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       第十章 血赤珊瑚の首飾り 
      
       ある日いつものように食事の後、少しだけ会話をして、デミトリはモリガンを寝室に連れて行った。 
       さあ、とばかりにモリガンを押し倒そうとすると、彼女は「待って」と言った。 
      「もういいの。私の血をあげるわ」 
       暗く、だが妙になまめかしい声だった。 
      「なぜ?」 
      「もうこんな生活は嫌よ。ここから出たいの」 
       ねだるようなその声には、絶望の響きがあった。 
       デミトリはその言葉に、閉じ込められたモリガンの辛さを思った。どことなく意外な気がしたのはここ一週間の彼にとってのモリガンは「自分に抱かれて喜ぶ女」だったからだった。 
       しかし考えてみれば、彼女は望んでここにいた訳でも、抱かれていた訳ではなかった。それは当然のことだったが、行為中の態度でなんとなくそうではないように思っていたのである。 
      「退屈な牢獄から出る方法は、死体になるか、貴方の僕になるしかないというのなら」 
       モリガンは憂鬱な声で言った。 
      「死ぬのは嫌。だから……貴方のモノになるわ」 
      「そうか。誇り高い死よりも、甘美な奴隷の日々を選ぶか」 
       くい、とデミトリはモリガンのあごに指をかけて持ち上げた。女の瞳はひたと男を見つめた。諸悪の根源であるあんたに、卑怯者なんて言われたくないわ。それは、ひとかけらの誇りを示すようにデミトリには思えた。静かに微笑む。 
      「なに、悲しむことはない。一度我がものとなれば大きな安らぎと快楽を与えてやろう」 
       そう言ってモリガンをベッドに寝かせる。 
      
        
       
       仰向けに寝ているモリガンの、露になった首筋を撫でる。血の脈を感じる。ここに、頸動脈がある。 
       次の瞬間彼の姿が変貌する。血に飢えた魔物本来の姿へと。 
       舌舐りをして唇を濡らし、喉に押し付ける。舌で探り、狙いを定め、牙を深く突き立てる。 
      「あっ」 
       苦痛にモリガンの体がはねる。だが、牙は外れない。唇を押し当てたまま、デミトリはそれをくっと抜いた。 
       血が傷口から、デミトリの口の中へと溢れる。喉を鳴らしてそれを飲み干し、流れ出続ける血を唇で吸う。 
       ……だいぶ喉が潤ってから、彼は自分の体がざわめくのを感じた。 
       もちろん吸血の時は彼にとって最も興奮する時間だったが、何か違うものが意識に入りこんでくる。 
       満たされていく心地よさではなく、体の奥から飢えが迫り上がってくるような、よく覚えのある感覚。  
       欲情している。 
       デミトリは自分に驚いた。これは始終この女を抱いていたせいか? 
       だがこの欲情の仕方は、かなり唐突で不自然だ。 
       催淫剤でも飲んだような……まさか! 
       デミトリは医師の「一番の催淫剤は、サキュバスの体液や分泌液」の言葉を、はっきりと思い出した。 
       あの時はなんとなく、体液や分泌液とは汗や唾液、そしてあそこから溢れるあの液などのことかと思っていたが、考えて見れば血液も体液のうちなのだ。 
       まずい、と感じた彼はとっさに指を、自分の喉の奥に突っ込んだ。 
      「おうっ」 
       自ら飲んだ血をシーツの上に吐く。 
       だが、すでにかなりの量が体中に回っているらしい。体の火照りはますますひどくなっていく。 
      「このデミトリを罠にかけるつもりで、喉を差し出したのか、モリガン!」 
       モリガンは不気味に微笑んだ。それが答えだった。 
       彼が血を吐き出している間に、モリガンはするりとベッドから降りた。 
      「最初、吸血鬼のあなたにも、夢魔の血が効くかは解らなかったの。でも、この前私の傷からの血を嘗めたあなたは、柄にもなく興奮していたわね。随分、乱暴してくれたじゃない」 
      「あれは君の血のせいか…!」 
       デミトリは、呻くように言う。 
      「それだけでもないという気はするけどね」 
       モリガンは距離を置いて、自分を睨むデミトリを見つめながら言った。 
      「あなたのお人形さんたちはともかく、血の熱い女は裏切るものよ。覚えておきなさいな、貴公子様」 
       挑発的に微笑むモリガンを見て、デミトリは己を呪った。 
