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 〜軍天使ライラ・瞬間接着剤の章

第五章

1.

 ついに開場の時間を迎えた、石造りの巨大な多目的ホールに、何人もの観客たちが飲み込まれていく。現代と違い、手ごろな娯楽に飢えているとは言え、逆に、むしろ生活にゆとりや余裕があるとも思えない一般の庶民のこと、この観客動員数はなかなかどうしてたいしたものである。もっとも、その実、極限以上に切りつめたファイト・マネー(中にはただで闘うというバトルフリークも少なくないのだ)や、当座、使用の予定のないホールの活用(街から助成金も出るのだ)を使った徹底的なコストダウンにより、入場料を適当な額に押さえた上、なんのかんので所詮は市内行事の域を出ない、会場の手近さ、そして何より財団の広報部の手腕によるところが大きい。

「ん? でも、みんな遊びに来るから、今日は商売になンないよ」

 なじみの商店での、麗の殺し文句だ。現在なら虚偽勧誘ともいえる、このいいかげんな殺し文句が、実際に効果を持つあたり、街の気風がおおらかというか、お祭り好きというか、いいかげんというか。

 照明を落としたホールの中、攻撃的な中にどこか郷愁的なメロディをもった、欧州系のヘヴィメタルにも似た旋律が流れる。ホールの西の客席を潰したステージで、それぞれのパートを熱演する3人の女性の姿を、ホール中央の天井から釣り下がった、魔法工芸品の水鏡(正確には、薄い水晶膜で挟み込んだ、液状水晶である)が、彼女らの周りに設置された水晶玉に映り込んだ映像を、巨大な幻影に投影している。さすがに、美人の産地としても名高いワーレンのバンドである。いずれ劣らぬ美女ぞろいだ。

 ちょうど、皮膜のない蝙蝠の翼に似た鉤翼を背から伸ばし、悪魔を思わせる、鉤のついた尻尾を生やした、黒髪の魔族の娘がキーボードを奏でる。黒目がちの童顔の割に、強い意志を思わせる少し太目の眉、それに、少し寂しげに尖った唇が印象的などことなく猫に似た少女。魔術師ギルドの総帥、ワーレン最強の魔道師リンダのお気に入りであり、ライラの親しい友人の一人でもある、マディと言う名の、鉤翼族と呼ばれる魔族の娘。

 その横でギターを奏でているのは、白い革の短衣とポニーテールが印象的な、一見すると、バンド活動とは似つかわしくない、おとなしげな女性。年の頃は20代前半と見えるが、実際は20代も後半なのは、そのはかなげな容貌によるものか、それとも彼女の魔道師という肩書きがもたらすものか。そのおとなしげな外見とは裏腹に、冷酷な魔女の顔と、頼りになる姉御肌な顔の二つの顔を持つ、ワーレンきっての策略家でもある策士。マディの保護者であり、ライラの後見人でもある、ワーレン最強の魔道師の二つ名を持つ、魔術師ギルド総帥の、リンダ・イリーナ。

 そして3人め、二人の背後で激しくドラムを叩くのは、180センチを超える長身からスティックを叩きおろすパワフルな、ウルフカットのワイルドな美女。グラマラスな中にも屈強な肉体は、純粋な人間ではなく「鬼」族...不破烈堂の如き喩えではなく、本物の鬼...の血を引くとわかる、半魔の女。紅の傭兵の二つ名を持つ「鷹の団」の団長、紅の鷹のイシュトバーン直属の精鋭部隊、十本刀にも客分として名を連ねる腕利きの傭兵「明王」「超A級喧嘩師」の二つ名を持つジギィ・パンツァーシュレッケ。

 この3人に、ヴォーカルである、アスガルドの王女、最強の軍天使ライラ・ラグナスヒルドを加えた4人が、彼女のバンドのフル・メンバーなのだが、今回、ライラは試合で参加なので、こちらには顔を出していない。むしろ傭兵団でやったほうがよさそうな人材の集団だが、これでなかなか技量も人気も高いのだ。特に、女ばかりでしかも美人ぞろいというのも点数が高い。

 そんな彼女たちも、ヴォーカルの天使の欠けた今回のセッションはいささか勝手が違うのか、いつにも増して、曲に寂しげな響きがある。それは、天使の抜けた彼女たちが、魔女、半魔といった闇の属性に、より傾くせいか、あるいは、これから繰り広げられる、仲間の悲劇を予期しているかのようですらあった。

