い色はなく、透明に濡れていた。
「さあ、今宵からは私がお前の主人だ。まず名前を聞こう」
 それは優しい声。とても優しい声。
 側で聞いていたモリガンは、なんて冷たい声だろう、と感じた。それは絶対に逆らえない者に対する声。
「名は、アルノー=ウィグルス」
 半ば夢の中にいるような声で答える。
「敬語を使いたまえ。それで、どこの貴族に仕えているのかね」
「アーンスランド家のベロア地方の分家でございます」
「ほう。この度モリガンを襲った理由は?」
「はい。分家の当主エゼルブ様の母上が、息子をアーンスランド家の後継者にしたいとお考えになり、モリガンを亡き者にするようにと仰せになりました」
「なるほど。おおよその事情は解った」
 デミトリは言い、モリガンを見た。
「何か他に聞きたいことはあるかね」
「別にないわ」
 デミトリは、もう一度強く後頭部をたたいた。
 アルノーは再び倒れた。
「それでは、邪魔が片付いた所で闘うかね」
 モリガンは死体が積み重なる中で、
「さすがに今夜これ以上闘う気はないわ」と返事をした。
「そうか。それでは、このまま部屋にお帰りかね」
「ええ。悪かったわね。こんな戦いに付き合わせて」
「いや、楽しかったよ。しかし、君の闘っている姿は本当に美しかったな」
 デミトリは低い声で言うと、すっとモリガンの肩を抱き寄せた。
「やめてよ。そんな気分じゃないわ」
 モリガンは静かに肩の手を外した。
「おや、ショックなのかね。命を狙われたことが。君のような立場ならこれまで何度もこんなことはあったと思うのだが……それでも身内との争いは、嫌なことであることに変わりはないかね」
「お互い身内なんて思っていないわ。向こうにとってはサキュバスなんて下等種族よ。こちらから見れば、暗殺を企てる連中は血筋ばかりで力もなく、それを認めない馬鹿ばっかり。こんないざこざにはもう、うんざりしているわ」
「随分前から権力争いに傷つけられて来たのだね」
 デミトリが穏やかな声で慰めるように言う。
「権力なんて下らないわ」
 モリガンは断言した。
「ご存じかしら。実は、アーンスランドの一族の中で「賢い」と言われる者たちはみんな私に手を出さないのよ。私が死ぬのを待っているの。あいつらはみんな千年は生きるのだもの」
「そうか。サキュバスの寿命は400年。君は、あと200年の命なのだね」
「貴方も長命種よね。吸血鬼だもの。ふふっ、このまま行けば、ベリオール様より私の方が先に死ぬわ。何のために私を後継者に指名なさったのかしら……」
 モリガンの顔に憂いの影が差す。彼女は思い出していた。魔王の予知を。
「ふっ、これまで私は君を単なる遊び好きと思っていたが、実は短い生を激しく生きる気なのだな」
「そうよ、快感が好き。永遠の愛なんて無意味だわ。たった200年なのに」
「ならば、数少ない夜を快楽の炎で彩るのもよかろう。夜はまだ始まったばかりだ。今宵は私と共に一瞬の高みを目指さないかね」
 モリガンはデミトリの顔を一瞥した。
「悪くないかもしれないわね」
「かなりいい相手だと思うがね。望むだけ抱いてやろう」
 モリガンはデミトリの肉体を、額から足の爪先まで見た。
「そうね。このまま部屋に帰っても、嫌な気分で眠れないだけね」
 慣れた笑みを男に向ける。
 デミトリはモリガンの腰を撫でるようにして抱いた。モリガンは逆らわずに目を閉じた。
 男は女の唇をそっと指でなぞってから、自分の唇を重ねた。
 一回目のキスは軽く。
「血の味がするわ」
 唇を離してモリガンはつぶやいた。
 デミトリはその言葉に微笑した。
「…ん、このままここでやるの?」
 モリガンはのけぞるようにして顔を離して聞く。
 暗い洞窟のあちこちには、血塗れの屍が転がっていた。
「死体の側では嫌かね」
 デミトリは楽しげに聞いた。
「それは別に。ただ石の地面は堅くて冷たいから」
「なるほど」
 というとデミトリはいくつも転がっている暗殺者たちの屍に歩み寄り、鮮血が飛び散っているケープを引き剥いだ。
 5枚程持って来てモリガンに、「これを敷いたらどうか」と聞く。
「どうせなら13枚全部持って来て」との返事だったので、デミトリは「柔らかいに越したことはないな」とアルノーの分を含めて、13枚を洞窟の奥まったところに重ねて敷いた。
「これで問題はないな」
「ええ。結構よ」
 とモリガンは言うと伸びをするようにゆるやかに両手をあげた。たちまち彼女の服がコウモリに変じ、洞窟の天井へと舞い上がり、そこにぶら下がる。まるで、逆さに散る黒薔薇の様だとデミトリは思った。
 一糸纏わぬ姿になると、モリガンは血の滲むケープの上に座り込んだ。
「さあ、あなたも脱いで……」
 デミトリは自分の胸元から太もも辺りまでを、愛撫するようになで降ろした。
 それと共に、その肉体に纏われた衣服がゆらりと霞み、上から消えていく。女の目にはそれは、服が皮膚に吸い込まれるようにも見えた。最後に、マントが翼に変じ、その翼が折り畳まれるように背中に消えた。
「ありきたりなほめ言葉だと思うだろうが、君は実に美しいな」
 デミトリは血染めのケープに、モリガンを押し倒しながら囁いた。

 夜が終わるまで、男女の手足は絡み合い、離れることがなかった。
 朝になるころ、彼らは洞窟の中の池に、そこら辺の死体を投げ込んで、服を身にまとった。
「今夜は楽しかったわ」
「また会いたいな」
「気が向いたら、また誘うわ」
 モリガンは爽やかとさえ形容出来そうな表情でそう言うと、洞窟の入り口でデミトリと別れた。
 デミトリは、傍らにひざまずいているアルノーを振り向いた。彼の顔色は青白く、ケープにはしわが出来ていた。
「これも成り行きだ。君は今日から私の従者、吸血鬼の一族の者として暮らすのだ」
「かしこまりました」
 アルノーは、新たな主人に向かって、深くこうべを垂れた。


                            五章に続く


 2000.6.14.脱稿

 作者 水沢晶

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