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 第1幕 「生贄」

はあ…。

(せっかくの週末、どうしてあたし残業なんかしてるんだろう…)

麻木早苗は、今までペンを動かしていた手を止め、大きくため息をついた。
手元にあったカップに残っていたコーヒーを飲み干し、時計を見る。すでに時間は、夜の10時をまわっていた。
本当なら、今日は恋人とデートだったはずなのだ。が、突然上司に月曜日の会議用の資料を作成しておけと命じられ、こうして残業に勤しんでいるのだった。

(つまんない…)

それもそのはず。今現在、彼女の目の前で同じく残業に従事しているのが、彼女が社内で最も嫌っている男だったのだから。
彼女の会社は、あるビルの3階を借り切っており、もうすでに他の社員は皆帰った後だった。節電のために、彼女と、彼女の嫌う男…狭山要の座るデスクの周りのライト以外はすべて消され、薄暗い部屋の中で二人は仕事をしているのだ。
早苗は、ちらりと目の前に座る狭山要の顔を盗み見た。
平凡を絵に描いたような、可もなく不可もない男。何がそんなに早苗の気に入らないのかといえば、自分を見るいやらしい目つきに他ならない。
他の社員とは違う、何か欲望をぎらつかせたような目で、狭山は自分を見る。舐めるような、絡み付くような鬱陶しい視線に、彼女はほとほとウンザリしていたのだった。
そして、もう一つ気に入らないこと。もう25歳になろうというのに、自分を「僕」と呼ぶことだ。どこかお金持ちのお坊ちゃんだという噂を耳にしたことがあるが、気持ち悪いことこの上ない。
1年先輩でもなければ、無視してやるのだが…。

「麻木さん、つまんなそうだね」

突然、狭山がデスクに視線を向けたまま、早苗に云った。
図星を指され、早苗は一瞬声を失う。

(馴れ馴れしく、あたしに声かけないでよ)

胸の中で吐き捨て、あまり会話したくはないのだという表情を露わにしながら。

「ええ、そうですね。せっかくの金曜日なのに、残業ですから」

無理矢理笑みを浮かべて、早苗は答えた。狭山は、笑顔を浮かべた早苗を正面から見つめ、満足そうな顔で頷いた。

「そうだね。…どう?仕事終わったら、食事でも」

(ほら、来た)
何かにつけ、食事に行こうだとかお茶でもとか、誘うこの男。下心が表情に全部出てることに、自分が気付かないとでも思っているのだろうか?

「結構です」

力一杯、拒絶の意志を示した早苗に、狭山は一瞬驚いたようだったが、すぐにいつものような薄ら笑いを浮かべてこうのたまった。

「そんなに嫌がることないでしょ。…そんなに否定するところをみると、僕のこと嫌いなの?」

しゃあしゃあと云う狭山に、いつになくむっとした早苗は、反射的にこう答えた。

「当たり前でしょ」

しまった…。云ってしまった。
そう思った時には、遅かった。言葉は彼女の意思に反し、すらすらと彼女の口から飛び出してしまった。

「いつもいつもあたしをいやらしい目で見て、あたしが気付かないとでも思ってたの?いつもあたしの動きを目で追って、誰かと話してると…相手が男だと、すごい嫉妬むき出しの目で、その相手を睨み付けて…。もうウンザリなのよ。あんたなんか、あたしの彼氏でもなんでもないじゃない。あたしに構わないで。あたしをどう思ってるか知らないけど、あたしはあんたなんか大嫌いなの。顔も、声も、大嫌い!」
「…知ってるよ」

早苗の言葉を遮って、静かに狭山は呟いた。

「え…」
「だけど、僕は君のことが好きなんだ。君の意志なんか関係ない。もう決めたんだ。僕は、君を僕の物にするって。…もう、決めた…」
「やめて!」

バン!
デスクを思い切り叩いて、早苗は立ち上がった。
気持ち悪い。何をこの男は云ってるんだろう。そして、何を考えているんだろう…。
立ち上がった瞬間、目の前が真っ暗になった。
(何 …?)
まるで貧血に襲われたように、、目の前が真っ暗になった。立っていられないくらい、平衡感覚がない。

「何なの? あたしに、何かしたの…」

貧血なんか、今まで起こしたことなんかなかった。どうしたんだろう。あたし、どうしちゃったんだろう…。まさか、まさか狭山…、あたしが知らない間に、毒でも飲ませたの?
静かに立ちあがり、相変わらず薄笑いを浮かべた狭山が、早苗に近づき、手を伸ばした。

「来ないで! あたしに、触らないで!!」

伸ばされた手を振り払い、早苗は覚束ない足で後退する。
その間にも、確実に彼女の意識は遠のく。

「…あたしに、触らないで…」
 

(寒い…)
早苗は、何やら寒いことで、目を覚ました。
まだ意識はぼんやりとしていたが、何とか頭を横に振って、自分を取り戻そうとした。が、目を開けているにも関わらず、何も見えない。どうやら自分は、真っ暗な部屋に寝かされているらしい。

(あたし、どうしたんだっけ…?)
まだ覚めきっていない頭で、思い出そうとするが…。

(そうだ、あの男…!)
反射的に起き上がろうとした。が、体が動かない。
改めて、自分がどういう状況で、どういう状態になっているのか、見直してみることにした。
腕は、両手を頭上で括られている感じがした。足は…。

「え…」

両腕を頭上で、左右ともに拘束され、下半身は、両膝をまげ、大きく両脚を開いてM字に縛られているのを感じた時、彼女は背筋が凍る想いがした。
そして…寒いのは、衣服を見に着けていないからだ。

「いや…」

どうして?どうして、自分がこんな目にあうの?あたしが何をしたっていうの?
それもこれも、全部あの男が仕組んだことだ。間違いない。ここはきっと、あの男の部屋なんだろう。
そう気付いた時。

「目が覚めたようだね…」

ふと、彼女の耳に届いたのは、自分をこんな状況に追い込んだ男の声だった。
そう思った瞬間、部屋の明かりが点けられ、彼女はあまりの眩しさに目を細めた。

「狭山さん…」

まだ眩しさに目が慣れない状態のまま、早苗は低く吐き捨てた。

「何のつもりよ。ここはどこなの?あたしをどうしようっていうの?」

一気に捲し立て、早苗は漸く慣れてきた目で、男…狭山要を見据えた。

「ここは、僕の部屋だよ。…周りを見てみなよ」

余裕の笑みを浮かべながら、狭山は早苗を促すように部屋の中を見回した。
部屋の壁は、一面白。だが、所々に何かが貼られてあり、彼女はそれらが何かに気付き、言葉を失った。

「何、これ…」

それは、数え切れないほどの写真だった。どれも、同じ女性が写っている。笑っている顔、沈んでいる顔、真剣な顔、遠くを見つめている顔…。
どれもこれも、全部早苗の顔だった。
狭山が知っているのは、会社での早苗の顔だけのはずだった。だが、そこに写っているのは、それだけではない。あろうことか、恋人と楽し気に会話している、早苗の甘えたような笑顔ですら、そこにはあったのだ。

「どういうこと、これは。どうしてこんな写真、あなたが持っているのよ!?」

信じられなかった。まさかこの男は、休日ですら、自分を追っていたのだろうか?自分が知らない所で、いつも自分を見つめていた…?

「だって、当然のことでしょ?君は僕の物だもの。僕の所有物を、僕がいつも監視してるのは、当り前だよ」

楽しそうに微笑む狭山の顔は、狂気に満ちていた。

「所有物…?」
「そう。君は僕の大切な、人形だからね…」


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