 暗いホールを流れる、ノスタルジックな旋律。天井から下がった大画面に、それぞれのパートを、汗の雫をきらめかせながら熱演する3人の美女。そして、幾条もの魔法の光条がランダムに床を嘗め、そして、曲のフィニッシュと共に、ホール中央のリングに集中する。

 四方にロープを張った、四角いリングの中央に立つ、タキシードにネクタイの麗。手に持っているのは恐らく、拡声の魔化のかかった魔法の杖か何かだろう。杖に向かって、静かに語り掛ける麗。だが、その声は杖にかかった魔法により、ホール内の人間すべてに、等しく、すぐ側で彼女が語り掛けているかの如く、皆に届けられる。

「れでぃす、えん、じぇんとるめゃん」

 口元を手で覆い、いささか声をくぐもらせた麗の声が、ホールに響き渡る。わずか十六の少女とはおもえぬ、座った心臓の持ち主である。

「ぇ本日はァまことたくさんの皆様のお越し、大変ン、ぁありがとぅございますゥ」

 わざとらしくビブラートをかけた声、芝居がかったゼスチャが、頭上の水晶板に大写しになる。胸元を大きく開けたタキシードの下、白いブラウスと、黒いサスペンダーとネクタイで強調された、年の割に大きな胸を自信ありげに張って見せ、まるで臆するところのない、若い主催者は力にあふれた視線を、会場、ホール内のすべての席に向けて走らせる。無論、彼女の側から、客個人個人の識別などは不可能な芸だ。あるいは、それらすべてを一個の「群集」と捕らえればこその、この自信なのかもしれない。

「ンこれよりィ、第、3回のォ、ワァレン無差別級格闘大会を開催いたしますゥ」

 大きく斜め後方を振り仰ぎ、手を開き、ちょうど、先ほどまでバンドの3人がいた方の別ステージを指し示す。と、今度はステージの後ろにしつけられた選手入場口に光が集まる。

「それではァ、選手入場ォ!」

 麗の声とともに、いつのまにかステージをあけ、そのサイドに陣取った楽団が、今度は景気の良い入場曲を奏ではじめる。その入場行進曲と、麗の歯切れの良い、選手紹介のナレーションに従い、第一試合の選手から、順に、リングに向かって選手が会する。

 第一試合の、齢100を超えると言われるにもかかわらず、いまだ20代にしか見えない、瑞々しい肌と、東洋系のエキゾチックな顔立ちをもつ、麗と同じような道士服を纏った、細身の女。兜卒天と同じ中国系の、彼の三人の師の一人、仙術使いの宇名月美鈴という、女格闘家。

 同じくその対戦相手は、黒いボディコンシャスな短い服と、同じ黒の革の長い上着を纏った、長い黒髪の、妖艶な雰囲気の女。一見街娼の様ですらあるが、これで北の大国アイルランド、すなわちバージィの祖国、カステポーの領主、竜帝の異名を持つビアレス・リュケイオンの五色の側近の一人、赤のレイスリーネと呼ばれる、竜帝屈指の武官である。

 続いて第二試合の選手である、二人の男。JKDと呼ばれる流派を学んだ、しなやかな鞭のような体を持った、とぼけた雰囲気の男、スパイクと、対するのは街随一の「達人」と呼ばれる、ロゼ骨法道場最高師範、「武神」ロゼ・フィズの孫、2mのしなやかな長身を誇るキール・フィズ。

 そして第三試合の選手。170cmに満たない身長と、50kgを切るのではという華奢な体躯に、結った黒髪が余計に軟弱な拳法服の若者、兜卒天と、麗の見立てた純白メッシュの水着に、同じ白のレガーズ、グローブの天使、われらがライラの入場である。

 いささかハイレグ気味の水着の、股間のVゾーンを柔らかい曲線で膨らませる恥丘が、彼女が歩くたびに左右に首を振る。元々がズボン党、それも、かなり余裕のある、脚の線が出ないゆったりしたものを愛用している彼女のこと、一旦は麗にほだされて認めたその恰好も、何百という観衆の前でさらすのはいささか恥ずかしいのか、日頃の自信にあふれる彼女からは想像もできないほど動きがぎこちない。それに、鋭角的に露出した臀部や恥丘を気にして、無意識のうちにちらちらと手で隠そうとするその動きが、かえってその場所に見るものの目を集中させてしまう結果になる。

 すらりとした、長い脚の露出した水着の恥じらいに、少し眉根を寄せて弱々しく行進する彼女の姿は、他の、正直、心底殴り合いの好きな連中の昂ぶった空気の中にあっては、むしろ痛々しくすれ見える。