       彼はここしばらくモリガンが誇り高く、頭のいい女だというのを忘れ、抱き心地のいい女だというようなことばかり考えていた。デミトリは自分が淫魔の術中にはまっていたことに気が付き、唇を噛んだ。 
       モリガンはデミトリのそんな胸中を察して、嘲りの笑みを浮かべた。 
      「おとなしく抱かれていたのは、怪我がなおるまでの時間稼ぎだったのよ」 
       ばさりと服を脱いで、白い裸身をさらす。 
       下着は着けておらず、黒いハイヒールだけが残り、妙に淫靡な印象だった。 
       そしてそのまま、デミトリの脇腹に蹴り込む。 
       裸に気をとられてデミトリの反応が一瞬遅れる。 
      「うぐっ」 
       かわし損ねてよろめくデミトリにモリガンが平手打ちを食らわす。  
       デミトリが拳を突き出すと、モリガンは素早くよけた。 
      「どこを見ているのかしら」 
       モリガンの声が挑発的に響く。その声にデミトリは自分が闘いの最中だというのに、相手の揺れる乳房や、下腹の茂み、太ももなどに目を奪われていることに気が付いた。 
      「遅いわね」 
       モリガンがいいざま、延髄に拳を打ち込む。 
       デミトリはぐらっとした。 
       彼は自分でも自分の体の反応が遅いのがわかっていた。ともかく闘いに集中出来ず、体も思うように動かない。 
       だが負ける訳にはいかないとばかりに、右脚を蹴り上げる。モリガンは難無くかわした。 
      「えいっ!」 
       モリガンはデミトリの右腕をつかんで、思いっきり投げ飛ばした。 
       肩を押さえながら、素早くデミトリは立ち上がった。 
       モリガンがもう一回投げようと近づく。逆にデミトリに鎖骨の下辺りをしたたか殴られた。 
      「痛いわねっ」 
       怒りに任せてモリガンはデミトリに、もう一度平手打ちをかました。 
       見事にあたり、高い音が響いた。モリガンはもう一発とばかりに手を引いた。 
       デミトリは次のモリガンの攻撃を警戒して、防御の姿勢をとった。 
       それを見たモリガンは、とっさにしゃがみこんで、デミトリに足払いをかけて転倒させた。 
       うつ伏せに倒れたデミトリに、モリガンは容赦なく蹴りを入れた。 
       膝で、靴の爪先で、靴の踵で、すねで、足の甲で、腹や胸を集中的に攻撃する。 
       苦痛に呻くデミトリの背中をヒールで踏む。動けなくなったのを見計らって、左足首をひねって足をくじかせる。 
      「ううっ」 
      「勝負あったわね」 
       モリガンは勝ち誇った笑みを目元に浮かべて、デミトリを見下ろした。 
       デミトリは屈辱感に苛まれながら、「そうだな」とつぶやいた。 
      「さあまずあなたには、全ての扉を開いて貰うわ」 
       モリガンは床にはいつくばったままのデミトリに言った。 
      「いやだ、と言ったら私を殺すのか? だが、私を殺せばどのみち出られない。君もここで死ぬ」 
      「そうね。でも、このまま吸血鬼の花嫁になるよりも、私はあなたとの無理心中を選ぶつもりよ」 
      「扉を開いた後で、君に殺される可能性もある。逃げられて殺される位なら、私も無理心中を選ぶな」 
       この期に及んでの冷静な判断にモリガンは、少しだけさすがと思った。 
      「私が約束を守って、あなたを殺さないという一縷の望みに賭けるのね」 
      「実に信用出来ないが、それしか無さそうだな」 
       言い捨てて、足を引きずりながら次々に扉を開ける。 
       その間にモリガンはもう一度部屋着を着直した。 
       扉をすべて開け放つとデミトリは人間に似た姿に戻り、モリガンの肩に手をかけようとした。 
      「あら、何をするつもりなの」 
       モリガンはするりとかわして微笑んだ。 
       デミトリはどうせこの女の血のせいだとばかりに露骨に言った。 
      「体が欲しい」 
      「自分でなさったら?」 
      「君の血のせいだろう」 
      「ふふっ。もっと飲む? 意識不明になれるわよ」 
      「いっそ、最初からそうなっていれば、錠を開けることも出来なかったのにな。だが、今はそんなことより……」 
       と再びモリガンの腰の辺りを抱こうとする。 
       モリガンは、またもかわしてこう言った。 
      「忘れたの? 今はあなたの方が立場は弱いの。私を抱きたいなら、そこの床にひざまずきなさいよ」 
       はらわたが煮え繰り返るような気がしたが、彼は膝をついた。    
