季節と成長

『キン肉マンII世』の主人公が死んで再生する話の、季節と関連づけられる比喩を扱います。

 

成人のための通過儀礼は「死と再生の儀式」ともいわれます。子供としての自分が死んで、大人として生まれ変わる物語です。

主人公の万太郎が、父親の力と徳を受け継ぐために試練を受け、様々な苦難を経て人間的に成長し、死と再生の過程をくぐり抜ける、『キン肉マンII世』のノーリスペクト編は、構造はすごくまともなビルドゥングスロマン(教養小説)です。
ノーリスペクト編は「死の影」が濃いです。
闘う相手も死を感じさせる相手です。たくさんの人や超人を殺してきた殺し屋集団です。
フォークは鋼鉄の巨人ですし、ハンゾウやボーンは容姿からして死神です。このシリーズで再生するチェック・メイトも、痛みを感じないという、死者のような存在です。(チェック・メイトが死を象徴する存在である、ということについては赤の騎士で)
そしてザ・ニンジャが万太郎の目の前で殺され、彼は「死」を強烈に意識します。
一度死んで生まれ変わるというのは、まさに万太郎対ハンゾウ戦の中で展開する物語です。リングから「奈落の底に落ちた」万太郎に、ニンジャはこう語りかけます。ちなみに奈落は地獄のことです。

「…慌てるな。おぬしの恐れの心が死んで、新しいキン肉マンII世が今、生まれたのだ」
『キン肉マンII世』11巻より

そして、万太郎は死にかけましたが、死んではいませんでした。
ニンジャが彼を救ったのです。
一命をとりとめた万太郎に、死せるニンジャの霊は続けてこう言います。
麦が逞しく芽ぶくためには、種子が死なねばならない。勇気ある万太郎が芽ぶくためには、恐れある種子の段階の万太郎が一度死ぬことは必然だったのだ。
この「一粒の麦もし死なずば」というのは、聖書が元となる有名な例えです。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
聖書:ヨハネによる福音書12章20〜26節より

またこの比喩は「死と再生」のみならず、「自己犠牲」の尊さを語ったものでもありますので、死者の自己犠牲が生者を助け、助けられた者が再生する物語にふさわしい比喩ですね。農耕民族の「死と再生」の比喩は種子で、狩猟民族は生贄だといいます。

また、ノーリスペクト編は舞台も考え抜かれています。
戦いの場は、「牢獄」「清水寺の舞台の前の高楼」「城」です。

「牢獄」はフォークおよび他のノーリスペクト編の面々が囚人であることからでもありますが、フォーク戦のテーマが「恨みや憎しみなどへの囚われからの解放」だからでしょう。

「清水の舞台から飛び降りたつもり」は「決死の覚悟」のたとえです。
更にリングは「清水の舞台」の前の「やぐら」に設置されています。
やぐらなのは、この場合「孤高」と「自然に囲まれている」ことが重要だからでしょう。一人で自然と同化するのが無我の境地というわけです。

「城」は、王になる者が試練を受ける場として典型です。特に首里城は、山の上の城ですから、最終的な試練の場にふさわしいですね。王位争奪編も城で闘っていました。

このノーリスペクト編は物語のオープニングとミンチの容姿からもわかるように、『スター・ウォーズ』を参考に描かれています。
スペースオペラを名乗るスターウォーズは、「西洋の伝統的な少年の成長物語」です。おそらくこのシリーズでゆで先生が描きたかった物語は、そういうものなのでしょう。

では、伝統的な役柄への二作品の登場人物の当てはめゲームをしてみましょう。

「英雄として成長する少年」のルーク・スカイウォーカーは万太郎、「援助者としての兄弟」のハン・ソロはキッド、「主人公を援助する敵の娘」のレイアはチェックで、「志を伝えて死ぬ師匠(ついでに亡霊化)」のオビ=ワンはニンジャで、「師匠の仇」としてのダース・ベイダーはハンゾウ、「子の自立の際に殺される親」であるルークの養父母はミート、言うまでもなく「若者を導く老賢者」のヨーダはミンチ。
ダース・ベイダーのように「倒すべき父」で「許すべき父」というのは、今回はいませんね。
おそらくボーンにとってのキン骨マンが、それにあたるのでしょう。

 