 無論、多くの観客には、そんな空気の違いは感じられまいし、それ以前に気にもならないだろう。だが、これからそんな天使の身の上に起こる喜劇を知る者にとっては、その痛々しさが余計に劣情を刺激し、あらかじめ仕組まれた物語の、悪趣味な伏線にすら見えていた。

 周囲四方の観客が、皆、闘技大会の興奮に昂ぶる中、一人だけ、獲物を待つ、澱んだ底無しの泥沼の期待を胸に、静かに冷笑する男の姿。口の端を心の底からの嘲りに歪め、懐中から取り出した酒袋の中身を少しあおり、何も知らず、純粋に試合を期待する傍らの、見ず知らずの男に、静かに、ねっとりと声をかける。

「兄ちゃん、あの金髪の天使様、どォ思う?」

 少なくともこの一両日は着た切りらしい汚れた、革の服と、くたびれた無精髭に、目だけはぎらぎらと不吉な光りをたたえた見知らぬ男。その男に、不意に声をかけられた若者は、その男の目の光に、見る間に興奮が冷めていくのを感じつつも、男の問いに、答えを返した。

「金髪の天使、って、ライラさんかい? 強いよ。あの人は。剣持ちなら、今回の大会のメンバーでも1、2じゃないかな? この前も、街の広場で余所者のチンピラ数名を、一瞬で戦闘不能にしたっていうし。素手の方は知らないけど、結構やるんじゃないかな?」

 恐らくは、何も知らない男が、性差混同の試合に不安を覚えての質問だろうと、好意的に解釈して自分の試合予想を告げる若者。男女の性差による身体能力の差には、正直歴然たる差はある。だが、本来、その差を解消する為の手段が、技であり、流派なのだ。そして、その意味においてはライラは、確かに、こと剣術に関しては流派とまでは呼ばれぬまでも、優れた師につき、優れた技を修めた、優れた剣士であった。

 だが、若者の当たり障りのない予想の言葉を耳に、男は、若者がまるで的外れな答えを返した哀れな愚か者だとでも言うように、冷めた目と淡い嘲笑をもって、そうじゃない、と冷たく笑った。

「そうじゃない、あの水着から伸びたいやらしい足と、盛り上がったケツとドテを気にしてる馬鹿みたいな勘違い女王様を、滑稽だ、とか、犯してやりてぇとか、そう、思わないか、って聞いてるんだ。あのクソ生意気そうな女が、大勢の観衆の真ン前で、無様に赤ッ恥かくハメになったら、笑うか? って聞いてるンだよ」

 妄執、といっても良いほどのドス黒さを感じさせる男の、ねっとりとしながら、乾いた声に、若者は本能的に、男の持つ危険さを感じ取っていた。

(おいおい、コイツ、ヤバいんじゃねーの?!)

 文字どおり狂人でも見るかの目で、謎の男を見やる若者。こんな危ない男に関わるべきではない。との本能的危機回避の直感が、もう、この男には関わるなとの危険信号を告げる。だが、それとは反対に次の瞬間には、男の言葉が、天使と、この試合を楽しみにしている自分と、その他周りの人間すべてに対する嘲りと冒涜であるとの怒りが、むくむくと盛り上がって来る。関わるべきではないとの思いと、異端者への怒り。だが、会場の持つボルテージの高さが、その唾棄すべき妄執を看過すべきではないとの義務感に、心の天秤を傾ける。若者が、怒りの表情もあらわに狂人の上着をつかみ、暴力的に挑みかかる。

「あンた、何、ワケ解ンないコト言ってんだよ! おかしいんじゃねぇの? そんな考え方はよォ...」

 だが、若者の言葉はそれ以上は続かなかった。男の手が、ゆっくりと若者の肩に伸び、その右肩を万力のようにしっかとつかむと同時に、右手がすばやく腰の短刀を抜き放ち、真正面から喉の真ん中を、頚椎にまで刃が食い込むほど深々と突き立てたのだ。

 若者の目が無言のままに見開かれる。短刀を軽くひねり、ご丁寧にも頚椎の断裂を確認して、突き立てたのと同じすばやさで刃を引き抜く。恐ろしいことに、どれほどの修練の賜物によるものか、紙一重で頚動脈を避け、気管と食道のみを貫いた刃の後からは、じわりと溢れ出す血の他は、ほとんど、血の吹き出す気配はない。赤黒い傷口からしみ出す血が、ごぼごぼと泡立つ。首への、刃による裂傷にもかかわらず、死因は出血死ではなく、頚椎断絶によるもの。

 そして、片手で若者の身体を支えていた男が、静かにその肉体をもとの椅子に腰かけさせる。恐らく、殺された若者すら、何が起こったのか解らぬままに、その命を断たれているはずだ。