       モリガンはベッドに腰掛けて、靴を脱ぎ、男の方へ足を伸ばした。 
      「さあ、私の足に口づけして頂戴」 
       デミトリはモリガンを刺すような目で見た。 
      「嫌だと言ったら?」 
      「この場で止めを刺してあげるわ」 
      「扉を開けたのにかね?」 
      「ふふ。キスすれば殺さないわ。あなたの私に対する数々の無礼を、足を嘗めるだけで許してあげようというのよ。優しいと思わない? それとも、ここで死にたい? なら、あなたの野心もここで終わりね」 
      「……」 
       デミトリは黙ってモリガンの足を手にとった。 
       柔らかな足は彼の手にすっぽり収まった。軽く握ると弾力があり、撫でると軽石と化粧油でよく手入れされたその感触が、今の彼にはたまらないほど官能的だった。丁寧に紅を塗られたその爪先に口づける。 
      「これで満足かね」 
       足を握ったまま唇を離して、問う。 
      「ええ」 
       モリガンはデミトリの肩に腕を回して抱き寄せた。 
      「あなたの傷ついた顔、かわいいわ。本当にそそるわね」 
      「なら、いいのだな」 
       デミトリはぐっとモリガンの肩をつかんだ。 
      「ええ。私を満足させて頂戴。乱暴にはしないでね」 
       その言葉が終わらないうちに、デミトリはモリガンの服を引きはいだ。 
       そのまま後ろから抱いて、胸をぐっとつかむ。 
      「あっ……なに、がっついてるのよ。いかにもやらせろって感じじゃない」 
      「不満かね」 
      「もちろんよ。あなたは自分の欲望を満たすことより、私の快楽に奉仕することを優先すべきなのよ」 
       美しい勝者は男の方を向いて座り、その表情を目を細めて眺めながら、整った指で男の顔や首を撫でた。 
      「まずは淫らな口づけでうっとりさせて。その次に体のあらゆる部分を、その長い指と舌で愛撫して。白い肌のあちこちに、唇で紅の跡をつけて、そして・・・ふふ。続きはその時にいうわ」 
      「細かい注文だな」男は苛ただしげに言った。 
      「あなたの前戯の技術を、高く評価しているのよ」 
      「私をいじめて楽しいかね」 
      「ふふ。もしこれまでに私が、あなたに愛に似たものを感じた時があるとするならば、それは満員の闘技場であなたに勝った時よ。私の目の前で負けたあなたが悔しそうにひざを折っている姿を見て、『結構、可愛いかも』って思ったの」 
      「…………ふん」 
       デミトリはモリガンの背中に腕をまわし、指を唇にあてた。 
      
        
       続けざまに三度激しく交わった後、デミトリは唇を横一文字に結んだまま、覆いかぶさるようにして、モリガンの唇に口づけようとした。唇を半開きにしてそれを迎えようとした瞬間、モリガンの直観が危険を知らせた。ぱしん、とデミトリの頬をひっぱたく。 
       ごほごほっ、とむせてデミトリはシーツに血を吐いた。今の平手打ちでの出血にしては多い量だった。 
      「口を閉じてキスするなんて変だと思ったけど、こういうことだったのね」 
      「……何のことだね」 
       デミトリは口ではしらばっくれたが、その瞳は失敗した悔しさを隠しきれなかった。 
      「とぼけないで。吸血鬼が他者を下僕とする儀式は、主となる者が、己が血を相手に飲ませることで完成する……。自分の舌の端か頬の内側を噛んで、その血を私に口移しする気だったのね」 
       モリガンは真正面から男の目を見て、言った。 
      「ごまかしても無駄のようだね。さすが、サキュバス。こんな時でも、いや、こんな時だからこそ男の表情の観察は怠らないということか」 
       デミトリは暗く笑った。そして、そのままモリガンの反応をまつ。企みが露見した以上殺されるだろうと思って。 
      「まあ、いいわ。途中だし。ともかく続けましょう」 
       モリガンはそう言って、意外そうな顔をするデミトリの頭を抱いた。 
      「その代わり、口はゆすいでちょうだい。そのままじゃ軽いキスさえ出来ないわ」 
       デミトリは言われるままに、差し出されたコップの水でうがいをした。 
       するとモリガンはデミトリの顔を上に向けさせるようにして、唇を重ね、大量の唾液を男の口の中に流し込んだ。 
      「飲んで」 
       デミトリは、ぎょっとした顔になり、モリガンに不審の眼差しを向けたが、 
      「もっと楽しみましょうよ」 
       と言われ、そのまま飲み込んだ。 