『キン肉マンII世』のノーリスペクト編では、主人公は「炎」で、敵は「氷」で象徴されます。これは「情熱」と「憎悪」の表現でしょう。ノーリスペクト編は「時は4月」で、舞台は「雪解けの北海道」から「桜咲く京都の川縁」へ移動し「海開きの沖縄」にたどり着きます。北海道では4月が雪解けで、京都では花見、沖縄では4月に海開きです。日本列島が縦に長いことを利用して、舞台効果をあげています。川も海も含めて水は「氷が溶けたもの」だと思います。

たまたま4月なのではなく、冬から夏への季節の移り変わりと、万太郎やチェックやその他の登場人物の心の成長を重ねているのでしょう。

ここで原作から雪解けと心の変化をからめた比喩を引用しましょう。

「雪は石だらけの地面ではなかなか消えぬが 耕された土地ではすぐ消える…」
『キン肉マンII世』11巻より

古代の神話では、春は「冬の間死んでいた、大地が再生する」とか「死んでいた種子が再生する」季節です。

大地の女神の死と再生を描いた神話で、最も日本人に知られていそうな話は、ギリシャ神話の「死の国(地下の国)の王であるハデスが、大地の女神であるデメテルの娘、ペルセフォーネを花嫁として地下の国に連れ去る」という話です。
母親は太陽神の援助で、娘を取り戻しますが、娘は死の国の食べ物を食べたため、一年の三分の一は死の国で過ごします。
その時期が、冬です。古代ギリシアでは一年は「春・夏・冬」の3つの季節にわけられていました。
冬があるのは、大地の女神が娘のいない時期を、憂鬱に引きこもって過ごしているからだと説明されています。
大地母神自体が、死と再生を繰り返すのではなく、その娘が死と再生を繰り返すという、ワンクッション置いた感じの神話ですね。

バビロニアの神話に、豊穣の女神イシュタルが冥界下りをする話があります。
これは、イシュタルが恋人のタンムーズを求めて冥界に下るが、姉である冥界の女王エレシュキガルに殺されるという話です。彼女が地の下に降りてしまってから、牛も人も愛を交わさなくなって、子が生まれなくなりました。
それで、従者が神々の王に頼んで、愛の女神を復活させるという話です。参考『ギルガメシュ叙事詩

この神話は男である植物の神が死と再生を繰り返す、という系列の神話でもあります。バビロニアのタンムーズは、半年の間を地上で過ごし、残りの半年を地下で過ごす神です。彼が地上にいる間は、穀物や野菜が育ち、彼が地下に行くとそれらは枯れます。古代オリエントには、春に先立って女達が泣き叫んで、この神を地上に呼び戻す儀式がありました。

バビロニアのイシュタルはシュメールのイナンナの系譜をひき、エジプトでは前述のイシス、フェニキアではアスタルテ、悪魔となってアスタロト。
ギリシャにおいてはアフロディーテ、ローマにおいてはヴィーナスといわれています。
ヴィーナスとアドニスの神話は、イシュタルの神話が元だといわれます。
美少年のアドニスは死の国の女神であるペルセフォーネと、ヴィーナスに愛されました。彼を巡って争いが起こり、彼の年は、3つに分けられ、彼自身の季節と、ペルセフォーネの季節と、ヴィーナスの季節とされました。そして彼は彼自身の季節とされた時期にも、ヴィーナスといることを選びました。アドニスは一年の三分の一を、死の国で過ごします。
先のイシュタルの神話では、植物神タンムーズが死の国にいる季節が、冬、なのですが、この物語では、ただの三角関係の話になっています。
おそらく、デメテルの神話で「冬」が説明されているからでしょう。

ノーリスペクト編は、自然と歴史を感じられる、野外の名所にリングがあります。舞台設定や物語の構成と比喩や象徴の並びは「季節の移り変わりに、様々な死と再生と成長を見る」という、恐ろしく古い自然と人間に関する神話を背景にしていると思います。
小難しいことをぐだぐだ言わなくても、冬は死や眠りの季節、春は再生と目覚めの季節、夏は情熱と成長の季節ってことは、現代人にも理解できる感覚ですよね。
大人になってよりそういうものを理解できるようになる人と、大人になって忘れる人がいるのです。


初出2006.10.12 改訂 2007.4.13

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