「あの女が、強い? 何寝惚けたコト言ってンだよ。ンなコトぁ先刻承知さね。あのバケモノは、お前ェが反応できなかった、このオレ様ですら、反応できねェ、正真正銘のバケモンなんだよ」

 ぐったりと項垂れ、ぼとり、ぼとりと血を吹きこぼす死体の耳元で、世間知らずの若者に、常識というヤツを教える人生の先輩のように、決まりきったことを、いささかの面倒さを感じさせる口調で囁き、聞かせる男。そして、男は、何事もなかったかのようにもとの席...死体のすぐ、右隣の席に腰を下ろし、彼と、その他数名の同志しか知らぬショーの幕開けを期待して、再び、酒袋に口をつけ、ちびり、とその中身をあおった。

 

2.


 第4試合の選手二人に続いて、最終試合の選手二人がステージに向けて行進する。方や、漆黒の僧衣を脱ぎ、鍛え上げられた鋼線を編んだような、細身ながらも力強い上半身をむき出しに、さながら巡礼者のように静かに、足を進める「悪魔」ジョージ・レオン神父。

 一方は、対照的に生ゴムを充填したチューブを編んだザイルを幾重にも編み上げたかのような、分厚い筋肉に覆われた東洋人。野武士を思わせるまばらな無精髭に伸ばし放題の月代、全身に刻まれた傷を誇らし気に、隠そうともせず、玉座へ向かう次代の王のごとく自信に満ちた足取りでリングへと向かう、「鬼」。
不破烈堂武蔵である。

 いやが上にも盛り上がる、満場の観衆をことさら、わざと、焦らすかのようにゆっくりと足を運ぶ二匹の魔物。その様子を、ひとり、焦れったい思いで、一刻も早くこのリングへと上がって欲しいと、切なく祈る一人の娘がいた。

 彼等より、一足先にリングに上がり、二人と、そして、開会のセレモニーの完了を待つ、金髪、純白の翼の戦乙女、ライラ・ラグナスヒルドである。

(...うぅ...。なんでだ。入場式の前に、おしっこに行きたくなると困るから、ちゃんと、トイレには行っておいたのに...)

 いつもは凛々しく吊り上がった眉を、八の字にひそめ、眉根を寄せて、困ったように、しかし、それを他人に気取られぬよう、努めて平静を装いつつ、心の中で小さく愚痴をこぼすライラ。

(おかしいな...。お腹が、冷えたせいだろうか? う...ん、いつも、こんな格好はしたコトないからな。さっき、烈堂のヤツにおもいっきり、お腹、殴られたせいかも? うん、そうだ。アイツが悪いんだ。麗は、悪くないな...)

 無意識の内に、少しでも、尿意から意識をそらそうと、いろいろ頭の中で考えを巡らせるライラ。

(...せっかく、小鉄のくれた、あの吐きそうな薬、全部飲んだのに、ひょっとして、あの薬、効いてないんじゃないのか?!)

 真相を知らぬ彼女の、むしろ呑気ですらある考え。もしも、彼女の考えを、真相を知った悪意ある存在が察知したなら、おそらくは嘲笑と共に彼女に、本当はちゃんと、あの薬は効いているのだ、と、思わず告げたくなるであろう、滑稽なまでの無知。だからといって、彼女の愚かさを責めるのは、やはり、酷というものであろうか。

 もじもじと、無意識に腰をくねらせるライラ。普段のゆったりした長ズボンであれば目立つまいその動きも、ほとんど脇腹まで切れ上がったハイレグの強調する股間部ではダイレクトに目に見える。それに、腰まで有る長い金髪の微妙な動きがその傾向に拍車をかける。

 もじもじと、今はまだ、我慢のできるレベルの痛痒に耐えるライラ。

 そして、マットにようやく、最後の2人を含む、10人の選手の姿がそろった。

「それではぁ、大会開会に先立ちまして、審議委員長のロゼ・フィズ老師に開会宣言をお願します!」

 そんなライラの心情には露程も気づかぬ麗が、男装の胸を張り、傍らの老人に拡声の魔法杖を手渡す。それを受け取ったのは、小柄な、黒い拳法服を纏った、禿頭白髭の、いかにもといった仙人然とした容貌の老人だ。骨法と、八卦掌を修めたこの老人が、今もって街でも、「素手であれば」最高の拳法家と呼ばれ、ムーンティアの王子アレス、魔女剣士ヴェルフィア、そして一時はあの不破烈堂武蔵にも技を教えた老師である。