       するとモリガンは再び唇を重ねた。 
      「また飲んで」 
       仕方ないと言った顔で、喉を微かにならしたデミトリのまぶたをそっと夢魔が撫でた。 
      「お休みなさい。続きはあなたの夢の中でしましょうね」 
       デミトリは眠るまいとして一、二度瞬きをしたが、効果はなかった。 
       続けざまの興奮と快楽のせいで、肉体よりも精神が疲労していた。 
       そのままデミトリは眠りの闇に落ちた。 
       そして、モリガンはぐったりしているデミトリの唇に指で触れた。 
      「ふふっ。美味しそう。ずっと食べたかったのよね」 
       彼女は紅の唇を男の唇にそっと重ねた。 
       モリガンはデミトリの夢の中に、するりと自分の心を忍び込ませた。 
       
       最初にモリガンが潜り込んだのは、濃厚な欲動の闇。 
       ここはちょっと深すぎるわね、と周囲を満たす「飢え」を感じて思う。原初的であるがゆえに強い欲動に同調しないように、意識を引き締める。 
       辺りに立ち込めるのは、ただただ「触れる」ことを求める気配。 
       触れて気持ちよくなりたい。 
       そこには、「手で」とか「舌で」とか「性器で」とかいう自分の肉体の「どこで」という意識もなく、「唇に」とか「乳首に」とか「性器に」とかいう相手の肉体の「どこに」という意識もない。 
       もちろん、「掴む」とか「嘗める」とか「入れる」という「どうやって」もなく、「優しく」とか「荒々しく」とか「激しく」とかいう「どんなふうに」もない。 
       この深さの欲望には「認識」というものが決定的に欠けているため、混沌たる闇としてしかモリガンには感じられない。 
       だがどろどろと渦巻く言葉にならない飢えは、モリガンの心の奥にある同じ闇を揺さぶる。 
       長居したら、自分が誰かを忘れそうだ。 
       モリガンは「上」を目指して、ゆっくりと心の海を泳いだ。 
       やがて欲望の闇が生々しく蠢く辺りに到達する。 
       その辺りに漂うイメージの断片を見やって(映像として受け取って)、随分いやらしい光景ね、とモリガンは心の中でつぶやく(デミトリの精神世界にその言葉が情報として伝わらないようにしつつ言葉で考える)。実はそんなもの(精神世界における様々な性的空想)は見慣れたものなのだが。 
       もしこの言い草をデミトリ(の自我)が耳にしたら、「勝手に他者の精神の中に入り込んで、わざわざ性的な部分を覗き見して、『いやらしい男ね』とは侮辱も極まる」と言うだろう。 
       でも、この際あなた(デミトリ)の優れて上品な部分や、磨かれた美意識などには興味はないわ。……サキュバスの特殊能力は男の「いやらしさ」を前提にしているのだもの。 
       それは、肉食獣が獲物の柔らかいお腹を狙って、鋭い爪で内蔵を引きずり出すようなものだ。 
       相手の心の最も脆い壁を壊して、その傷口から溢れる精神力をいただく。彼女ら夢魔が淫魔であるのは、多くの者の弱みはそこであるからだ。心の隙につけ込みそのリビドーを自らの力とする時こそは、モリガンが自分の種族を心から楽しむ瞬間。 
       この種族の女として、長いこと暮らしていると、本当、「愛」も「恋」も遠くなっちゃうわね。 
       と、モリガンは(モリガンの)心の中で(モリガンのイメージする)デミトリに語りかけた。 
       モリガンはあえて自分の身を小さくして(意識を探索のみに専念して)あちこち(精神世界内の情報や仕組み)を調べまわった。 
       自分のセクシュアリティを、そんな風にして調査されたことをデミトリが知ったら、激怒するに違いない。 
       だが……自分の調べていることの下世話さに、自分でも苦笑しながらモリガンは思った。秘密にして置きたいことだからこそ、その秘密を暴くことが相手に対する攻撃になる。 
       さあ、デミトリ、その心の中のもっとも柔らかく、繊細な部分にまでメスを入れてあげるわ。夢を通じて心を引き裂く魔物−サキュバスのみが味わえる残酷な喜びに胸をときめかせながら、モリガンは普通の女性が知ったら一夜で男性不信になりそうなデミトリの記憶や白日夢を調べ上げてゆく。 
       これまでの経験だともう少し横にずれると、性的な事柄に関する記憶が集積されている場所に行けるはず。けど、この際それはいいわ。 
       デミトリの記憶を調べて、デミトリの愛人たちの顔を見るのも面白いかもしれないけど。あ、いっそのこと四百年位前の古い記憶を検索して、初体験というのがどんなものだったか調べて、後で「やっぱり最初は下手だったのね」といじめてあげようかしら。 