「ふぉふぉ。元来武術の武の字は、矛を止めると書いて武である、とか言うように、まぁむやみに蛮勇を振るうのはよくないものなのじゃが、まぁ人として、修めた技を試してみたいという気持ちは解らんでもない...」

 老人が、まずは武道家の心構えを説くかのように、おもむろに話を始める。

 日頃の、どちらかというといささかいいかげんな印象すら与える老人の態度から、この挨拶は長くはないだろうとたかをくくっていたライラが、この予想外の展開に、少し、泣きそうな表情を浮かべる。一旦、気にしてしまった尿意が先程から刻一刻と、少しずつ、少しずつ増していくもどかしさ、苦しさに、しかし、無論、彼女の性格から言って、この何百もの観衆の前で、「おしっこにいかせてください」などといえるはずもなく、ただただそのしびれたような痛痒を我慢するしかなかった。

「じゃが、そんなうちは、正直まだまだ修行が足りんと言ったところじゃ。己の心を律せぬ武道家なぞ、ならず者予備軍でしかないわい...」

(うぅ...)

 老人の、説教にも似た挨拶の言葉、その、己を律する、という言葉に、妙に今の自分の情けなさがだぶり、天使は、少し悲しくなってしまうのを感じた。己の心なり、体なりの欲望を、自分で制御できないのは、確かに、恰好の悪いことだ。元々が潔癖なところのある彼女のこと、そういうだらしのないことは、喩えそれが生理的な、どうしようもない欲望であろうと、いや、生理的な、原始的な欲望であるからこそ、それが不潔なものであるかのような錯覚を覚えてしまうのだ。

(でも...早く...おしっこしたいよぉ...)

 だが、そんなだらしなさを律しようとする心がある反面、元々が天界の王女として何不自由なく生活を送り、そう、精神的に揉み鍛えられる機会もなく成長した彼女にとって、こういう状態での精神の力というのは、彼女の心の気高さや美しさに比して、あまりにも弱々しい、アンバランスなものに育っていた。

 苦しみに、思わず心の中で泣き言をもらす自分自身の心の弱さを、もう一方で叱責しながら、軽く足を開き、背筋を伸ばし、唇を引き締め、まずは外側から、強い自分を取り戻そうとするライラ。

「もともと、人間の心の中には、自分が他人より優れていると証明したいという心や、自分の力を誇示したいとおもう心などがあるものじゃ。だからこそ、人の歴史の中には、多くの、なぜに理解しあえないのか、なぜに矛を引けぬのかという争いが多くあったし、これからもありつづけるじゃろう...」

 意識を自分の内面に向けない為、真摯な表情で、老人の演説に耳を傾け、老人の語る人間というものに考えをまとめる。

「じゃが、わしはあえて言おう。そういった輩は、本当の強さなど持ち合わせてはいないのじゃ。己が強いと信じられぬものに、本当の強さがあるはずがない。そして、己の強さを本当に信じられるものなら、決してそのような即時的な主張に訴える必要はないのじゃよ」

(己の強さを信じる。か...)

 老人の言葉に何かしらの感銘を受けたのか、もう一度自分の心に喝を入れ、尿意をこらえようと頑張るライラ。何か決意したように、力に満ちた光を瞳に灯し、唇を噛み、しかし、生理的な欲求を、そう簡単に押え込めるはずも無く、また、眉を寄せ、そんな自分の情けなさに唇を震わせ、弱々しく目元を潤ませるライラ。だが、それでも必死に平静を装う天使の姿に、その異常に気付く観客はそうはいなかったはずだ。明らかに、最初から彼女だけをターゲットとしていた、数名の男たちを除いて。そして、その数名にとっては彼女の葛藤、一人で、必死に凛と粋がり、必死に尿意をこらえ、こらえきれずに千々に乱れる心の変化を感じさせる表情は、今すぐにでも立ち上がり、嘲り、笑い飛ばしたくなるほど滑稽で、底が浅く、そして、いとおしく、可愛らしいものだったことであろう。言うなればそれは、愛玩用の小動物の可愛らしさではあったが。

「ジジィ、話、長ぁい」

 そんなライラの気持ちは、無論知ろうはずもなかったが、老人の開会の言葉に、あろうことか司会の麗が文句をつける。

「おいぼれのくせに説教たれるな〜」

 無論、本気ではないのであろう間延びした、けだるい口調で老人に文句を言う麗。麗にしてもロゼにしても、互いにかなりの有名人なので、ロゼがただのおいぼれでないことも、麗が本気で老人を軽んじているわけでもないことを、皆、知っている。知っている上で、観衆がどっと湧いた。