       でも、デミトリの記憶の中でも、自分(モリガン)に関する所はしっかり把握して置かないとね。 
       そう思いつつ、精神の中での場所を移動し、デミトリの記憶の中で自分(モリガン)に関するものを引きずり出す。 
       この場合に重要なのは「何をしたか」ではない。「何を考え、感じていたか」である。 
       こんな能力を持たぬ普通の女にとっては、「男が何を考え、感じて自分を抱いていたか」は永遠の謎である。男はたいてい語らぬものだし、よしんば「教えて」と迫った所で本心は明かさない。そもそも言葉で正確に表現出来るものではない。 
       体を重ねようとも、互いの心の中は闇なのだ。 
       しかしモリガンは「男にとっての自分の胸の感触」というようなある意味不気味な記憶まで、探り出すことができる。 
       モリガンはしばしその作業に没頭した。 
       悪意、所有欲、憎悪、欲情、独占欲、執着、征服欲、屈辱感……。特に最近のデミトリの記憶には必ずと言っていいほど「モリガン」の名にダークな感情がからまる。 
       慣れたこととはいえ、こういう感情が自分に向けられていることを実感するのは気持ちのよいものではない。 
      「はあ。ロマンティックな恋がしたいわね」 
       つい、愚痴る。デミトリの視点からの記憶なので、だんだん自分がとても美しいが、高慢で淫乱で身勝手な女に思えてくる。 
      「モリガンって酷い女ね」 
       モリガンはつぶやいた。その独り言にデミトリの記憶の中のデミトリが、「全くその通りだ」とうなずく。モリガンはデミトリ(の意識の一部)と意図せざるコミュニケーションをとってしまいそうな「独り言」はやめよう、と思った。 
       しかしモリガンはとうとう「どこかにあるはず」と思っていたものを探り当てた。 
       その「想い」を自分のものとすると(共感し、記憶すると)モリガンはくすりと笑った。 それは、男の心を狙う妖しい夢魔の笑みだった。 
       モリガンはそこでひとまず記憶を探るのを止め、イメージの海を泳いだ。 
      
       蒼白となったデミトリの唇から、モリガンはゆっくりと唇を離した。 
      「いい夢だったでしょう? 約束通り、命まではとらないであげる。ただ、しばらくベッドから動けないかもね」 
       深すぎる眠りの中にいる男に囁きかける。 
       それからモリガンは、デミトリから貰った服の中から、逃亡用に地味なドレスを選び出した。さらに資金としていくらかのアクセサリーをドレッサーの引き出しから持ち出す。単純に資金ではなく、気に入ったものもいただいていこうとモリガンは思った。たとえば、赤と紅のアーブル模様の珠を連ねた血赤珊瑚の首飾り。彼の望みがよくわかる品だが、モリガンは好きだった。 
      「モリガン様……お支度は済みましたか」 
       少し前から控えていたアデュースが声をかける。 
       彼は数日前にモリガンの部屋を見つけだし、扉を開けられないながらも、大声をあげてモリガンと連絡をとっていた。今回の逃亡は彼との相談の結果でもあった。 
      「済んだわ。逃げるわよ」 
       そう答えて、モリガンはベッドの下から大きさの割に軽い袋を取り出して、アデュースに投げた。 
      「それも、持っていって」 
      「何ですか? これ」 
      「私の血のついた包帯」 
       アデュースは一瞬ぎょっとしたが、こういった。 
      「サキュバスの血ですか。役に立つかもしれませんね」 
       最後にベッドで眠り込むデミトリを振り向き、 
      「さよなら。結構楽しかったわよ」 
       と言い残して、7枚の扉をモリガンはくぐった。 
      
       アデュースの案内で、城の外へと通じる道を彼女はたどった。城壁のすぐ外側に、ジェダの部下のからすの用意する馬車が待っているはずだった。モリガンはろうそくを一本直接握り、石の道を右へ左へと曲がりながら進んだ。 
       と、いきなり何者かが天井から落ちるようにモリガンに飛びかかって来た。 
       不意をつかれたモリガンは、辛うじてかわしたものの、ろうそくを湿った岩に落とした。 
      「ここは、通さないわ」 
       カミーユがそこに立っていた。彼女は背筋をピンとのばし、闇でも見える目を真っすぐモリガンに向けていた。 
       カミーユはデミトリがモリガンのことばかり考えているので気になって、せめてその牢獄だけでも見ようと思って地下に降り、当のモリガンに出会ってしまったのだった。 
      「あら? あなたは誰だったかしら?」 
      「カミーユ様ですね。まずあなたでは、モリガン様にはかないません。お引き取り下さい」 
       アデュースはそう告げて蝋燭を拾い上げた。 
      「カミーユ? ああ、デミトリの女のひとりね。どきなさい」 
       モリガン・アーンスランドの迫力の前に、カミーユは我知らず一歩下がった。 
      「どくわけにはまいりません。貴方様を逃がしては、デミトリ様が悲しまれますもの」 
      「悲しむ? 悔しがるだけでしょ。どうせあの男は、自尊心と肉欲だけで私を欲しがっているんだから」 
       モリガンのいいようにカミーユは一瞬怯んだ。 
      「さあ、どきなさいな。力づくで通るわよ」 
       モリガンがかつんと音を立てて前に出たその時、カミーユは素早く動くと共に大きく翼を広げた。 
      「あら、なかなか立派な羽根ね。それがあの男に忠誠を誓った証しという訳ね」 
       モリガンは笑みを浮かべたままさらに前に進んだ。そのモリガンをカミーユの右の翼が襲う。狭い洞窟内ではかわせず、モリガンはその翼を手で受けた。翼をつかんだ手に激痛が走る。 
       モリガンはその翼を両手で握りしめたまま、ぐっと右後ろにひく。カミーユが右側によろめく。と同時に彼女のもう一方の翼がモリガンを襲った。モリガンは、翼を離さず、身をかがめてそれをかわし、しゃがんだままキックをカミーユの足元にお見舞いした。 
       そのまま、転倒するカミーユの翼を持ったまま、モリガンは背中を踏み付けた。 
      「あうっ……」 
       背中から降りて、一発脇腹をけり飛ばして、モリガンはカミーユの体を踏み越えて、洞窟の出口に向かった。アデュースがそれに続く。 
       だが、角を曲がろうとした時、モリガンの後ろから彼女の頭の大きさの二倍はあるような岩が飛んで来た。 
       とっさにかわして振り向く。 
       カミーユが片膝をついた姿勢で、こっちを見ていた。 
      「やはり、あたらないわね」 
       そうつぶやく女吸血鬼の瞳は悲しげだった。 
       モリガンは笑みを消した。 
      「殺されたいの?」 
      「いえ、ただ……」 
       モリガンは落ちた岩を拾い上げて、構えた。 
       そのポーズは十分過ぎる威嚇でカミーユは震えた。 
      「別にあなたのご主人様が、あなたに今闘えと命じた訳じゃないわ。あなたは余計なことをしないで、自分の体を大切にしていればいいのよ」 
       モリガンは岩を片手で持ったまま、カミーユの方に進んだ。 
       モリガンの唇の両端が、くいっと吊り上がる。 
      「ふふ、あなたはデミトリのお気に入りの、おもちゃのひとつなんだから」 
       ぽんと岩をカミーユに投げてよこす。 
       慌ててそれを受け止め、両手のふさがったカミーユの、肩の辺りをヒールでけり飛ばす。 
       石の重さにバランスを崩して、カミーユが冷たい洞窟の床に、伏せるように倒れる。 
       モリガンはそのカミーユを、ヒールのかかとでざくと踏んでから、胸倉をつかんでびしばしと往復ビンタをかました。 
      「弱い者はおとなしくしてなさい」 
       そう言い捨てて、モリガンは再びその場を立ち去った。モリガンとアデュースが角を曲がってしばらくしたとき、護身用の呼び子の音が高く響き渡った。 
       
       モリガンはヒールの高い靴を両手に握った。アデュースは蝙蝠の姿へと変じた。 
       カミーユの吹いた呼び子の音は、おそらく警備の者の耳に届いただろう。 
       ぐずぐずしてはいられない。せっかく逃げ出したのに、捕まってはたまらない。 
       両者は城の外壁へと通じているはずの、洞窟の通路を駆け降りた。 
       その外壁の脇には、ジェダの手下たる鴉が馬車を止めているはずだった。 
       だが、もう少しで洞窟から出られるという時に、脇の道の奥からどやどやと大勢の声がした。 
      「見つかりましたね」 
       アデュースは小さな声で言った。 
       しかし、モリガンはかまわず進んだ。 
       もはや引き返せないのだ。 
      
       きいん、と高い音がした。モリガンを狙った追手の剣は洞窟の壁を削った。 
       武器がなかったので、モリガンは近くに落ちていた鍾乳石をひっつかんで、男の喉元に突き刺した。 
       倒れた男の手から剣を奪い取ろうとかがみこんだその時、男のもう一方の手が、モリガンの喉をつかんだ。 
       そうか、こいつらも吸血鬼! 