「おいぼれとはなんじゃ! 言っておくがワシはフェリアのじいちゃんより強いぞ!」
「フェリアのじいちゃんって、誰?」

 麗と老人の掛け合い漫才が続く。

 一瞬、麗に感謝しかけたライラであったが、じきに、今度は麗を恨みたい気分にさせられる。挨拶にまきをいれようとして、逆に自分がセレモニーの進行阻害するはめになっている麗を捨て置き、老人がさっさと挨拶を続ける。

「え、願わくば、今回の大会に出るものも皆、己の強さを信じ、己の鍛練に誇りを持って、そして、同じく厳しい鍛錬を乗り越えてきた対戦相手たちの克己に尊敬の念をもって、試合にあたってもらいたいと思う。以上じゃ」

 街随一の達人とうたわれる老人の挨拶が終わる。

「さんきゅー! ジジィ!」
「ジジィ言うな!」

 真面目な、日頃の彼とはうってかわった真面目な挨拶の閉めに、司会の麗が天衣無縫というよりは無礼千万ないいかげんさで老人の背を叩き、話の進行をはかる。

「えっと、そんでぇ」

 タキシードの張り出した胸ポケットから手帳を取りだし、ぱらぱらとページをめくる麗。と、照れる仕種も無く手帳を戻し、そして、声高らかに、試合の開始を宣言した。

「それでは、まもなく第一試合を開催します! 選手退場!」

 麗のその言葉に、ほっと安堵の息を漏らすライラ。だが、まだ安心はできない。まさか文字どおりトイレに飛んでいくなどという恰好の悪い真似のできる彼女ではなく、また、退場にも順番がある。ゆっくりと、かすかに膝を震わせながら退場の時を待つ。

 無意識に、しなやかな腕の先の、剣を持つ女とは見えぬ細い指を持った手が股間へと伸びる。軽く中指を立て、まるで尿道口を指で栓でもするかのように。

 そして、その指がその部分に触れた瞬間、まるで電気でも走ったかのように、股間から指を離す。無意識の仕種を、意識が、慌てて制したのだ。

 ようやっと訪れた退場の時、かすかに目を潤ませ、半開きの唇と膝を小刻みに震わせながら、ライラは安堵のため息を漏らす。だが、そんな彼女に、思わぬ野次が浴びせ掛けられた。

「小便でも漏らしたのか! 天使様よぉ!」

 騒がしい会場の中、一際通る大声に、会場がどっと沸く。無論、100人に99人は、それがただの下品な野次にしかきこえなかったであろうし、いわんや、何の意識にも止める必要のない、無意味な言葉に過ぎなかったことであろう。だが、その一言は彼女自身にとっては、一瞬胸が詰まりそうになるほど激しい動揺をもたらすモノであった。

「なッ!」

 思わず、顔を朱に染め、言葉を失うライラ。だが、その野次があたらずとも遠からずといった、彼女の内情の、要点をついたものだっただけに、彼女自身、その瞬間、とっさに反応できなかった。肯定とも否定ともつかぬ一瞬の沈黙の後、誰に向けるともない恨みがましい光を目に灯したまま、彼女も静かに退場する。

(なんなンだ! 失礼なヤツだな)

 その場から退場し、ようやく、少し落ち着きを取り戻した彼女の心に、今度はむくむくと怒りが盛り上がってくる。もっとも、さりとていって今更、誰の野次ともわからぬ言葉に腹を立て、いわんや文句を言いにいくのも賢くない。精神衛生上よろしくはないが、仕方なく、ぐっと怒りをこらえて、一旦は控え室へと向かう。正確には、控え室の、最寄りのトイレ、であるが。

 さすがに、会場内の盛り上がりに反して、外はまだ静かなものである。何人かの会場係の会釈を当然のもののように受け流し、一路、自分の控え室の最寄りのトイレへと足を向けるライラ。が、目的のトイレの前には、数名のゴロツキ地味た若い男達がたむろし、腰を下ろし、何やら下らぬ話題に盛り上がっていた。

(!)