       モリガンは男の手を思いっきりもぎ離して、剣を奪い、男の両手をひじの辺りで切断した。 
       一歩離れて、様子をうかがう。男たちの防具は軽装だったが、肩と胸−特に心臓のあたり−と頭、腰と腹、そしてひじ、ひざは守られている。 
       これは、ケガをさせて戦闘不能にする位がせきの山ね。 
       モリガンは、アデュースを振り返った。 
      「持って来たアレ、燃やして」 
       モリガンは、剣を構えた。 
      「さあ、いらっしゃい」 
       アデュースは洞窟の天井近くのくぼんだ所に、持って来た袋の中身をあけた。 
       それは、モリガンの血の染みた包帯だった。かなりの量がある。火をつけると乾いていた包帯は一気に燃え上がった。 
       モリガンは火を流し目で確認して、近くの男と剣を打ち合わせた。 
      「何をする気だ。この洞窟を煙で満たして。めくらましのつもりか」 
       と男は怒鳴った。 
       一二度剣を打ち合わす。その間にモリガンを取り囲むように、男たちが集まって来た。 
      「えいっ!」 
       モリガンは剣を鋭く突き出して、鎧の肩の継ぎ目辺りを狙った。 
       その時、別の男が後ろから、彼女の頭上に剣を振り下ろした。 
       とっさに交わしたが、その剣は彼女のスカートを大きく裂いた。 
      「あら、いやらしいわね」 
       モリガンは脇にとびのいて、艶やかな笑みを浮かべた。 
       だが、飛びのいた先にも別の男がいて、モリガンにつかみ掛かって来た。 
       それを剣で振り払うが、囲まれた状態では時間稼ぎにしかならない。 
       ついにモリガンは地面に引き倒され、喉元に剣を突き付けられた。 
       モリガンは、アデュースの煙が、辺りに立ち込めていることを確認して言った。 
      「いやよ、殺さないで」 
      「そういうわけにはいかない」 
      「あら、あなたたちの主人は私を殺せと言った? 私を勝手に殺したら、デミトリが怒るんじゃない?」 
       男たちは顔を見合わせた。確かに殺せとまでは言われていない、というより主人たるデミトリはモリガンのおかげでいまだ意識不明だった。そして、呼び子を吹いたカミーユが警備兵たちに告げた言葉が正しいならば、この女はモリガン・アーンスランド。こともあろうに魔王の養女に、あっさり止めをさしていいものだろうか。 
       彼らが戸惑っている間に異変が起きた。 
       男たちはその手から剣を落とし、次々に倒れた。 
       倒れた男たちを見回して、モリガンはゆらりと立ち上がった。同時にドレスの胸元を引き上げて、アデュースを見上げた。 
      「全部使っちゃった?」 
      「仕方ないですよ。この広さですから」 
       サキュバスの血液には催淫作用がある。だから、唾液などと共に、その血を染み込ませた布や香も催淫剤として使われることがある。そして、その煙の濃度が一定以上に達すると、血液に含まれる脳の理性的な部分を麻痺させる成分が、脳のもっと広い領域を侵し始め、やがて煙を吸った者を意識不明にするのだ。 
       当然ながら、夢魔本人と、アデュースのように長年夢魔と行動を共にしている者には効かない。 
       モリガンは、デミトリに使おうと思って、自分の血のついた包帯をこっそりためていたのだった。 
      「さあ、逃げるわよ」 
      「何か、また別の追っ手が来そうで嫌ですね」 
      「来るに決まっているじゃない」 
       モリガンは明るいとさえ言えるほどの声で言い切った。 
      
      
       追手をかわしつつ、ようやくモリガン達は城の外壁の、二本の木に隠された扉から出た。 
       鴉が用意しているはずの馬車を探して辺りを見回すと、連絡通り金色の房飾りを屋根の端から下げた馬車が停まっていた。 
       しかしその馬車は、すでに不審な車両として尋問を受けていた。 
       モリガンたちは出るに出られず、木の陰から見守った。 
       そのジェダの部下は弁舌巧みだったらしく、警備兵は一旦引き返したが、それほど遠くない辺りで警備を続けていた。 
      「そっと近寄るしかないわね」 
       モリガンはつぶやき、アデュースに蝙蝠の姿になるようにいった。 
       彼が変じると、モリガンは小さくなった彼を服の胸元に隠した。 
       そして、モリガンは素早く、馬車に乗り込んだ。 
      「すぐに出して」 
       モリガンの言葉を待たずに馬車は走りだした。 
       デミトリの城を振り返り、モリガンはこの馬車の「代金」のことを思った。 
       今回の逃亡に手を貸す代わりに、ジェダが交換条件として持ち出したのは、「扉」のことを話さないことと、家に帰った後、魔王にデミトリに誘拐、監禁されたことを訴えることだった。 