 トイレの前の通路に腰を下ろし、突如現れた金髪の美女を、口笛を吹いて歓迎する男たち。そのだらしない格好と、好色な目元に、露骨に嫌悪感を顕わにしながらも、一瞬、行くべきか、引くべきかを逡巡するライラ。

「何か俺達めに御用で御座いましょうか? 天使様」

 男達の一人、眠そうな目をした鼻ピアスの男が、にやにやと笑いながらライラに声をかける。男たちの、何か妙に人を馬鹿にしたような、嘲りと獣欲を含んだ視線に、逆に彼女自身もまた侮蔑を含んだ言葉を男たちに返す。

「...貴様らなぞに用はない。とっとと去ね」

 だが、そんな挑戦的なライラの言葉に、男たちは意外とあっさり、道を譲った。全員が、廊下の片側を開け、彼女が、廊下を通り過ぎられるよう、トイレの扉の前に陣を取る。

 その動きに、露骨に嫌そうな顔をするライラ。にやにやとした男たちの笑いは明らかに彼女の真意を知っての、嫌がらせであることを物語っている。

(なんなんだ、こいつら)

「あれぇ? 天使サマぁ、お通りにならないんでちゅかぁ?」

 鼻ピアスの若者が、まさに猫をなでるような声で、逡巡する彼女に話し掛ける。

(こいつら、意識して私に絡んできてるのか)

 正直言って、こんなところでこんな連中の相手をしている余裕は今の自分にはない。正直羞恥心はあったが、意を決し、若者たちの視線をその眼に絡めつつも、わざとらしく入り口をふさぐ彼らの隙間を縫って彼女はトイレの中に入り込もうとする。

 ことさら、若者たちを無視して....言うならば、便所の蝿のように、わずらわしくは思えども、羞恥の気持ちなど持つ必要はないと、自分に言い聞かせながら、若者たちの前を通り抜けるライラ。だが、わざと彼らを無視する天使の足に、少年たちの一人がわざと足を引っかける。

「うわっ」

 思わず、声を出してよろけるライラ。無論彼女も、その程度のことで本当に転かされるようなことはないのだが、今は状況が違った。下腹に集中させていた意識が、瞬間、体のバランスを取る為の平衡神経にまわされ、そのせいで膀胱括約筋が一瞬だけ緩む。その刹那、勢いよく噴出しかけた小水を、慌てて、下腹に力を込めて、押しとどめる。だがそのせいで、いったんは緩んだ膀胱の痛みが余計に増す。屈辱にかぁっと朱の差した美貌の、少し潤んだ、鋭くもどこか弱々しい瞳に睨み付けられ、若者たちがにやりと笑った。だが、もはや彼女に、若者たちを構っている余裕はなかった。ほとんど泣き寝入りにも近い状態で、女性用トイレの一番奥の個室の中に逃げ込む。

 どうにか、これでとりあえずは一安心だ。

 膀胱と、下腹を責め苛む尿意を押さえつつ、こういう場面では不便な、白いハイレグの水着を、慌てながらも汚さぬように気をつけながら脱ぐ。いちいち、全部脱がなければ用のたせない服装というのも不便なものだ。昨夜、麗が来たときには想像すらしていなかった盲点だ。

 そんな、ようやく安心できる今の状況となっては笑って許せるレベルの不便さに、苦笑を浮かべ、便器をまたいで腰を沈めるライラ。下腹から力を抜き、ゆっくりと放尿しようとする瞬間の、尿意を我慢しすぎた痛みに、彼女もかすかに声を漏らしてしまう。

「ンあ・・・」

 だが、刹那。

「天使サマァ? 大丈夫でちゅかぁ?」

 とても彼女のことを気遣っているとも思えぬ口振りで、若者たちの声が、扉のすぐ外から聞こえてくる。明らかに、扉越しに息遣いの音すら聞こえる、すぐ外で、だ。

(ヒッ?!)

 そのあまりの非常識さに憤慨しつつも、逆に、こちらの音も外に筒抜けだという事実に慄然するライラ。いや、それ以前に、この非常識さから言って、彼女が用をたしはじめ、彼女が身動きもままならぬ状態になった段階で、扉を乗り越えて中を覗き込むような不条理や、むしろ扉ごとぶち破ってくる可能性すらある。ようやく開放されるかと弛緩しかけた括約筋を三度締め上げ、今度こそは地獄の苦痛と化した尿意を堪える。

 扉のすぐ外で、若者たちが口々に、口先だけのいたわりの言葉を、嘲りの響きを隠そうともせず、扉の奥の天使に投げかける。思い思いに、扉を掻きむしり、殴打し、中のライラに激しくプレッシャーを浴びせ掛ける。

 一方、個室の中では、ライラが、さながら大蛇に睨まれた雛鳥の如く、体を震わせ、それでも、身動き一つできぬままにその身を凍りつかせていた。下腹部から痺れるように広がる苦痛が、胴体を貫き、舌の奥を痺れさせる。口の中いっぱいに唾液が溢れ出し、緩んだ唇の隙間から糸を引いて零れ出す。

 もう、これ以上は我慢できない。

 放尿する音を、すぐ外にたむろする若者たちに聞かれるという羞恥と、限界まで我慢しぬいた尿意の苦痛に、瞳を潤ませるライラ。熱にうなされたかのように霞のかかった眼を虚空に向けたまま、美貌の軍天使はついに我慢しきれず、何人もの若者が耳をそばだてるそのすぐ扉を一枚越しただけの向こう側で、ついに失禁した。そう。トイレの中、便器をまたいだこの状況でありながら、彼女にとってこの状況は、心理的には、失禁に等しい。

 激しく、水が水を打つ音があたりに響き渡る。

 先ほどまでは、檻の中の猿のように騒がしかった若者たちが、その間は、ことりとすら音も立てず、じっと、声を潜めて音が止むのを待つ。どうにかその音をごまかそうにも、あまりの羞恥心に、ライラ自身、舌が麻痺したかのように、なんの言葉を紡ぐこともできない。

 次第に、水音が力を失い、弱まってくる。

 それでも、なかなかに音は完全には静まらない。

 扉の向こうから、女のぐずり泣きの声が聞こえてくる。

 ついに、恥辱に耐え切れなくなったのであろう。

 扉の中の啜り泣きと、いまだ鳴り止まぬ水飛沫の音に、ついに耐え切れなくなった若者の一人が、狂ったように声を上げて笑いはじめる。それにつられて、今の今まで、修道士のごとく沈黙を守り通していた若者たちが、今度はサバトの悪魔の如く大笑いを始めた。

「ひゃはは! 馬鹿だよこのアマ、泣いてやがるぜ」
「ついいましがたまで、私は天使様でござい、って顔してやがったくせに!」
「お高くとまってても、することはするんだよな!」
「おいおい、この女、まだションベンしてやがるぜ!」

 若者の口々の嘲り、罵詈雑言が、扉の向こうの天使を責め立てる。有らん限りの嘲笑と侮蔑の言葉を彼女に投げかけた若者たちの悪態が、ようやく静まった静けさの中、翌耳を澄ませば、まだ微かに水音が聞こえる。

 ちょろちょろと、頼りない、しかし、確実に間違いない、水の音。

 再び湧き起こる大爆笑。

「どこか悪いんじゃねぇのか、この女」
「一生そこでションベン続けるつもりかよ」
「絶対、どっかおかしいな、こりゃ、」
「ようし、のぞいて、確認してみようぜ」

 そんな言葉と同時に、扉の上部に男の指がかかり、その体重に扉がみしりと音を立てる。 中からその様子を見ていたライラは、思わず、恐怖に身が竦むのを感じていた。たとえこれが戦場で、目の前を敵の刃がかすめたとしても、絶体絶命の危機の中、剣一本で、何人もの男たちと渡り合うはめになったとしても、彼女はこれほどの恐怖を感じはしなかっただろう。だが、今は、逃げ場のない個室の中、いつまでも収まらぬ尿意と放尿に、身動きもできぬまま、ジッと、助けすら呼べずに、若者たちのなすがままにおびえることしかできない。

「や、いやぁ」

 恐怖にガチガチと歯をならす、その柔らかい唇から、小さく悲鳴がもれる。

 扉の上部に引っ掛けた指を頼りに、若者の一人が上体を引き上げ、今度は、肘から先が覗く、次いで、縁無しの帽子をかぶった、チープなドラッグに弛んだ顔が姿を見せる。

「ひょう!」

 若者が奇声を上げる。

「天使様、トイレで全裸で、何やってるんでちゅかぁ?」

 上から覗き込んだ男の、下世話な赤ちゃん言葉に興奮した仲間達が、一斉に個室の扉に取り付き、動物園のヒヒのように、その扉を揺する。

 だが、かつては神界最強のヴァルキュリアと呼ばれた彼女も、全裸で、この狭い個室の中に、排尿も収まらぬとなれば、胎児のように身を丸くして、必死に、躯を震わせるしか、ないではないか。

 若者達がどんどんと個室の扉を叩き、鍵とちょうつがいがギシギシと悲鳴をあげる。

 そして、ついに扉が外れた。

 その中には、和式の便器をまたぎ、青ざめ、可哀想な程におびえた、白い翼の、蛇に襲われたひな鳥のように怯え切った....。

 黄金の髪の、美貌の乙女が、胸に腕を畳み、股間すら隠せずに....。

 その股の間から、ちょろちょろ、ちょろちょろと....。

 いつ果てるとも知れない、黄金の雫を、垂れ流し続けていた。



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