       モリガンとしは、何もなかったことにしたいような気もしたが、 
      「それによって、あの男が困った立場に追い込まれるなら、喜んで逃亡に協力しましょう。あなたとしても、彼には恨みがあるはずです」 
       というジェダの言葉を部下経由で伝えられ、そうすると約束したのだった。 
      「帰ってからが、厄介だわね」 
       その言葉は服に隠れている蝙蝠に向けてつぶやかれたものだったが、一緒に乗っているジェダの部下たち−御者を入れて4体だった−は独り言に聞いた。 
      
        
      「全く、失礼しちゃうわ」 
       派手な安物の服に着替えた、モリガンはつぶやいた。 
       ジェダの部下たちは不審な車両として呼び止められるたびに、 
      「乗っておられる婦人は、近くにあるAという、金持ちの所を訪れて、次は少し離れたBという貴族の所へおいでになる、高級娼婦でございます」 
       という言い訳をするのだった。 
       本当かと思って馬車を除く警備兵たちも、いかにも娼婦という化粧をして扇で口元を隠しながら、男に慣れた感じに目で微笑むモリガン見て、納得した。 
      「そこら辺にもぐりこんでいるうちの手の者にとっては、好色な貴族や富豪の名なんて簡単に知れますよ。実名だからこそ、皆騙されるんです」 
       とドーマ家の配下の者はモリガンに少し得意げに言った。 
       確かに上手い嘘だとは思ったが、モリガンは娼婦扱いに少し気を悪くしていた。 
       しかし、そのおかげで結構難無く、モリガンの馬車はデミトリの城のことが出来た。 
       デミトリの側もまさか、「地下牢から、モリガン・アーンスランドが逃げた」とも言えず、「家出した美貌の貴族の姫君を探せ」としか下っ端たちは言われていなかった。 
       そのことが、モリガンの逃亡に多いに有利に働いたのだった。 
      
      
       デミトリの城を離れて半日。 
       馬車はマキシモフ家の領地の端辺りまでたどり着いた。 
      「ここは、ドーマ領とアーンスランド領、マキシモフ領が接する辺りね」 
      「よくお解りですね」 
       隣に座っている男が答える。 
       馬車は森の脇を通る道を走っていた。モリガンは時々鳥の飛び出してくる、遠くには大木も多い森を見つめていた。 
       ふと座り直した彼女は、頭がくらくらするのに気が付いた。 
       何か、空気がおかしい。 
      「窓を開けてくれないかしら」 
       モリガンは隣の男に言った。 
      「この窓ははめ込み式です。開きませんよ」 
      「そう。気分が悪いの。どこかで止まって、扉を開けられないかしら」 
      「止まることは出来ません。追っ手が来ますから」 
      「わかったわ」 
       モリガンは疑念を抱きながら、一応そう答えた。 
       彼女は手をくっと握ってみた。だが、手に力が入らない。 
       くんくんと空気の匂いを嗅ぐ。馬車の片隅においてある蓋を開けた小瓶を見る。それは、ドーマ家領名産のアロマオイルのラベルが貼ってあった。天然のグラシルの果実の皮からとるオイルだ。そのツンとする香りに交じって、妙な薬の匂いがする。 
      「止めて!」 
       モリガンは叫び、馬車の扉に体当たりした。 
       けれど扉は動かず、モリガンはジェダの部下に思いっきり頬を殴られた。 
      「気が付いたか」 
      「私も似た手を使ったばかりなのよ。麻痺ガスをどこからか、出しているわね」 
      「その通りだ」と、いいざまに、もう一発反対の頬をひっぱたく。 
       モリガンはもう一度扉をたたいた。ガラスだけが割れた。 
      「力がはいらないだろう」 
       とその男はさらにモリガンのみぞおちに拳を入れた。 
      「あぐっ」 
       モリガンも殴り返したが、意に反してそのこぶしは軽かった。 
       絶体絶命。勝つことは出来ない。扉も開かない。 
       モリガンは胸元から、蝙蝠をつかみだした。ガラスの割れ目から、力いっぱい空へと投げる。 
      「逃げて、アデュース!」 
       少しガスを吸ってふらついていたが、蝙蝠は空高く舞い上がり、小さくなっていった。 
       どうやら、ジェダが用意した部下の中に、空を飛べる者はいなかったらしく、アデュースに向かっては御者の手から炎が放たれた。 
       そのうちの炎のひとつが蝙蝠の翼にあたり、アデュースは森へと落下した。 
      「アデュース!」 
       その時、男がモリガンの首を押さえ、後頭部を思いっきり殴った。薬のせいもあって、彼女はそのまま気を失った。 
      
                         第十一章に続く
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